禁転載
屑拾いから帰ってきた時は、いつも軽く砂を落としてからドームに入る。
普段は半ば無意識のうちにやってしまうそれを、今ひどくもどかしく感じるのは早くヒズに話をしたいからだ。
ゴーグルとマスクを急いで取り去りながら、リルヤはドーム内の小道へと駆けこんだ。
「ヒズ! ただいま!」
「おかえり」
「ねえ、聞いて聞いて! 不思議な人に会ったの!」
「アレイ以外にか?」
相変わらずがらくた山の向こうで解体作業に勤しむ青年は、顔を上げぬまま興味がなさそうに返した。
その言葉で人買いのことを思い出したリルヤは、山の前に座りながら先にそちらの報告を済ます。
「―――― と、いう感じだったの」
「そうか」
是とも否とも言わない場合、ヒズの答は大抵「問題ない」という意味だ。
何か間違っていたなら、まず眉を顰められるからそれで分かる。
その点今回のリルヤの対応は、許容される部類であったのだろう。保護者の反応を見て彼女はひとまず安心した。
これで出来れば、他の人買いたちからも避けられるようになれば有難い。
そんな風に自分の思考に嵌まりかけていたリルヤは、しかし「不思議な人間とはなんだ」と話題を戻され、我に返った。
「あ、そうだった、忘れるところだった! 不思議な人に会ったの」
「それはさっき聞いた」
「よそから来たんだって。言葉が分からないから、意味を自動変換させてるって言ってた。だから声が二重に聞こえるの」
「……は?」
ヒズの手の中から丸いネジが一つこぼれ落ちる。灰緑の左目が大きく開かれてリルヤを見た。
「余所から来たって、別のエリアからか?」
「え? 違うと思う。多分、都市の外から」
そうでなければ言葉が分からないはずがない。
12のエリアで使用されている言語は、俗語の違いなどはあっても基本同じだ。
膝を抱えたリルヤは、無邪気に不思議な男のことを思い返す。
「外から来てあちこち移動してるって言ってたよ。奥さんと一緒に」
「外なんかないぞ」
「え?」
「この都市の外には何もない。お前はそれも忘れてしまっていたのか?」
「……え」
リルヤは呆然と言われたことを咀嚼する。工具を置いたヒズの目が、困惑する彼女を真っ直ぐに見据えてきた。
そこに冗談や揶揄の余地はない。少女は言われたことを繰り返す。
「本当に? ルーディルスタイアは外に何もないの?」
「ない。ルーディルスタイアはだから街の名でもあり、世界の名でもある。
この都市の外側は虚空で、そこを強固な障壁に守られながら漂っているのが現状だ。だからこの都市を《浮遊都市》と呼ぶ者もいる」
「……浮遊都市」
想像の中に浮かび上がるものは、暗い海を漂う円形の島だ。
中央に高い塔を持つその島は、明かりのない凪いだ水面をあてどなく彷徨っている。
島の上には細やかな明かりは灯るが、島自体を牽引するものはない。何処へ行くとも知れぬその姿は孤独で、歪なものだった。
リルヤは己の空想から、言いようのない不安がこみ上げてくるのを感じる。
「知らなかった。彷徨都市とは聞いたことがあったけど」
「大体同じ意味だ。記憶を失っても常識はある程度残っているようだったから、知っているかと思っていたが」
「ごめんなさい」
「咎めてはない。普通は大した問題にもならないしな」
それが問題になるとしたら、普通ではない人間に出くわした時などだろう。
―――― 例えば「外」からやって来たと自称する男であるとか。
リルヤは、オスカーとの会話を振り返った。
「私、からかわれたのかな」
「どうだろうな。冗談にしては不審点が多い」
そもそも空から飛び降りてきたということからして、よくよく考えれば異常なのだ。
もしあのまま「記憶喪失を治して欲しい」と言っていたなら、どうなっていたのか。リルヤは保留にした自分の判断に思わず手を叩いた。
そこをヒズの冷ややかな視線が撫でていく。
「どうしてお前は外に出ると、おかしな人間を引っ掛けてくるんだ」
「どうしてかな……」
原因を考えてみても決定的な理由は思いつかない。ただやはり、記憶喪失から来る世間知らずが事態の悪化に一役買っている気がする。
頭を抱える少女に、保護者の青年は呆れ混じりの忠告を投げた。
「言うまでもないだろうが、その男には用心しろ」
「……うん」
「後は、あまり気にするな。記憶がないのはお前のせいじゃない」
「え」
顔を上げると、ヒズはもう彼女の方を見てはいない。元の作業に戻っている彼は、まるで今までの会話自体なかったかのような様子だ。
しかしそれは無関心を意味しているわけではないだろう。リルヤはもそもそと立ち上がると、着替えをする為に地下へと向かう。
「―――― ヒズ、ありがとう」
階段を下りる前に足を止めて振り返った彼女に、青年は軽く手を上げて応えた。
※
「やっぱり記憶喪失っていうの、問題なんだと思う」
「え、今更?」
砂だらけの引き出しを物色していたカナンは、ぽつりと洩らされた少女の言葉に当然の反応を返した。
今日屑拾いに来ている建物は、ドームから《デッドエンド》を越えた更に先にあるエリア境界間近の廃ビルだ。
こうなる前は何かの事務所だったのだろう。壊れた端末ばかりが数十、等間隔にデスクの上に並んで埃を被っている。
それら机の上に、私物らしきものは一切ない。一応引き出しも開けてはみているが、何も入っていないものも少なくなかった。
空っぽの薄い引き出しを抱えたままのリルヤは、改めて深い溜息をつく。
「だって、記憶がないと何がおかしいかわからないでしょ? だからおかしなことに引っかかるんじゃないかな」
「いやオレ、それはもうリルヤの元々の性格じゃないかと思ってるよ」
「それってどれ」
「好奇心が大きすぎるのと、人を疑わないところ」
カナンに持っていた工具で顔を指されて、リルヤは寄り目になってしまった。
何か反論をしたいのだが、反論に足るだけの論拠もない。こういうところで何も言い返せないのも、記憶がないせいだと八つ当たりをしたくなってしまう。
リルヤは空の引き出しを置いて、カナンから次の引き出しを受け取った。
「でも私だってさすがに、街の外になにもないって知ってたら、変な人だってわかったよ」
「いやー、どうだろうな。あんま変わらなかったと思う」
「なんで?」
頬を膨らませて聞き返すと、カナンは大人びた苦笑を見せた。
「だってリルは、その男がおかしいって分かった今でも、あんまり敵意持ってないしさ」
「……そりゃ、向こうだってそういう感じじゃなかったし」
「でも明らかにおかしいだろ。そういう相手に身構える気持ちになれないなら、記憶があってもなくてもきっと同じなんだよ」
肩を竦めてみせる少年は軽く笑ったが、そこには彼女への親愛が見て取れた。
リルヤは神妙な気分で引き出しを足下に置く。物の少ない引き出しの中には、砂埃にまみれて小さなガラス瓶が転がっていた。中には薄い紅色の貝殻が詰まっている。
「海って、エリア1にしかないんだっけ?」
「そう。土産物だな。一応取っといてよ。誰か欲しがるかも」
「わかった」
手袋の先で瓶についた砂をぬぐって、リルヤはそれを腰の袋へと入れる。
二人はそれからしばらく、黙々と作業に集中した。
忘れ去られた遺物を拾い集め、現在の糧とする―――― 屑拾いはリルヤの好奇心を満たし、そしてないはずの郷愁を呼び起こす不思議な行為だ。
失われた記憶を他人の思い出で埋める、ではないが、そうしていると心の琴線に多くのものが触れる気がする。ささやかな感情の波が、自分というものの輪郭を明らかにしていくように思えるのだ。
壊れたエイ・キューブを摘み上げて見つめる少女に、カナンは眩しそうな視線を向ける。
少年は何か思案するような表情で辺りを見回すと、ややあって重い口を開いた。
「……リルはさ、自分が元々どんな人間だったか知りたい?」
「え。知りたい……かなあ」
唐突な問いにリルヤは首を傾げる。
―――― 「記憶を取り戻す」と「自分が何であったか知る」は似てはいるが違う。
どちらかというと自分が欲しいのは前者の記憶だが、後者によって取り戻せるものもあるかもしれない。
リルヤは改めて頷きなおした。
「うん、知りたい」
「そっか……」
少しだけ、カナンが淋しそうに目を細めたのは何故なのだろう。
しかしリルヤが心配し出す前に、少年はいつもの表情に戻った。他に誰もいないのだが、声を潜めて囁いてくる。
「実はオレさ、他の屑拾いから聞いたんだ」
「聞いたってなにを?」
「中央データベースに繋がる端末のことをさ」
「なにそれ」
未知の単語は、どう自分と繋がってくるのか見当もつかない。
怪訝な顔になったリルヤに、カナンは人伝手に聞いたことを説明してくれた。
「ルーディルスタイアにはさ、あらゆる情報を収集してるデータベースってものがあるんだってさ。で、そこには登録された市民のリストもある。
エリア10の住民には登録されてないやつもいるけど、リルヤが他のエリアから来たなら登録があってもおかしくないだろ?」
「あ……そのリストを見れば、自分が誰だったかわかる?」
「多分。で、エリア10から中央データベースにアクセスできる端末って、三年闘争の時に壊れたと思われてたらしいんだけど。
実はオレ、まだあるのを見たって聞いたんだ」
「あるって何処に?」
「こっから少し先。塔の方」
カナンが指さす方角は、まだ一度も行ったことのない地区だ。
リルヤは割れた窓の向こうに見える薄曇の空を眺めた。
「遠い?」
「そんなに遠くない。ただオレもはっきりとした場所知ってるわけじゃないから、見つけるのに時間かかるかも。
……行ってみる?」
―――― 自分を知った先に何があるのか。
好奇心は、不思議と他者に向ける程は強くない。ただ、知っておいた方がいいかもとは思っていた。
リルヤは壊れたエイ・キューブを手の中に握りこむ。
「……行ってみたい」
「分かった」
カナンは言うなり手にしていた工具を背の袋にしまった。空いた手を少女に向けて差し出す。
「行こう」
見慣れた友人の手を、リルヤは躊躇なく取った。冒険心というにはいささか緊張と困惑の多い気分が心中に沸いてくる。
「ね、私ってどんな人間だったと思う?」
「さあ? 世間知らずなお嬢様?」
「ええ……?」
答はまだ分からない。
そうして灰色の二人は、荒廃した街を進み出した。
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