禁転載
目の前に立つ男は、厚手の黒いロングコートを身に纏っていた。
そのあちこちを細い皮ベルトが止めているのは、動きやすいようにとの配慮かもしれない。
腰の右側に提げられているものは、間違いなく鞘に収められた長剣だろう。
リルヤは自分に差している男の影を見下ろし、次いで相手を改めて見上げた。少し考えて、聞き返す。
「誰?」
「それは俺の方が聞きたいんだがな」
苦笑する男の声は、何故か二重にぶれて聞こえた。
何かが混ざって響いているような違和感に、リルヤは眉を寄せる。右手に持ったままの銃をどうしようか逡巡した時、男の手が伸びてきてさっとそれを取り上げた。
「え……ちょっ」
「さっきの光はこれか?」
手の中で銃を確かめる男は、くるりと銃身を回して裏を覗き込む。
その言葉からして、リルヤの撃った光条を見てやって来たのだろう。
きつく握っていたわけではないが、普通に持っていたはずの銃をあっさり取られて少女は飛び上がった。
「か、返して」
「随分あっさりした形だな。*******なのか?」
「え?」
何と言われたのか聞き取れなかった。まるでそこだけは声のぶれが消えて、だからかえって聞き取れなかったかのようだ。
自分でもよく分からない状況に、リルヤは一歩後ろに下がる。銃は取り返したいが、この男に拘泥するのは不味いかもしれない。学習した危機感で少女は更に後ずさった。
男はそれを見て、だが困ったような顔になる。
「もしかして、俺の言っていることが通じてないのか? それとも意味が分からないか?」
ゆっくりと噛み砕いて伝えられた言葉には、害意や敵意は感じられない。むしろ小さな子供に対するような気遣いが感じられた。
そのことに若干気を緩めたリルヤは、男の青い目を見たまま首を横に振る。
「わかる。けど、変な感じに聞こえるの」
「―――― ああ。俺はここの言葉が使えないんだ。聴覚を媒介に意味を自動変換させて伝えている」
「言葉が使えない?」
「分からない。余所から来たからな」
童女の如き反問に微苦笑して、男は近くの廃材に寄りかかる。洗練された仕草からは染み付いた品の良さが感じられたが、それ以上に男の穏かさが伝わる気がした。
―――― また無用心と言われるかもしれない。
武器を取り上げられたままのリルヤは、男から距離を計りつつ、けれど逃げることなく話を戻す。
「ね、私はリルヤ=ルルゥ。……あなたは?」
「オスカー・インクレアートゥス」
それだけは明瞭に聞こえた男の名は、何故かほんの少しだけ……懐かしいような錯覚を呼び起こした。
「記憶喪失?」
驚きの混ざる声に、リルヤは頷く。
屑拾い姿の彼女は、廃材の上に腰掛けて足をぶらぶらさせながら男と向かい合っていた。
折れた鉄骨に寄りかかったオスカーは、全身灰色に覆われた少女を頭の上から足の先まで眺める。
「それは、事故か何かのせいか?」
「わからない。目が覚めた時にはもう全部忘れてたから」
「家族や知り合いは? まだ子供だろう?」
「子供、かな」
ゴーグルとマスクで顔が見えない為、声だけで判断されたのだろうが、素直に肯定していいものか判断がつかない。
リルヤは汚れた手袋を取ると、分厚いゴーグルを額の上に押し上げた。青い目が直接に男を捉える。
彼女の素顔を目の当たりにしてか、オスカーは双眸を軽く瞠った。その驚きにリルヤは答を重ねる。
「私は、だから自分が誰かわからないの。―――― これでいい?」
『お前は何か』と、聞かれたことへの返答としては不足もいいところだが、他に答えようがない。
男はしばらく思案顔でそんな彼女を見ていたが、不意に口を開いた。
「治してやろうか?」
「……え? 何を?」
「記憶喪失。正確には治せるかどうか診てやろうか。なんとか出来るかもしれない」
言いながらオスカーは、リルヤに取った銃を差し出した。
返されたそれを、少女は困惑しながら手に取る。
「治せるって、あなたも医者?」
「いや。俺よりも妻の方がそういうことは得意だな」
「結婚してるの!? 奥さんは?」
弾みをつけて廃材から飛び降りたリルヤは、途端にふつふつと沸き起こってくる質問の欲求に目を輝かせた。
ドームへやって来る人間に、今まで子供がいる人間はいても、既婚者はいなかった。エリア10は特に結婚率が低いそうだが、それでも機会があれば一度結婚について色々尋ねてみたかったのだ。
突然はしゃぎだした少女の反応に、しかしオスカーは一瞬ほろ苦い表情を見せる。
喪失と幸福をないまぜにしたような男の顔は、どんな感情を表しているのかリルヤには想像も出来なかった。
不味い質問をしてしまったのだろうかと様子を窺う彼女に、男は目を閉じると軽く微笑む。
「妻は近くにいる。紹介は出来ないがな」
「……どんな人か聞いてもいい?」
初めての相手への質問は、いつもとても慎重になる。
そうしろと、ヒズに言われたのだ。一歩一歩確かめながら綱渡りをするように、相手の様子を窺いながら重ねていくべきだと。
保護者の忠告にしたがって、男の顔色を確認するリルヤは、オスカーが相好を崩すのを見てほっとした。青い双眸が見るからに愛しげに細められる。
「俺の妻か。変わった女だな」
「変わってるって、どこが?」
「あちこちが。印象の安定しない女だ。強くて弱い。慈悲深くて恐ろしい。気紛れな猫みたいで、美しい上等な女だ」
嬉しそうな男の言葉は、生憎それを聞いてもどんな女性なのかまったく見当がつかない。
だが彼の語る一言一言は想いが溢れるもので、リルヤは熱くなる胸に拳を握った。聞きたいと思う欲求が、慎重さを乗り越える。
「奥さんのこと、愛してる?」
「勿論」
「じゃあ、愛してるって、あなたにとってどんな気持ち?」
―――― 同じ問いを人に向けるのは、何度目のことだろうか。
その度に皆、違う答をリルヤに返してきた。
多くの質問の中でこれだけは、本当に人によってまったく違う返答になるのだ。
愛情とはそれ程複雑なものなのか―――― 或いは全てのことが人の奥底に沈んだ途端、ばらばらに食い違って咀嚼されてしまうのかもしれない。
この不思議な男はなんと答えるのか。リルヤは期待を以ってオスカーを見上げる。
男は少女の視線に、また少しだけ喪失を漂わせて答えた。
「俺にとっては……永遠に手放せないと渇望する欲だ」
オスカーはそうして、口の中で誰かの名を呼んだようだった。
それからリルヤは主に結婚生活について、男にいくつかの質問をした。
しばらくは嫌な顔一つせずそれに答えてくれていたオスカーだが、彼は彼で都合があるのだろう。質問が途切れた隙に手を上げて少女の話を遮る。
「少し聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「私に分かることなら」
これだけ答えてもらったのだから、応じることに不満はない。
ぴんと姿勢を正す少女に、オスカーは頷いて続けた。
「お前の力は突出しているようだが、他にそれだけ力を持っている人間はいるのか?」
「え? 力って生体エネルギー?」
「こっちではそう言うのか。さっき光を撃ち出したやつだ」
オスカーから返された銃を、リルヤは一瞥する。
ヒズ特性の武器は、エイ・キューブを埋め込んではいるものの、誰でも使えるものではないらしい。彼女は聞いたことをかいつまんで男に説明した。
「この力ならみんな持ってる。でも外に出せる人間はあんまりいないんだって。
私と暮らしてる人も外に出せるけど、私の方が強いって言ってた」
「他に同程度の人間は?」
「知らない」
記憶喪失の上、狭い世界で暮らしているリルヤには本当にそういった心当たりはない。
ヒズに聞けば分かるのかもしれないが、昨日の今日で変わった男を連れ帰ればいい顔をされないだろう。
それでも本当に困っている相手にならば、きっと彼を紹介した方がいい。―――― そうリルヤが考えていると、しかしオスカーは質問を変えてきた。
「なら、《十二》と呼ばれる人間に心当たりは?」
「12? ないなあ。それ、名前?」
「中央の塔へどうすれば入れるか知っているか?」
「知らない」
率直に返した後、役に立てていない現状に気づいて、リルヤは焦りを覚える。
これでは色々答えてもらったのに、何のお返しも出来ない。落ち着きなく辺りを見回して、だが何も思いつかなかったリルヤは頭を下げた。
「あの、ごめんなさい」
「ん? どうして謝る?」
「何もわからなくて」
これでは道を聞かれて答えられないのと同じだ。
言葉の違う余所から来たという男は、しかし穏かに笑ってかぶりを振った。
「別に構わない。それより記憶喪失の件は? 診てみなくていいのか?」
「あ、どうだろう……」
診てもらって治るなら、その方がいいだろうか。
しかし相手は初対面の男だ。大事なことであるからして、やはりヒズに相談したい。
結局リルヤは迷って「今はいい」と曖昧な保留をした。男は気を悪くした風もなくそっと少女の頭を撫でる。
「なら気が向いたら言ってくればいい。とは言っても、俺は大体移動してるからな。また会えたらの話だ」
「また会える?」
「必要があれば。会えるだろう」
向こうのドームで暮らしていると、言おうかと思ったがやめておいた。それくらいの用心は必要だろうし、正直記憶のない生活に慣れてしまった。
時計を習慣で確認したリルヤは、そろそろ帰還した方がいい時間であることに気づく。
オスカーの方もそれだけの仕草で潮時を察したのか、寄りかかっていた体を起こした。
「邪魔をして悪かったな」
「ううん。ありがとう。楽しかった」
「気をつけて帰れ」
一歩間違えれば尊大な口ぶりが嫌味に聞こえないのは、男の物腰のせいに違いない。
リルヤは彼に手を振ってその場を離れた。砂の積もる道を行きながら、不思議な出会いをヒズになんと説明するか考える。
「余所から来た言葉のわからない人、か……」
その「余所」とははたして何処であるのか。
リルヤが男のおかしな点に気づいたのは、ドームに帰ってヒズに指摘された後のことだった。
※
知りたがりの少女は、本当に何も知らない普通の娘に見えた。
彼女の姿を廃墟の向こうに見送った男は、自分の中へと囁く。
「どう思う、ティナーシャ? あの娘は無関係だろうか」
妻の名を呼んでの確認に、彼の脳裏に返された答はほぼ考えていたものと同じだ。
オスカーは少女の頭を撫でた右手に視線を落とす。
「―――― そうだな。目印はつけた。必要になったならいつでも捕捉出来る」
状況次第では無理にでも、失われたという記憶に干渉することもしなければならない。
そこまでをする覚悟でなければ、こんなところにはいられないのだ。
男は無意識に過去を振り返りながら、砂塵吹く灰色の街を見回す。
「……愛情とは何か、か」
零れた述懐は自嘲の濃い、溜息混じりのものだった。
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