手と指 010

禁転載

『起きていたくないの。悲しいことが起こるから』



棺が並んでいる。
そこに在るものは見渡す限り続く棺の列だ。
直方体の黒い匣。何百とも何千ともつかない数のそれらは、広いすり鉢状の空間に整然と並べられている。
冷たい静寂の支配する処。音のない過ぎ去りし世界を、リルヤ=ルルゥは一人見回した。長い髪を床に引きずって遥か時を思い返す。
泡の如き嘆息が、ひとりでに零れ落ちた。
「―――― ******」
自分の口から発せられたはずの言葉は、しかし何故か聞き取ることが出来ない。
そして彼女以外にそれを聞く人間は、誰もこの空間には存在していなかった。

冷たい棺の群れ。
リルヤ=ルルゥは細い十指を胸の前で組む。
閉ざされた視界に浮かぶ夜空は遠く―――― 捧げた祈りは何の為のものであるのか、少しも分からなかった。






指を上げる。
目を開けるよりも先に動かしたそれは、男の手に触れた。固い掌を確かめたリルヤは、遅れて視界を取り戻す。
天井の池を背景にまず見えたものは、彼女を覗き込んでいる青年の顔だ。
リルヤは彼を呼ぼうとして、唇をわななかせる。
「……っ、あ……」
「平気か?」
低い声に揺さぶられる記憶の中で、男の左目だけが何故か彼女に違和感を抱かせた。
その違和感が、彼の名を明瞭にして引き寄せる。
「―――― ヒズ」
「意識はどうだ? 混濁しているか?」
耳に入った言葉の意味を認識するまでは、多少の時差があった。
棺の中で目を覚ました時よりもずっとおぼろげな頭を、リルヤは少しずつ働かせる。乾いた喉を鳴らして、少女は空気を飲み込んだ。
「平気。ちょっと不思議な夢を見ただけ」
「どんな夢だ?」
「思い出せない」
見たと思った景色は、今は欠片も記憶に残っていない。
リルヤはこんな風に過去とは失われるものなのかと、ふと感じた。
青年の手が彼女を引き起こす。
「何をしていたか覚えているか?」
「覚……えてる」
確か力の使い方を教えてもらおうというところで、予想以上の衝撃に気絶してしまったのだ。
掌にはまだその時の痛みが残っている気がする。だが改めて見てみても、そこには火傷一つなかった。
リルヤは白い手を天井にかざしてみる。
「あれは、何?」
「生体エネルギーを伝導させた。どういう意味があったかは……自分で分かるだろう」
「自分で?」
そう言った少女の指先から白い炎が上がる。ぎょっとする彼女の目の前で、火は細いリボンのように天井へ向かってたなびいた。
炎が灯る人差し指は、熱くはないが、ほんのりと熱を持っている。
その輝きを見ていたリルヤは―――― 不意に体の中を蠢く何かを感じ取った。
とろりとした温かい流れが、芯の深いところから隅々までを細くしなやかに網羅している。
血液のようなそれらの流れは、意識してみれば細かい粒子の集合体であるようにも思えた。
その粒子が外に洩れだして可視化された炎を、リルヤはまじまじと見つめる。
「これって……」
「お前の力の現れだ。古い言葉では《エイト・セス》とも言う」
「エイト・セス?」
「《存在の輪郭》という意味だ」
不可思議な言葉を、リルヤ=ルルゥは口の中で噛みしめた。
覚えがあるような、ないような言葉。頭の中を黒い四角がよぎっていく。
意識を遠くへ引かれるような感覚にリルヤが忘我していると、ヒズが手を払って白い炎を消した。
「これを上手く操れるようになれば、自分を守るのも容易くなる」
「操る……」
言われてリルヤはもう一度白い炎を出そうと念じてみたが、あれほどあっさりと現出した火は、何故か少しもその気配を見せない。
困惑する彼女に、ヒズは先程の銃を渡してきた。
「とりあえずはこれを使え。お前に合わせて調整してある」
「どうやって使うもの? 引き金がないよ」
「指を当てるところがあるだろう」
言われて銃をひっくり返してみると、確かに本来引き金があるべき銃把の内側に、青い小さな円が描かれている。
リルヤはその円を見ながら、直方体の銃把を右手で握りこんだ。
「人差し指でいい?」
「ああ。銃口の向きに気をつけろ」
「あ、そっか」
暴発でもさせてしまったら問題だ。彼女は銃口を何もない壁に向けると、左手を添えて銃を構えた。
「ここからどうするの?」
「円の上を叩く。軽くでいい」
「こう?」
言われた通りに軽く、試しに青い円の上を指で叩いてみる。
だがその瞬間、右手に再び鋭い痛みが走った。驚いて銃から離しそうになった手を、ヒズが横から銃ごと掴む。
「……っ」
しっかりと固定された銃口。壁に向けられたそこから、一本の光条が宙を走った。
薄暗い部屋が雷光に照らされたかのように瞬く。光はがらんとした空中を貫いて壁に達すると、重い音とともにあっさりとその表面を破砕した。
ぱらぱらと粉状の破片が落ちる中、砕かれた金属の壁とその向こうの土を、リルヤは呆然と眺める。
「す、すごい」
「撃つ動作から実際に撃ち出されるまでは、半秒くらいズレがあるから気をつけろ。
 発射の反動はないが、慣れるまでは伝導する右手に痛みが生じるはずだ」
「あ、うん」
痛みの走った右手は、見たところ怪我などにはなっていない。ただ円を叩いた人差し指の先だけはほんのり赤くなっていた。
何度か手を握ってみるリルヤの頭を、ヒズは軽く叩く。
「しばらく練習してみろ。外で撃つと人がいるかもしれないから、ここで。壁は直してやる」
「うん」
「ただ連続してやりすぎるな。体に障る」
言いながらヒズは、銃を弄る少女に顔を寄せた。目を丸くする彼女を至近から注視する。
何処を見ているのかは分からない。しかし男の左眼はその時、温度のない逡巡を宿しているようだった。
ここではない時間を探る目だと、リルヤは直感する。
「ヒズ?」
「いや。とりあえずは平気そうだな」
かぶりを振って離れる彼はもう普段と同じ顔だ。リルヤは指で自分の頬を押さえた。
「どこで分かるの?」
「負担がかかりすぎると白目が充血することがある」
「そうなんだ。でもそれだと自分じゃ気づきにくいね」
「力はあくまで保険だ。面倒に遭わないよう気をつければそれでいい」
「うん」
いかに自分が無用心だったのかについては、散々釘を刺されて理解している。
また人買いの手を経た少女たちが、別のエリアでどういう道を辿ることになるのかも。
武器というものは、おそらくそれらを弁えた上で初めて持ち得るものなのだ。リルヤは銃口を足下に向けて尋ねた。
「これって、当たったらその人は死ぬ?」
半ば答の分かっている質問に、ヒズは頷く。
「当たりどころがよければ、助かるだろう」
青年の目にはもう、迷いは見つからなかった。



ルーディルスタイアの中央に建つという塔を、リルヤは見たことがない。
最初はそれについて、角度が悪くて視界が通らないのかと彼女は思っていたのだが、カナン曰く「エリア10からは砂塵のせいで見えない」のだという。
それでも空気が澄んでいれば、塔の影が稀に見えることもあると聞いて、屑拾いに出ているリルヤは塔のある方角に顔を向けた。
今日の天気は珍しい晴天で、空は明るい紫に染まっている。これ以上の陽気はないかもしれないと思うくらいには、空気中に砂を感じない。
彼女は元々曇っていたゴーグルを、手袋を嵌めた手で拭った。
「……やっぱり見えない、かな」
空は晴れていても、視界の遥か先は薄曇りだ。
あの辺りは汚染値こそ《デッドエンド》に及ばぬが、吹きつける風によって砂溜まりが酷いのだという。
最も全てのエリアが近づく中央付近が、そのようなことになっているとは不思議な気もするが、本来エリア境界には無断で行き来が出来ぬよう障壁が存在しているらしい。その障壁が砂塵の拡散を防いでいるのならば、確かにそこには砂が溜まる一方だろう。
リルヤは諦めて視線を巡らせた。自分に向かって小走りに近づいてくる男を見る。
どうやらドームから彼女をつけて来たらしいアレイは、リルヤの前まで来ると上がった息を整えた。マスクの下で咳払いをする。
「また会ったな」
「……こんにちは」
つけてきていたことは知っていると、言うかどうか一瞬迷ったが、リルヤは普通に挨拶した。
しかし今回も男は彼女に挨拶し返さない。代わりに背後をしきりに窺いながら、彼女へと問うてきた。
「この間の話、鑑定屋にはしたのか?」
「した」
「そうか。だがお前はどう思った?」
ヒズの答を確認してこないのは、それが分かりきったことだからだろうか。
リルヤは自分が物知らずであったことを改めて実感して、反省した。淡々とかぶりを振る。
「私は行かない。行きたくないから」
「そう言うな。もっといい暮らしが出来るぞ。周りの人間も助かる」
「行かない」
彼女自身と引き換えに大金が手に入ったとして、それを喜ぶような人間は彼女の周りにいない。
あの日リルヤの指先をゆっくりと噛んだサフィは、嫌悪も露わに言い含めてきたのだ。「あんたと引き換えの金は死んでも要らない」と。
だからもう、考える必要もない。リルヤは一歩後ろに下がって距離を取る。
明確な拒絶の意思を示す少女に、アレイは繕う様子もなく顔を歪めた。前と同様、彼女の薄い肩を掴もうとする。
しかしその手に、リルヤは素早く抜いた銃を突きつける。驚く男へ出来るだけ落ち着いた声で警告した。
「私は行かない。それはもう変わらない」
「何をそんな……鑑定屋は勘違いをしているんだろう」
「あなたたち人買いがドームにまで来ないのは、ヒズが怖いからって聞いた」
サフィから聞いたその話は、口にすると明らかに男の動きを怯ませた。
無風の街、灰色の瓦礫の上を、それぞれの緊張が撫でていく。
リルヤは銃口の向きに細心の注意を払って、銃把を握りなおした。
「生体エネルギーを外に現出させられるほど持っている人間は、そう多くない。
 でもヒズはそれが出来る一人で、あなたたちはそんな彼を恐れている。だからドームの中にまでは来られない。彼はそこを動かないから」
「……それがどうした。そこまで知っていてどうして一人で表に出てきた?」
アレイはちらりと背後を一瞥する。
そこにヒズの姿はない。彼がドームに残っていることは、つけてきた男も知っているのだろう。
勿論リルヤも知っている。だから彼女は、更に一歩下がりながら銃口を男の顔の横に向けた。
「私が出てきたのは、知ってもらおうと思ったから」
「何をだ」
「私も、恐れるに足る人間だということを」

息を止める。
左手で銃を支える。
覚悟は大丈夫だ。意思も足りている。
リルヤは、そこまでを振り返ると、エイ・キューブが埋め込まれた円を指で叩いた。
一瞬の間。
痛みが、指先から手首までを逆流する。
だがそれで手元を狂わせることはしない。直後に発された光条は、リルヤの考えた通り男の隣を掠めていった。
青白い軌跡を描いて、光はそのまま遥か後方の柱に命中する。 歪んだレールを乗せたままの太い柱は、直撃を受けて大きく振動した。
柱の中央にごっそりと開いた穴を振り返って、アレイは硬直する。
「……馬鹿な」
「私は、あなたたちとは行かない」
銃はまだしまわない。きっぱりと告げて、リルヤは踵を返す。
毅然と背筋を伸ばして遠ざかる最中、一度だけ彼女は振り返ったが、気を挫かれたままの男が追ってくる様子はなかった。

―――― 代わりに角を曲がった彼女の前へ現れたのは、別の男だ。
おそらくヒズよりも少し年上くらいであろう男。リルヤと同じ髪と瞳の色をした長身の彼は、不意に目の前に出現した。
正確には空から飛び降りてきた、と言った方がいいかもしれない。
端正な顔立ちの男は、屑拾いではないらしくマスクもゴーグルもつけていなかった。
ただ不思議そうに少女を覗き込む。
「お前はなんだ?」
「……リルヤ=ルルゥ」
不審な相手からの唐突な質問に、リルヤはとりあえずそう返すしかなかった。