手と指 009

禁転載

「馬ッ鹿じゃないの?」
久しぶりに会えたサフィの第一声は、清清しく呆れ果ててのものだった。
リルヤが着替えをしている間に、事情を聞いていたのだろう。廃棄ブロックの上に座る彼女は、細い肩を竦めてみせる。
「そんな不愉快な話を聞いて来るな。あんたを売った金なんて、あたしは欲しくないっての」
「不愉快? 私を売る?」
怒られるのはともかく、売るなどという話は予想外だ。屑拾いの後に声をかけられたのだから、てっきりそれに似た手伝いの仕事だと思っていた。
だが言われてみれば、アレイは人買いの噂があるとは聞いた。
全ての点を拙くも線で繋いだリルヤは、青い目を丸くする。
「―――― 私、売られそうだった!?」
「今更気づくな!」
サフィが投げたべこべこのゴムボールは、見事リルヤの額に命中した。

たまたまアレイに会った日が、サフィが来る日と同じだったというのは、ちょっとした不運かもしれない。
後からやって来たカナンも加えて、「要注意人物と口をきくな」とたっぷり説教されたリルヤは、自分の危機感のなさにうずくまって凹んでいた。
両膝を抱える彼女を話の外に追い出して、サフィとカナンは鑑定屋の青年を責める。
「っていうか、ヒズもちゃんと説明しといてよ。この子言われたら言われた分だけしか判断できないんだから」
「そうだよ、保護者だろ?」
「誰が保護者だ」
不機嫌そうな青年に、「じゃあ父親?」と返したのはカナンで、サフィは「飼い主?」と返した。
散々に言われた当のリルヤは、膝に埋めていた顔を少しだけ上げる。
「あの、ね、まだ私の知らないこと、ある?」
アレイの誘いは人買いのことだというのは分かったが、それ以外に教えられたことはない。
まだあるなら教えて欲しいと願うリルヤに、三人は顔を見合わせた。がらくた山の前に座っているカナンが、小さく手を上げる。
「あのさ、リルヤは自分が人買いにすごく狙われやすいって分かってる?」
「うん。私、身寄りがないし」
「いや、容姿だよ」
「あんたは人目を引く外見してんの。大体売られたらどうなるか分かってんの?」
「強制労働?」
短時間での屑拾いの数百倍の報酬だというのだから、休みなく何ヶ月も屑拾いをさせられるのかもしれない。
だがリルヤの発言に、二人はまたヒズを白い目で振り返った。
「ちゃんと教えとけよ……」
「だからこの子に危機感がないのよ。言えばそれなりに学習するんだし」
一緒に暮らすようになってから、目先の家事のやり方などは教えてきたヒズだが、それはリルヤ自身が知りたいとねだったからだ。
他のことを彼が自分から教えることはほとんどなく、そうでなくともリルヤは放置されている。
その放置を咎める二人に対し、青年はけれど悪びれる様子もなく、工具でサフィを示した。
「なら、お前が教えてやれ」
「あたしが?」
面倒そうに投げられた役割に、サフィは自分の顔を指さす。
怪訝な顔は、しかし見る見るうちに人の悪い笑みへと変わっていった。彼女は立ち上がると少女を手招く。
「了解。―――― リル、ちょっと下に来なさいよ」
「下に? なんで?」
「身に染みるようきっちり教えてあげるから」
「え? うん」
分かっていなそうな少女は、そのままサフィに地下へと引きずられていった。
売られる動物のように彼女の姿を見送ったカナンは、二人の姿が消えると青年へと視線を戻す。
「あれ、いいのか?」
「さぁな。俺は父親でも飼い主でもない」
「そりゃそうだけどさ、実際何かあったらいくらヒズでも後味悪いだろ。多分これからこういう問題はずっと付きまとうぞ」
いくら人の少ない地区に住んでいるとはあっても、彼女が彼女である限り、人買いに目をつけられる可能性は消えない。 対処療法を繰り返してもきりがないのだ。
サフィの父親のように、外では常に付き添うなどというのは難しいかもしれないが、対策は必要だ。
それをどうするのかと暗に問うてくる少年に、ヒズは工具を弄っていた手を止める。機器を分解する為の鋭い先端が、ドームの天井を指した。
「あれの認識についてはサフィが何とかする。それ以外のことについては俺が教える」
「それ以外ってなんだよ」
教えて根本的な解決になるようなことがあるのか。
そう言いたげなカナンに、青年は端的に返す。
「簡単だ。―――― 武器の使い方を教えてやればいい」



指先の感覚は、ひどく鋭敏だ。
そっとなぞればそれだけで、ささやかな感触や温度を識ることが出来る。
冷たいか温かいか、滑らかかざらざらとしているか。
屑拾いの最中、砂に埋もれた遺物が何であるのか、リルヤはよくないことと知りながら手袋を取って確かめることがしばしばあった。
表面に降り積もった砂を指先で拭う瞬間、そこには堪えがたい郷愁がある気がするのだ。
「……熱い」
気だるい体を寝床に投げ出して、彼女は天井の池に手をかざす。
指にはまだ、熱い温度が残っているようだ。
人の肌に触れる時、指先からは体温と共に相手の思いを感じられる―――― そんなことを考えてもみたが、実際はただの空想だろう。
こう思っていて欲しいと、結局は自分が願っているだけだ。
たとえば想いを交し合う恋人同士が、相手の愛情を期待しているように。
そこには何らかの繋がりがあると錯覚する。錯覚して希う。
返ってくるのは、きっと揺れている自分の感情だ。
「ねむ……」
鈍重な眠りに引きずられる彼女は、ふと階段を下りてくる足音に気づいて体を起こした。
夕方を過ぎてドームを閉めてきたのだろうヒズは、下着姿の少女を見て顔を顰める。
「ちゃんと着ろ。風邪を引くぞ」
「暑いの」
「白衣でいいから着ろ。怪我をする」
「怪我?」
これから何か作業でもするのだろうか。
立ち上がろうとする少女を手で制すると、ヒズは自分の机から白衣と何かを手に取った。怪訝な顔で待つ彼女の前まで来ると、それらを差し出す。
「あ、エイ・キューブ。と、銃?」
「それの使い方を説明するから、白衣」
「わ、わかった」
慌てて彼女が白衣を着る間、青年は隣に座って銃を弄っていた。
大きな口径の短銃は、灰色の直方体を二つ、垂直にくっつけたような形をしている。
全体に小ぶりで、大きさは青年の手の中にすっぽり入ってしまう程だ。しかしヒズは、それを一旦脇に置くと、エイ・キューブの詰まった瓶をリルヤに渡した。
「それが何だか分かるな」
「うん。エイ・キューブ」
「そうだ。お前が使ってるものの中にも組み込まれてる。人の生体エネルギーに反応して動力源になるユニットだ」
それはカナンからも聞いたことのある説明だ。頷くリルヤに、ヒズは続けた。
「ただこれは、人には反応しても他の生き物には反応しない。―――― 何故だと思う?」
「え? 人間にあわせて作られてるから?」
「違う。生体エネルギーというものは人間に固有のものだからだ」
青年は手振りで、瓶の蓋を開けるように示した。
リルヤが驚いて蓋を捻ると、彼は中から一つを取り出す。記号が彫り込まれた灰色の立方体は、ヒズが摘むと薄青く光った。
「生体エネルギーなどという呼び名はただの欺瞞だ」
「欺瞞?」
「そう言うと、生きてるものにはみんなあるように思うだろう?」
「うん。思う。でも人間にしかないの?」
「ない。そして人によって、どれくらいこの力を持っているかが違う。……一つ持ってみろ」
言われてリルヤはエイ・キューブを摘み出したが、彼女の持つそれは、ヒズのものと違って灰色のままだ。
第一、今まで屑拾いをしていても、エイ・キューブが光ったことなど一度もなかった。
リルヤは手の中でキューブを転がしてみる。
「壊れてる?」
「壊れてない。それが普通。普通の人間の持っているエネルギー量は大したことがない。だからキューブを使って増幅させるんだ」
薄青く光るキューブは、ヒズが瓶の中に戻すとふっと元の灰色に戻った。
天井の池を彷彿とさせる透き通った光は、もう見えない。リルヤは俄然湧いてくる興味に、目を輝かせた。
「これって、私にはできない?」
「出来る。お前の持ってる力はおそらく俺より上だ」
「私の力?」
―――― そんなものは知らない。
記憶にないのだ。知らないという疑念が、忘れ去ったはずの不安を呼び起こしそうになる。
だがヒズは、彼女の微かな変化に気づいたのか、かぶりを振った。
「元々個人差があるんだ。気にするようなことじゃない」
「個人差……」
「幸運だと思え。上手く使えるようになれば、面倒事に巻き込まれても自分を守れる」
青年の声音は、子供に言い聞かせるような芯を持っていた。
リルヤの不安を抑えて封じる言葉。彼女は顔を上げてヒズの左目を見つめる。
光の加減か翳の差すその表情は、何を考えているか少しも読み取れなかった。リルヤは彼に触れて、自分が望んでいることを知りたくなる。
「……上手にできるかな」
「教えてやる」
ヒズの断言は、無条件の信頼を彼女に抱かせた。

怪我をする、などというからどのようなことをするのかと思えば、指示されたのはただ手を合わせるだけだった。
青年の差し出した手に、自分の手を重ねて置くというだけのこと。しかしリルヤは、新鮮な感覚に顔をほころばせる。
「ヒズの手に触るのはじめて」
「そうだったか?」
共に暮らして二ヶ月以上が経つが、彼からリルヤに触れてくることはまずない。
たまに彼女が飛びついて払われることがあるくらいで、基本的には彼らは自身の領域を持っている。
その領域を初めて踏み越えるような接触に、リルヤは質問をしている時と同じ期待感が膨らんでいくのを感じていた。
「ここから何をするの?」
「びりっと痛いがすぐに終わるのと、痛みはなくて温かいだけだが長くかかるのとどっちがいい?」
「長くってどれくらい?」
「お前次第だ」
「じゃあ、びりっとで」
何だかそちらの方が面白そうな気がする。
どんなことが起きるのか、あわせた掌をじっと見つめるリルヤに、ヒズは白衣の襟を示した。
「襟を噛んどけ。反動で舌を噛む可能性がある」
「え?」
「行くぞ」
慌てて襟を噛むリルヤの右手に、次の瞬間激痛が走る。
何かに思い切り突き飛ばされたかのような衝撃。彼女の意識はその一瞬で、綺麗に暗転した。