手と指 008

禁転載

薄着で外に出るなとは言われたが、言われなくても普段から作業着以外で外に出ることはない。
精々水やりをしていてドームの入り口近くに立つことがあるくらいだ。
それも一日一回ほんの短時間であるし、つまるところこれまでと大して変わりはないだろう。
一応気をつけてヘルメットを被りながら水やりをしていたリルヤは、やって来たカナンに唖然とした目で見られる。
「なんだよ、その格好……」
「え、おかしい?」
額から後頭部までをすっぽりと覆う緑のヘルメットに、白衣。
その下はサフィに作ってもらった黒いノースリーブシャツと、白いショートパンツを履いている。
最後に靴は拾いものの長靴とあって、リルヤとしては実用性と用心と可愛さを全て満たす格好だ。
けれど目の前に立つ少年は、彼女の全身を上から下まで見て、大きくかぶりを振った。
「それはない……」
「ないって。何が不味いの?」
「強いて言えば全部。取り合わせが悪い」
正面からばっさりと切り捨てられて、リルヤは頬を膨らませる。 ホースを引いて水やりを続行しつつ、彼女は反論した。
「ちゃんと鏡見てきたんだけど」
「え……鏡見てそれか。それでいいって思ったのか……」
「ヘルメットは大事だよ」
「大事かもしれないけど、そんな着方サフィが見たら激怒すると思う」
「…………」
カナンの指摘に彼女はぽかんとする。
今着ている私服を作ってくれた少女は、リルヤにとって「最も嫌われたくない大好きな相手」だ。
勿論彼女からは物知らずについていつも怒られているのだが、それとは別に貰い物の服を粗雑に扱っていると思われたくない。
リルヤは青ざめて声を潜めた。
「白衣が不味い?」
「いやどう考えてもヘルメット。なんでドーム内でそんなのかぶってるんだよ。ヒズがなんかしたのか?」
「理由はあるの」
一旦水道まで戻って、リルヤは水を止める。
そうしてがらくた山の前に座った二人に、ヒズは改めて一昨日の客人の話をしたのだった。

「大体理解したけどさ」
「うん」
「別にどこでもヘルメットを被ってろと言ったわけじゃない」
「あれ」
青年からの冷静な指摘に、リルヤは膝に抱えたヘルメットに視線を落とす。
言われたことを思い出し――――
「そういえばそうだった」
「別に被っていても問題ないが」
「いや、すごく変だって。ドームにいる時は別にいいだろ」
「いいかな」
「好きにしろ」
ころころと行き先の変わる会話に眉を寄せたリルヤだが、ヘルメットが重くて暑いのは確かだ。
ドームでは要らないというならそれでいいだろう。彼女はひとまず不要になったそれを地下に置いてくることにした。
階段を下り始めた少女の背に、カナンの苦い声が聞こえる。
「エリア9のやつらって、どうも好きになれないんだよな。馴れ馴れしくしてくるくせに、こっちを下に見てるっていうかさ」
「人それぞれだ。それに、隣接エリアだから接触機会が多くなって余計にそう感じるんだろう」
「だって、エリア境界に穴があるからって、色々持ち出すやつもいるし」
「あの辺りは《デッドエンド》からの砂塵が吹く。頻繁に出入りする人間は―――― 」
リルヤが鏡の前に立った時には、ヒズの声は遠く聞こえなくなっていた。
壁の姿見は、彼女がここで暮らすようになってから張られたものだ。長くしまわれていたそれは、少し曇ってはいたが、少女の姿を足先まで映し出している。
何処を見ているのか分からない濃い青の目、水やりで泥のついた白衣を、リルヤは畳んで脇に置いた。
そうして鏡の前に佇む少女は、少し汚れた極普通の人間に見える。このようによれよれしたところをサフィに見つかれば、文句を言われながら洗われるのは間違いない。
だがリルヤはそうして彼女に構ってもらえることが、ただ無性に嬉しかった。
「サフィが次に来るのは……一週間後?」
詳しい納期は覚えていないが、確かその辺りだったはずだ。
白衣を洗濯籠に入れて上に戻ると、ヒズとカナンはまだエリア9についての話をしていた。
彼女が戻ってきたことに気づいて、青年は顔を上げる。
「まぁ……気にしすぎとは思うが、面倒を増やしたくない」
世話になっている男の述懐に、リルヤは何も考えず頷いた。



リルヤの何が問題であるのかと言えば、彼女と親しい人間たちは大抵が「物知らずの無用心」と言う。
記憶のない少女は、子供と大差ない認識を自他に対し持っており、人の悪意を知らない。
ただそれは、ヒズが面倒事を避けようと、彼女に会わせる人間を選んでいるせいもあるだろう。
結果として温室育ちならぬドーム育ちをしている彼女は、用心をしているつもりでも危機感が足りていなかった。
いつものように屑拾いに出た先で、見覚えのある老人に名を呼ばれたリルヤは、当然のように返事をして足を止める。
ドームからそう遠くない場所、仕事中であるのか数人の屑拾いと一緒にいるセロは、立ち止まったリルヤに微笑んだ。
「ああ、やっぱりお嬢ちゃんか」
「こんにちは」
お辞儀をする彼女は、砂モグラの格好をしており他の人間と区別がつかない。
リルヤは、セロの息子の姿が見えないこともあって、老人の手招きに応じた。
簡易椅子を置いて廃材の前に座っているセロは、にこにこと笑顔で少女を見上げる。
「今日はどうしたんだい?」
「屑拾いに来てる。カナンと」
「少年の姿は見えないようだが」
「場所を分担してるから。後で待ち合わせ」
―――― 本当は、今日は一人で《デッドエンド》まで行こうと思っていた。
事実と違うことをさらりと言ってしまったのは何故か、自分でもよく分からない。
じろじろと他の屑拾いたちに視線を向けられる中、リルヤは挨拶してその場を立ち去ろうとした。
だがそんな彼女に、セロはある提案をしてくる。
「なら、待ち合わせまでの時間、私の方を手伝ってみないかい?」
「手伝い?」
「こっちが指定する場所で屑拾いをして、重さで買い取ってあげよう。
 いつも彼にはお世話になっているから、少し高めに買ってあげるよ」
そう言ってセロが提示してきた金額は、リルヤには相場とどう違うかよく分からない。
彼女が屑拾いをしているのは、単に面白いからと家計の足しになるからで、拾ったものは一部を除いて丸ごとヒズに渡しているのだ。
いいものがあればそのまま売られ、はずれはヒズが分解してしまう。
その為現金というものを持ったことがないリルヤは、セロの提案に不思議そうな顔をしたままだった。
彼もすぐその様子に気づいて、言葉を付け足す。
「どうせ屑拾いをするなら、私のお願いする場所でしてくれないかな、ということだよ。
 拾ったものと交換に、代金と本をあげよう」
「本?」
滅多に手に入らないそれは、リルヤの心を大きく動かした。
以前拾ったものはエリア7で生きる人間たちを描いた話で、見たことのない世界がとても面白かったのだ。
しかし紙の本は、基本的には趣味人だけが持つもので、滅多に出会うことがない。
興味深々の彼女に、セロは持っていた鞄から小さな本を取り出した。
「私はもう読んでしまったからね。お手伝いをしてくれるならあげるよ」
「……屑拾いをすればいいの?」
「そう。出来るかな?」
「できる」
「じゃあ、お願いするよ」
流れるように地図を差し出されて、リルヤは驚いた。
可能か不可能かを聞かれて「可能だ」と答えたのだが、「やる」という意味になってしまったようだ。
だが嬉しそうなセロの顔を見ると、違うとは言いにくいし本の提案は魅力的である。
屑拾いをするのは同じなのだからと、リルヤは大人しく地図を受け取った。赤く丸がついている場所は、ここからそう遠くない。
「わかった。行ってくる」
「これを持っていって」
そうして専用の袋を渡された彼女は地図の場所に向かうと、人に渡すものだからと普段よりも慎重に屑拾いをした。
時間になって元の場所に戻ると、そこにはセロだけでなく、彼の息子も待っていた。

不味いなと思ったが、袋は借り物だから返さない訳にはいかない。
リルヤは内心の困惑を押し隠して、セロの前へと戻った。
待ち合わせがあると嘘をついたリルヤは、他の屑拾いたちよりも早く戻ってきたようで、周囲に彼ら以外の人間はいない。
セロはいつも通りの笑顔で彼女を迎えると、受け取った袋を隣の計量機にかけた。
「頑張ってくれたね、ありがとう。はい、これ」
まず手渡されたものは小さな本だ。茶色い表紙のそれを、リルヤは礼を言っていそいそと作業着のポケットにしまう。
その間にセロは目方から計算した報酬と、少し上乗せした金額を、小袋に入れてくれた。
薄いスティック状の貨幣が音を立てる袋を、リルヤは続いて受け取る。
「ありがとう」
「お小遣いも入れてあるから、自分の好きに使いなさい」
「うん」
そう言われてみたものの、金の使い方などリルヤにはよく分からない。
服のお礼にサフィへあげたら喜ばれるだろうかと考えながら、彼女は手を振って帰路へとついた。
だがそうして離れたのもつかの間、廃材の山を迂回したところで、セロの息子が追ってくる。
アレイという名の男は、親の視線が届かない場所であるせいか、無遠慮に彼女の肩を掴んで振り向かせた。
「金が欲しいのか?」
「別に」
即答は、悪気があってのものではないが、表情が見えないせいかアレイは鼻白んだようだ。肩を掴む手に力がこもる。
「嘘をつくな」
「だって使ったことないし。使い道ないよ」
それは本当のことだ。ドームに出入りの商人はいるが、彼らの相手をするのはヒズである。
単純な返事を聞いて、男は少し考える顔になった。
「……自分が使っていなくても、周りの人間はお前の為に使っているだろう」
「そうかも」
「それを返して、更に金を渡したら、周りは喜ぶぞ」
「そうかな」
「いい仕事がある。今日もらった金額より何百倍も稼げる」
「そうなんだ」
ヒズの喜ぶ顔など想像出来ないが、サフィやカナンなら分かる。
特にサフィは、治療の為に金を貯めているのだ。もし役に立てるのなら嬉しい。
リルヤは手の小袋を見ながら自分なりに考えた。
「―――― わかった」
「なら」
「ヒズに相談してくる」
「は?」
物知らずな自分だけで変わったことをして、後で大変なことにでもなったら困る。
特にアレイに関しては注意を受けている以上、相談しないという選択肢はリルヤにはない。
男の手をすり抜け、彼女は制止の声も待たずドームに駆けていく。
そうやって帰ってきた少女の話を聞いて、ヒズはまた大きな溜息をついたのだった。