禁転載
「できた」と言って渡されたマスクは、顔の下半分をすっぽりと覆う灰色のものだ。
内側を見ると薄いフィルタが何枚か張られており、その向こうからは軽いモーター音が聞こえている。
カナンが横から手を伸ばして、表側の小さなスイッチを示した。
「ここで入切できるから。フィルタは装着者の生体エネルギーを使って自浄する……はずだけど、上手く動かないようならパーツ取替えだな」
「ありがとう」
「ま、なんかあったら言えよな。―――― 気楽にやれよ」
厚い手袋越しに、少年の手がリルヤの頭を撫でていく。
そうして走って帰っていくカナンを、彼女は姿が見えなくなるまでドームの入り口で見送った。
一人になって中へ戻ると、先程とまったく変わらぬ姿勢でヒズが作業をしている。
リルヤは彼の邪魔にならぬよう、再びがらくたの傍に座り込んだ。灰色ばかりのパーツの山に光るものを見つけて手を伸ばす。
他のものを崩さぬよう抜き取ってみたところ、それは薄い鏡面であった。
湾曲している鏡面を覗き込んだリルヤは、そこに映る少女の顔を注視する。
深い青の目。肌は白く、肩にかかる程の髪は濃い茶色で、さらさらと真っ直ぐだ。
顔に目立った傷や痕はない。カナンは綺麗と言ってくれたが、湾曲して曇り気味の鏡では、どうやら左右対称の顔立ちをしているらしいということくらいしか分からなかった。
覚えがあるとも、ないともつかない自分の貌。
実感が伴わぬ気分で鏡面を覗く彼女に、乾いた声がかかる。
「鏡が見たいなら、下に行けばある」
「あ……」
「そこに階段がある」
黒い工具が指したのは男の斜め後方だ。草に埋もれて気づかなかったが、言われてみればそこには確かに地下への階段があるようで、ぽっかりと四角い穴が開いている。
「寝る時も下に行けばいい。置いてあるものは好きに使え」
「あ、うん」
「水は浄化済のがいくらでもあるから、足を洗え」
「足?」
言われて見てみると、合わない靴を履いて歩いていた為か、くるぶし付近が擦り切れて血が滲み始めている。
砂のこびりつく傷口にリルヤは驚いた。
「気づかなかった」
「砂が入るとよくない。ちゃんと落として来い」
吸い込んだら体を壊すと言われる砂塵だ。リルヤは素直に頷くと、靴を脱いで片手に持ち、裸足で階段へと向かった。男の横顔を見ながら脇を通り過ぎ、地下へと下りていく。
ひんやりとした金属製の階段を下りた先は広々とした空間になっており、意外にも明るい。
採光はいくつかの天窓から行っているようで、特に大きな中央の天窓からは床に円形の光が差し込んでいた。
がらくた倉庫を想像していたリルヤは、整然として物の少ない眺めに意表を突かれる。
上のドームと同じだけの広さがあるのだろう部屋には、隅の一角に机や道具棚、調理台や簡素なベッドがあるくらいで、ほとんどは何もなくがらんとしている。
リルヤは素足をぺたぺたと鳴らして、丸い天窓の真下に立った。見上げると窓の上は池になっているようで、淡い緑色に光る水の中を小さな魚が泳いでいる。さざなみが光の揺れとなって自分の体に模様を作る様を、少女は興味深く眺めた。波打つ光は見ているといつまでも飽きない気がする。
「……と、いけない」
―――― 足を洗いに来たのだった。
目的を思い出したリルヤはもう一度部屋を見回す。
よく注意してみると、何処からかさらさらと水の流れる音が聞こえてくる。
その音を頼りに薄暗い部屋の奥へ向かうと、壁際に大きな半球状の水甕が置かれていた。石の水甕には壁を伝う細いパイプから濁りない水が常に注がれており、溢れた分は床の上の水路を通って部屋の角へと流れている。
部屋の中に小川があるような光景に、リルヤは目を輝かせた。
「すごい」
いそいそと水路の傍に座り、足を水に浸す。
冷たいかと思った水はむしろ温かく感じるくらいであり、リルヤは手早く砂を落としていった。足の裏を見ると、やはり何箇所か傷になっているが、そう深いものはない。手足を洗った彼女は、一息つくと足を水路に入れたまま天井を見上げた。
「なんか、不思議な感じ」
記憶のない自分が、人の好意に甘えて落ち着いている。
これは普通のことなのだろうか、と考えてみるが、普通かどうか、知識に乏しい彼女には自信が持てない。
リルヤはぼんやりと灰色の天井を見上げていたが、不意に弾みをつけて立ち上がった。
「ありがとう」
素足で階段を戻ってリルヤが礼を言うと、男は振り返って彼女の足を確認した。
「上に何か貼っておくか?」
「平気だと思う。―――― あの、何かやることある?」
どうしようかと考えて出した結論は、「彼に聞いてみる」だ。
自分以外何も持っていない彼女は、愚直な分真摯に男へと尋ねた。
「何かやることあるならやりたい。じっとしてる方が迷惑じゃないならじっとしてる」
「……なんでそんなことを聞く?」
「お礼したいと思ったから。おかしい?」
常識外れのことでも言ってしまったのだろうか。戸惑う少女を見上げていたヒズは、その時初めてふっと微笑んだように見えた。
もっともリルヤが驚いて見直した時には既に、無愛想な元の表情に戻っていたのだから、単なる見間違いかもしれない。
男はどうでもいいようにかぶりを振った。
「礼をされるようなことはしていない。礼がしたいならカナンに聞け」
「うん。分かった。じゃあ普通の雑用はない?」
「…………」
溜息を一つついて、ヒズは木々の中を指さした。
「木に水をやってくれ。あの辺にホースがある」
「分かった」
裸足のまま走りだすと一瞬ヒズが顔を顰めたが、彼女は気にせず木の枝をかき分けて中へと入っていった。
青臭い匂いが鼻をつき、虫の鳴く声が聞こえる。
濃密な空気は、外の荒廃とは違い生命の気配で満ち満ちていた。
リルヤは大きな葉に触れ、そっと草を踏み分けながら木々の向こうへと進む。
まもなく石造りの池の隣に、小さな水道とトグロを巻くホースが見えてきた。
「あ、この池」
覗き込むとガラスの底越しに地下の部屋が見える。ちょうど池の上にはかかる枝もなく、ドームの天頂から差し込む光がそのまま地下へと降り注いでいた。
一つ一つ見えてくるドームの作りに、リルヤは嬉しくなって鼻歌を歌いだす。黒いホースを引きずり、水道の螺子を回して水撒きを始めた。
水滴を受けて一層輝く緑に、跳ね返る飛沫も気にせずホースを引いていく。
そうやってドーム中を一通り回り終わった後には、彼女は全身びっしょりになっていた。
「……要領が悪いのか」
髪から水を滴らせて戻ってきたリルヤを見て、ヒズは誰にともなく呟いた。
途端気まずくなった少女は青ざめる。
「水を無駄にした? ごめんなさい」
「それはいい。水はいくらでもある。ただそれじゃ風邪を引く。着替えろ」
「あ、うん」
工具を置き階段を下りる男についていくと、彼は机が置かれた一角へと向かった。その下の戸棚から綺麗に畳まれた白衣を取り出す。
それは彼の着ているものと同じであるのだろう。白衣を差し出されたリルヤは染み一つないそれとヒズを見比べた。
「同じのいくつも持ってる?」
「仕事着だからな」
「お医者さんの?」
「違う。小さなパーツを落とした時に見つけやすい」
「あ、なるほど」
それで白衣だけ綺麗なのかと納得して、リルヤは服を受け取った。
一つ一つ、ピースを嵌めていくように重なる発見。――――
それは記憶の欠けた彼女にとって、新鮮な驚きに溢れている。
階段へ戻っていく男を見ながら、リルヤは急いで濡れた服を脱ぐと、畳んで壁際に置いた。
慌てる必要はないと思うのだが、気が急いて仕方ない。裸に白衣だけを羽織って、彼女は前を止めながらヒズの後を追う。元の位置に座ろうとしている男に追いついて、唖然とした目で見られた。
「……着てから来い」
「質問、いくつまでいい?」
「は?」
「質問したい。色々聞きたいの。いくつしていい?」
―――― 知りたい、と思う。
それはカナンと話していた時から感じていた欲求で、いまや制御しきれぬ程に膨らんで彼女を支配していた。
ドームを探検するように、ここに住む男についても知りたい。
好奇心に捕らわれた少女に、ヒズは溜息をつきたそうな顔になる。だが彼は彼女を無碍にはしなかった。
「三つだ。そこまでなら答えてやる」
「ありがとう。じゃあ答えられないのは言って。質問変えるから」
「勝手にしろ」
何から聞こうかと迷ってしまうが、まずは当たり障りなく基本的なところから押さえていくべきだろう。
リルヤはヒズの隣にしゃがみ込んだ。
「鑑定屋ってどういうことするの?」
「持ち込まれたものの用途や状態を判別する。簡単な修理や除染をすることもある。
終わったら俺の名前つきでタグを出して、持ってきた人間はそのタグを添えて収集人に売る」
「鑑定してあったものの方が高く売れるの?」
「まあそうだな。未鑑定のものは引き取らない収集人が多い。―――― これが二つ目か?」
「ち、違う」
迂闊に質問を増やしてしまったリルヤは首をぶんぶんと横に振った。幸いヒズは追及する気はないようで、彼女は次の質問を口にする。
「二つ目は……右目って、それで見える?」
前髪に隠れている右目は悪くならないのだろうか。
単純な疑問を投げかけてみると、ヒズは片手で顔にかかる髪を上げて見せた。
思っていたよりもずっと若い男の顔。青年と言って差支えないその貌に、リルヤは思わず息を飲んだ。
瞼に閉ざされたままの右目の上には三本の深い傷跡が残っている。
「義眼にしてるんだが調子が悪い。から、こうしている」
左目の灰緑は、リルヤを正面から映して、ゆっくりと閉じられた。
視界を確かめるようなその仕草に、彼女は鏡を覗くよりも「自分」が見える気がして、動悸を覚える。
リルヤは音をさせぬよう深く息を吐き出した。
「教えてくれてありがとう」
「三つ目は?」
「うん。―――― あなたは、緑や水が好き?」
多くの工夫が凝らされた小さなドーム。
その魅力にとりつかれかけた少女は、ただ一人の住人に問いかける。
質問というよりも肯定を期待しているその目に、青年は何か言いたげに口元を曲げると、「嫌いじゃない」と返した。
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