禁転載
裏道を出た先に、賑やかな通りがあるとまで思っていた訳ではない。
ただ、足を切らないよう気をつけながら何とか角まで来たリルヤが、その向こうを覗いて僅かに落胆したのは事実だ。
灰色ばかりで占められた景色。
路地の先に見える街は、廃墟と言ってもいいくらいのもので、そこかしこに廃材が積み上げられ、小さな山をいくつも形成している。
何処にでも積もっている厚い砂埃。いくつかの足跡が残る路面を、擦り切れた何かのビラが飛んでいった。
汚れた布を丸めたもの、ひしゃげた大きな缶、錆びた鉄屑など、転がるものに人の痕跡を見ることは出来ても、人の姿自体は見当たらない。
壁にもたれかかってその光景をしばらく眺めていたリルヤは、諦めて角を曲がり、誰もいない通りへと出て行こうとした。途中に落ちていた黒い小さな塊を覗きこむ。
「これ、靴? かな?」
ぼろぼろの布の塊は、足の先でつついてほぐしてみると、どうやら男のものの靴であるらしい。
リルヤは少し迷ったが、怪我をするよりはと古びた靴を借りることにした。足を入れると、砂のじゃりじゃりとした感触が伝わってくる。
彼女は大分大きいそれを引きずって、見えていた通りへと辿りついた。ひらけた視界の中に何かがないか見回す。
「何ここ……」
廃墟のような、と思った街は、事実廃墟であるようだ。
立ち並ぶ灰色の低いビルはどれも崩れかけて、人の気配は感じられない。
その隙間に立っているいくつもの巨大な柱は、かつて何かの交通機関を支えていたのだろう。柱同士を結んで二本のレールが残っているのが見えた。だがそのレールもところどころ断ち切られており、捻じ曲がった先端が力なく空中にうなだれている。
リルヤは、近くの壁に張られたビラに目を留めた。風雨に曝された紙は変色してぼろぼろになっているが、かろうじていくらかが読み取れる。
先程壁に焼き付けられていた整然とした字とは違い、まるで書きなぐったかのようなそれを、彼女は小声で読み上げた。
「エリア7の横暴を許すな……? タワーの支配を……」
そこから先は掠れて分からない。
けれど、「タワー」という単語が妙に頭に引っかかって、リルヤはしきりと首を捻った。
その時、視界の端に何か赤いものが見える。
「あれは―――― 」
折れたレールから飛び立ったそれは、真っ赤な鳥のようだ。
この景色の中で唯一生きて動くもの。建物の向こうに飛んで行こうとする鳥に、リルヤは思わず手を伸ばした。
「待って……!」
駆け出そうにもぶかぶかの靴ではうまく走れない。
しかし鳥は、彼女の叫びが届いたかのように、くるりと宙を旋回して戻ってきた。翼を広げ空気を切って降下すると、唖然とするリルヤの足下に降り立つ。
軽く首を傾げる真紅の鳥に、少女は驚きを飲み込むとそろそろと手を伸ばした。
「君……言葉が分かるの?」
そうであるのなら、この不分明な状況も少しだけ心強い。
鳥は彼女の指を見上げると、小さく頭を垂れた。触れることを促すようなその仕草に、リルヤは身を屈めて手を差しのべる。
逃げる素振りはない。息を飲む彼女の指先が、艶やかな赤い羽根へと触れた―――― その途端、鳥は形を失った。
「……っ」
ぎょっとして腕を引くリルヤへと、鳥が変じた赤いラインが追いすがる。
太いそれはたちまち少女の右手首に巻きついて、厚みのある腕輪になった。
たった今まで生き物だと思っていた鳥の変化に、リルヤは恐怖よりも呆然とした気分を味わう。紫色の空を仰いだ。
「何これ……なんなの……?」
―――― 頭が痛む。
何も分からない、という事実は、まるで世界から突き放されているようだ。
寄る辺なく、行き先もない。
あの字を残した人間がまだ近くにいるのではないかとも期待していたが、辺りを見る限りそれもないようだ。
リルヤはじわじわと沸き起こる混乱に突き動かされ、叫び出したくなる。
けれどその時、背後でじゃりと砂を踏む音がした。
「あ、女の子だ」
「え」
振り返ると、隣の建物の影から灰色のヘルメットが覗いている。
正確にはそれは、ヘルメットをかぶった子供のようであった。ゴーグルと防塵マスクで完全に顔を覆った人間を、リルヤはまじまじと見つめる。
「あの、君は……」
「ストップ。こっちに来る前に両手上げて回ってよ」
「え? 両手?」
何を意味しているのかは分からないが、不審に思うよりも会話の出来る人間に会えたという喜びが勝った。
リルヤは言われた通り両腕を上げてその場で一回転する。膝丈の薄いワンピースがふわりと広がって、元に戻った。
袖のない服の為、手首の腕輪だけが異様に目立って思える。
そのことを見咎められるかと少しだけ心配していたリルヤは、「よし」と頷かれてほっとした。
「何も持ってないみたいだね。ってかそれ、かえっておかしいか」
「おかしい? 私が?」
「こんなところにそんな薄着でいたならすぐ体壊しちまうってこと」
「ああ……」
確かにそう言う彼の方は厚手の作業着を着込んでおり、肌が露出している部分はない。
声からして幼い少年であるのだろう子供は、手に持っている黒い金属棒でリルヤを指した。
「なんなんだ、あんた?」
「……なんだろ」
それを聞きたいのは彼女の方だ。
リルヤは再び近づいてくる頭痛の気配に顔を顰めた。
「私、なんでこんな……」
何も思い出せないという空虚。そこから這い出してくるものは不安と、言いようのない焦燥だ。
置いてきてはならないものを何処かに置いてきてしまったのではないか―――― そんな疑念が体の中で渦巻く。
今すぐ走り出したいような、逆にうずくまってしまいたいような衝動。
突き上げる吐き気に口元を押さえる彼女を、少年はじろじろと眺めた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「ち、が……」
「マスクくらいした方がいい。っても、オレも余分は持ってないな。壊れたのでも拾えれば直してやれるんだけど」
周囲を見回す少年は、けれどすぐにお手上げとでも言うように肩を竦めた。涙目で震えているリルヤを、困ったように見上げる。
「あんたまさか、別のエリアから迷い込んだのか? 帰り方分かるか?」
口を押さえたまま首を横に振る彼女に、少年は溜息をついた。
「しかたねーなー。ちょっとついて来いよ」
面倒そうに金属棒を振って、子供は踵を返す。
他にあてに出来るものもない。リルヤは砂だらけの靴を引きずってその後を追った。
砂埃の上にいびつな足跡を生んで、リルヤが案内されたのは、最初の場所からしばらく歩いたところにある小さなドームだ。
元は植物園か何かだったのだろう。ガラス張りの外殻はしかし、ところどころ罅割れており、中から丸い葉を持つ蔦がはみ出している。
鉄骨に支えられたガラスは、汚れてくもってはいるものの、中には処狭しと木や草が溢れているのが見えた。
ここに来るまでの灰色の風景とは一転して、瑞々しい光景に彼女は目を丸くする。
「ここは?」
「鑑定屋。おれみたいな屑拾いが拾ったものを持ち込むとこだよ」
そう言うと少年は勝手知ったる様子でドームの中に入っていく。リルヤは慌ててその後に続いた。
開いたままの入り口から中は、砂ではなく土が広がっており、何処からか水の流れる音も聞こえてくる。
むっと立ち込める青草の匂いに、リルヤは若干の息苦しさを感じた。前を行く少年がゴーグルとマスクを外す。
汚れた顔はやはり十歳には届かぬ子供のもので、大きな灰色の目は、瞼に残る傷跡のせいか右だけが少し歪んでいた。
少年は細い小道を行きながら木々の奥を指差す。
「こないだ、オレが壊れたマスクを持ち込んだから、まだ壊されてなきゃそれを直してやるよ。
具合が悪いんならついでに診てもらえばいい」
「診てって……誰に?」
「鑑定屋。物知りなやつだから帰り方についても知ってるかもな。あ、でもバラされないよう注意しろよ。
あいつなんでも弄って壊しちまうから。鑑定屋としては有能なんだけどな」
「バラされる……? え、それ、解剖?」
「ま、オレがついてるから。平気だろ」
そう軽く言われたはいいものの、何でも壊してしまうなどという話を聞いたら足が竦んでしまう。
やっぱりこのまま回れ右をして逃げてしまおうか―――― そう思った時、葉々の向こうから男の声が聞こえた。
「何を持ってきた?」
「人間」
「ちょっ……!」
「大丈夫だって」
逃げようとしたリルヤの手首を少年が素早く掴む。見た目よりも力のある彼は、細身の彼女を軽々と引きずった。
靴の中から灰色の砂がこぼれて小道の上に歪なラインを描く。じたばたと暴れる彼女を気にもせず、少年の腕は最後の大きな枝を持ち上げた。その先へとリルヤを押し出す。
彼女はぎゅっと目をつぶって身を固くした。
「―――― 実験体みたいな格好だな」
抑揚の薄い声。低い響きに多少の驚きは感じられたが、それ以上のものはない。
リルヤは緊張しながら、薄く目を開けてみた。がらくたの寄せ集めの上に座る男を見る。
灰緑の左目。右目は長い前髪に隠れて分からない。ぼさぼさで埃まみれの髪は自分で切っているのか先端が酷く不揃いだ。
無精髭の生えた口元にマスクはなく、格好は何故か白衣だ。それだけは不思議なことに汚れ一つなく、男の前に転がる灰色のがらくた群と、周囲の緑の中で異様に浮き立っていた。
両手に何かの工具を持った男は、左目を細めてリルヤを見上げている。
「自分の名前、分かるか?」
「……リルヤ=ルルゥ」
その名を口にする時、不思議な動悸がするのを彼女は抑えられなかった。
自分の体が痺れて砕けて、何者でもなくなってしまうような気がする。左手が無意識に赤い腕輪をきつく握った。
男の視線がそれに気づいて腕輪に向けられる。
沈黙は少量でもとても重い。何か言って欲しいと思いつつ、彼は無言のままだ。
リルヤは意を決すると、掠れた声で代わりに問い返す。
「あなたの、名前は?」
「ヒズ」
簡潔な男の名は、外を吹く風と同じく、過ぎ去ったものの響きを持っていた。
Copyright (C) 2012 no-seen flower All Rights Reserved.