禁転載
―――― 何処までも。
何処までもこうして彷徨いながら、漂って行こう。
たとえ私達に、目覚める日がもう二度と来ないのだとしても。
※
おはよう、と誰かに囁かれた気がした。
意識に立つさざ波。緩やかな覚醒より先に、手の指が動いた。ひんやりとした固い何かに触れ、彼女は驚く。
「驚く」という揺れが、更に彼女の精神を動かした。海の底から急速に水面へと上がっていくように、目覚める。
重い瞼を上げながら、彼女は細く息を吐いた。自然と挨拶を口にする。
「おはよう」
自分はこんな声をしているのかと思う。
目の焦点があってくると、天井に描かれた青い地図が見えた。
何処の地図かは分からない。白いラインや円が複雑に絡み合うそれは、まるでただの幾何学模様のようだ。
だが、彼女はその天井画を「地図だ」と判断した。十の指を動かす。冷たい揺りかごの縁を掴み、ゆっくりと体を起こした。
そして世界を見る。
「起きたね」
柔らかい声は背後から聞こえた。
彼女は緩慢な動作で振り返り――――
「あ……」
開いた目に見えたものは薄汚れた石の天井だ。そこに地図などない。起きたと思った夢を見たのだろう。
現実ではまだ仰臥していた彼女は、体を動かす前にまず左右を見る。両腕に伝わる冷たさは、黒い金属の壁面に触れているが為のものだ。
どうやら自分が箱の中に入れられているらしいと理解した彼女は、強張る腕を動かすと、先程の夢のように箱の縁を掴んだ。
うまく力が入らないかもしれないと思ったが、想像よりもすんなりと起き上がる。
彼女は狭い部屋の中を見回した。
「……ここ、どこ?」
窓はない。壁も床も、天井と同じ汚れた石で出来ており、ドアは正面に一つしかない。
彼女は自分が入っていた箱に視線を戻す。
「棺?」
黒い直方体の箱は、明らかに人の体に合わせた大きさをしていた。
装飾のない冷たいそれは、花こそ詰められていないが、棺以外の何物にも見えない。
「なんで私、こんなとこに……」
一体何があって見知らぬ部屋で棺に寝かされることになったのか。
記憶を辿ろうとした彼女は、けれど次の瞬間呆然となった。
「あれ……私……何を……」
―――― 何も思い出せない。
どうしてこんなところにいるのか、それだけでなく自分が何処で何をしていた何者なのか、まったく記憶にないのだ。
自分の名前さえも覚えていない。そのことに気づいた彼女は、震える手で己の顔に触れてみる。
滑らかな肌。体を見ても若い女のものだろう。まだ大人になりきっていない細い身体は、黒い膝丈のワンピースを着ている。
靴は履いていない。白い素足だ。だがそれよりも彼女は、自分の顔を思い出せないことに衝撃を受けた。
鏡を見たいと思うが、見える範囲にはそれもない。彼女は恐る恐る棺の中に立ち上がる。
そして背後の壁を振り返った。
灰色の壁に、大きく書かれた黒い文字が目に入る。
『おはよう リルヤ=ルルゥ』
「リルヤ=ルルゥ?」
馴染みのないその名は、けれど口に出してみると自分のものであるように思えた。
彼女は壁の文字に向かって踏み出す。裸足のまま棺を出て、埃の積もった床の上を歩いた。壁の間際にまで来て足を止める。
黒い字はどうやら壁に直接焼き付けられたものらしい。そっと触れてみると、まだ僅かな温もりが残っている。
リルヤは汚れた壁に身を寄せると、姿の見えぬ相手に向かって呼びかけた。
「あなたは誰?」
―――― そして自分は誰なのか。
投げかけた問いにはしかし、いくら待っても答は返ってこなかった。
低い建物の隙間から見える空は紫色だ。
眩しくはない胡乱な天気。地上に出たリルヤは、その色に眉を寄せる。
「こんな色だっけ……?」
違和感を覚えても、過去の記憶がないのだから判断する基準がない。
最初の小さな部屋を出て、すぐそこにあった階段を上ってきた少女は、ちくちくと痛む足を見下ろした。
ここに至るまでドアは何枚かあったが、靴はどこにも見つからなかったのだ。
リルヤは石ころや何かの破片が散乱する路地を見回す。
「どこ行けばいいんだろう……」
まず何をすればいいかもまったく分からない。だが、ここにいても仕方がないと思った。
少女は爪先でそろそろと歩き出す。
煤けた壁に手をついて体を支え、狭い路地の出口へと向かった。
足を止めることなく、ただ先へと。
彼女は進む。
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