日の光

mudan tensai genkin desu -yuki

環境が激変する、ということがある。
それは言ってしまえば住む場所を変えるということや職を変えるということによって起こりうるのだろうが、シエラが体験した環境の変化はそれらのうちの一つだけに留まらなかった。
岬にぽつんと建っていた屋敷で数年一人暮らしをしていた少女が、王族、それも宰相の妻として大国の城都に迎え入れられたのだ。これを激変と言わぬのならどのような変化も驚くに値しないものとなってしまうだろう。ファルサス王弟と結婚してから三ヶ月、いまだ慣れない毎日を送るシエラは、行き交う人々の間を縫って城都の大通りを行きながら、ふと溜息をついた。
よく晴れたいい陽気だというのに気分が浮かない原因は自分でも分かっている。昨晩招かれた貴族の屋敷でのことのせいだ。

それまでシエラは結婚以来、夫について社交の場へと出て行ったことがなかった。
彼女は宮廷や貴族の間における礼儀作法を何も知らず、かといってそのままで済ませるには夫の地位が高すぎた為、ルイスの「別に無理をしなくてもよいですよ」という言葉を押し切って必死に勉強をしているところだったのだ。
細やかな立ち振る舞いから会話の内容まで、多岐にわたる勉強は思わず眩暈を覚えるほどに果てのないものだったが、シエラは家庭教師たちについて何とか少しずつそれらを消化しようとしていた。
そんな彼女が式から初めて人前に出ることになったのは、城都に住む貴族の一人が私的な宴席に是非にとシエラの出席を願った為である。
王家の遠縁でもあるその老侯爵はシエラにつけられた家庭教師メアリの叔父にあたり、姪から彼女の話を聞いた老侯爵は、よければこの機会に一度王弟の妻に挨拶をしたいと申し出てきたのだ。
日頃姉のように思い親しくしている女性の叔父が招待主とあって、シエラは戸惑いはしたもののその誘いを受けた。
ひたすら屋敷で詰め込むように学ぶだけではなく、外に出て少し気分転換することも必要だと感じたのだ。
結果として侯爵夫妻はまだ振る舞いが覚束ない彼女に充分すぎるほどよくしてくれ、ルイスも同席してくれたことによりシエラは何とか大きな失敗は犯さずにすんだ。だが彼女が宴席の終わりに緊張を緩め、化粧を直しに行くためメアリと広間を離れたその時、「彼女」は現れたのである。

「噂でお聞きした通りの方ね」
廊下を行くシエラとメアリの前に立ちふさがった女の第一声はそのような言葉だった。
薄紅を基調としたドレスを纏い綺麗に髪を結い上げた令嬢は、呆気に取られるシエラを頭の上からつま先まで舐めるように見やる。
その仕草は覆い隠せない高慢さを感じさせながらもそれを上回るほどに優美であった為、シエラははじめ自分が失礼な視線を受けていると気付くことが出来なかった。気付いたのは隣にいたメアリが憤然とした表情で一歩前に出た時である。
「ドレアナ、挨拶もせずに何なの? シエラ様に失礼でしょう」
「あら、ごめんなさい。でもわたくしたちの普段通りでご挨拶申し上げても、かえってシエラ様を困らせるのではないのかしら」
「それはどういう意味?」
たちまち険悪になる空気に気圧されながら、シエラはようやく場の状況を掴みつつあった。
つまり、このドレアナという女性は、シエラが与えられた身分に相応しい品性を身に着けていないと揶揄しているのだろう。
それは彼女自身、自覚のあることだが、こうあてこすられるとさすがに気分のいいものではない。シエラは眉を顰めて相手を注視した。
「私に何か御用ですか?」
ようやく口にした問いの語尾が微かに震えてしまったことは、彼女にとって悔しさを生み出すものでしかなかった。
率直な皮肉に傷ついたわけではないが、ファルサスに来て初めて対面した嘲りはシエラに小さくない緊張を与えたのだ。ドレアナは勝ち誇ったように薔色の唇を上げる。
「大した用件はございませんわ。ただ公爵妃様がどのようなお方か一度拝見したかっただけのこと。
 それももう充分でございますし、そろそろ失礼致しますわ」
「……そうですか」
「結局、殿下が何故あなたを選ばれたのかは分かりませんでしたけど。一体何が魅力と思われたのか分からないわ」
その言葉はさすがにシエラであってもすぐに意味を理解できるほど嘲弄混じりのものであった。
絶句し固まってしまった彼女の目前でメアリの顔が怒気に歪む。普段は柔和な教師である彼女は、シエラが見たこともないような表情でドレアナに向かった。反論の口火をきりかけたその時、だが彼女たちの遠い背後から落ち着いた声が響く。
「シエラ。どうかしましたか」
「ルイス!」
安堵と共に夫の名を叫んでしまってから、シエラは慌てて口を押さえた。横目でメアリを見やる。
屋敷にいる時はともかく外で彼を呼び捨てにしてはいけないとよく注意されていたのだが、つい気が緩んでそのことを忘れてしまったのだ。
だが気勢を殺がれたメアリは刹那うろたえた目を見せただけでシエラに注意する気配もない。むしろ現れた王弟に場を譲るようにして一礼と共に一歩退いた。ルイスはその彼女に目礼を返すとシエラの隣に立ち小さな頭を軽く叩く。
「そろそろ帰りますよ。忘れ物はないですか」
「な、ない! じゃなくて……ありません」
「では行きましょう」
ルイスは再び頭を下げるメアリの頭越しにドレアナを一瞥した。彼女が笑顔と共にそつのない所作で礼を取ると、彼はシエラに視線を戻す。
外では滅多に真意を見せることがないというシエラの夫は、今もその通り何の感情もを浮かべていなかった。若い妻を促して廊下を歩き始める。
だが、シエラはそうして夫と共に屋敷へと戻る途中も忘れることが出来なかったのだ。
ドレアナの弄した言葉と、自分が本当にルイスの妻にふさわしいと認められる日が来るのか……そんな煩悶を。






ファルサス城都の賑わいはいつでもシエラにとって心弾ませるものであったが、この日の彼女は昨晩のことのせいか浮かない顔を拭うことが出来ずにいた。自分の顔がほとんど知られていないことをいいことに平服で雑踏に紛れ込んだ彼女は、視線だけは店々を追いながら溜息をつく。
気にするべきではないと、それよりも恥じるところがなくなるよう努力すべきだと分かってはいるのだが、気が重いものは重い。
第一努力しようとも血筋や美貌ははなからシエラに備わっていないものなのだ。
どこの馬の骨とも知れない娘が王弟の妻になったと陰口を叩く人間は、彼女がどれほどそつのない振る舞いをしようとも、その点でシエラを嘲笑うだろう。自らが嫉妬を受ける位置にいるのだと自覚することは、彼女に軽い疲労感をもたらしていた。
「何だか……変な国」
普通であれば王族ほどそういった身分や血筋に煩い気がするのだが、ファルサスは今のところ王族の姉弟が一番伴侶の身分に関して頓着がないのだ。
むしろ貴族たちの方がよほど気にして厳しい目を向けてくる。その落差にシエラは困惑したが、厳しい基準に合わせておいたほうがきっと問題ないのだろう。彼女は立ち並ぶ店の窓硝子に浮かない顔の少女を見出しこめかみを掻いた。今はただ下ろしているだけの灰色の髪に指を絡める。
幼ささえ残るその顔立ちは、贔屓目に見て可愛らしくはあっても美しいとは到底言えない。
しかしシエラは自分の容姿については変えられるものでもなし、既に仕方がないと割り切っていた。
「大体生半可な美人じゃルイスに敵わないし。綺麗な顔を見たければルイスを見ればいいのよ」
投げやりな述懐はしかし、明らかな事実でもある。
彼女の夫は女性には到底見えないが、容姿の美しさは大多数の貴族令嬢を凌駕するものであるのだ。
それを日頃から見ていては最初から張り合おうなどとは思わないし、肝要なのは知識と振る舞いを身に着けることの方だとよく分かる。
だがそうは思ってもまだまだ未完成な自分に苛立ちが募ることもまた確かだった。シエラは倦怠感のまとわりつく思考を中断すると、一軒の店の前で足を止める。

広すぎない店の中には先客が二人いるようだ。白木の壁の前で若い女が二人なにやら談笑している。
花をあしらった髪飾りや小物を扱うそこは夫の姉が紹介してくれた伝統ある店で、城都では珍しくシエラの身分を知っていた。
彼女が重い扉をくぐって顔を出すと、店の奥にいた中年の女が驚いたような目で頭を下げる。
「これは公爵妃様……お一人でいらっしゃったのですか?」
「ちょっと散歩がてら。誰にも気付かれませんでした」
照れ笑いでシエラがそう返すと女は一瞬複雑そうな表情を見せた。
だが、すぐに態度を切り替えると白いテーブルの上にいくつかの花飾りを並べだす。
「どうぞご覧になってください」という言葉に甘えてシエラがテーブルに寄ると、そこには色取り取りの装飾品が繊細な華やかさを競っていた。
その中でも一番慎ましやかな小さい花の指輪にシエラは目を止める。
夫の威光に頼って浪費をすることはしたくないが、小さな指輪くらいであれば自分で買うことも出来るだろう。
愛らしいそれにシエラは指を伸ばした。けれど彼女が指輪に触れる寸前、背後で扉が軋む。
「あら」
しなるような女の声は聞き覚えがあるものだ。
むしろ忘れていられたならその方がよかったのだが、さすがに半日しか経っていないのではそれも無理な相談であろう。
シエラは振り返るとそこに予想通りの人物―――― ドレアナを見出して息を飲んだ。思わず嫌な顔をしてしまうと彼女は楽しそうに笑う。
「こんにちは、シエラ様。王弟殿下のお妃様が、まるで町娘みたいですわ」
「……こんにちは」
挨拶の後半部分は無視した。そこにシエラが傷ついても憤ってもドレアナを悦ばせるだけであろう。
現にドレアナはシエラの返事につまらなそうに片眉を上げる。おかしな空気を嗅ぎ取ったのか、先客であった娘たちは二人を窺いながらもそそくさと店を出て行った。

―――― こんなところで店の雰囲気を悪くしたくない。
第一気分転換のつもりで出てきた散歩なのだ。転換どころかまっさかさまでは目も当てられない。
シエラは諦め気味にそう判断すると店員の女に断って店を出ようとした。だがそこにドレアナは食い下がってくる。
「もうお帰りになるの? まるで逃げ出されるみたい」
その通りだ、と言いたい気持ちと言いたくない気持ちがシエラの中でせめぎあった。
だが苛立ちを抑えた彼女は「失礼します」とだけ言い捨てると扉を押し開ける。
しかしその態度はドレアナの気に障ったらしい。彼女は険しい顔になると意外なことにシエラを追ってそのまま店の外へと出てきた。
「どこへお行きになるの!」
「どこって。屋敷に帰ります」
「待っ……!」
何が気に入らなかったのかは知らないが、これ以上彼女と会話をしていてはどんどん気分がすさんでしまう。
シエラは足を速めると近くの角を曲がった。上流の人間は歩かないような狭い路地へと入り込む。
「ちょっと! 待ちなさいよ! 聞こえてるんでしょ!」
「え?」
大通りから路地へと入り込んだ途端、がらっと変わった声音にシエラは目を丸くした。
まるでそれこそ町娘のような怒鳴り声。思わず足を止め振り返るとそこには息を切らせたドレアナが立っている。
今までの高慢な貴族らしさのない憎憎しげな目に、シエラはぽつりと感想を零した。
「……猫かぶってたの?」
「うるさいわよ! それよりあなたねぇ! なに人の嫌味無視してるの?」
「あ、やっぱり嫌味だったんだ……」
「うるさい!」
シエラは反射的に首を竦める。一方猫を捨てたドレアナは肩をいからせ少女を睨んだ。
「何よ、さっきまで吹いたら飛びそうな顔してたくせに」
「吹いたら飛びそう?」
どんな顔だと言いかけた時―――― しかしシエラは背後から伸びてきた手に口を塞がれた。ドレアナの顔が驚愕に染まる。
体を拘束してくる男の腕。息苦しさと混乱に頭の中が真っ白に焼けた。
だがシエラに見えたものは、ドレアナが背後の誰かに慌てて飛びつこうとしたその一瞬までで……次の瞬間彼女の意識は、鈍い痛みと共に闇の中へと落ちていったのである。