夜に燃ゆ 01

mudan tensai genkin desu -yuki

その国の名を覚えている人間はほとんどいない。
しかしその存在は人々の間で永く語り継がれている。
曰く「魔女に一夜にして滅ぼされた国」として。

大陸を700年間に渡って争乱が支配した暗黒期。
戦争が日常とされていた時代の終わりは、一つの国の滅亡と共に記されている。
タァイーリの西、旧トゥルダールの北にあった小国ヘルギニス。
高い岩山に囲まれた自然の城砦を拠点とする都市国家は、暗黒時代において長い間沈黙を続けてきていた。

豪奢な服を纏う男は、半歩後ろを歩いてくる女を振り返って柔らかな笑顔を見せた。
「もう少しだ。足は疲れていないか?」
「いいえ、平気ですわ陛下」
女はそう言うとあでやかに笑う。
長い蜂蜜色の髪が、瞳の色に似た若草色のドレスによく映えていた。
彼女の華やかな美貌は見る人間の心を惹きつけるが、それが彼女の持つ力のほんの一部でしかないことに気づくものは少ない。
男は労わるような目のまま頷くと再び案内の歩を進めた。
やがて二人は城の奥、普段は固く閉ざされた扉を開け中に入る。
暗い円状の吹き抜けを囲む螺旋階段を慎重に下りていった。
「レオノーラ、この国の成り立ちを知っているか?」
「聖女伝説でございますか?」
「そう。魔に閉ざされた場所であったこの場所を、東の国から来た聖女がその身を犠牲にして浄化した。
 彼女に付き従っていた者たちはその死を嘆き尊ぶと、加護を得た土地に国を作ったという。もう500年も前の話だ」
王の言葉にレオノーラは頷いた。
その頃自分が何をしていたのかは覚えていない。だがそういう出来事があったということはよく知っている。
聖女に守られた土地に引きこもり、暗黒期の戦乱に一切参加してこなかったヘルギニス。
それがつまらないと思ったからこそ彼女はこの国に来たのだ。人心を惑わし、更なる戦火を生む為に。

いつまでも続くかと思われた階段。
しかしそれはようやく終わりを告げた。二人は燭台の明かりに照らされた静謐な神殿に降り立つ。
平坦な石畳だけが広がる場所をレオノーラは見回した。
何かおかしな魔力の気配がする。強力なものを何重にも遠ざけたような。
だがそれらしいものが見つからないことを彼女は不審に思った。
王は燭台を手に先に進みながらレオノーラを手招く。
「来い。こちらだ」
「はい、陛下」
神殿の奥は何もないかと思われた。
しかし近づくにつれそうではないと分かる。
床には大きな円状の凹みが穿たれている。深さが余りないそこには水が湛えられていた。
大きな水鏡のようなその場所の縁に立ち、二人は中を覗き込む。
レオノーラはそこから魔力が漏れ出していることに気づいて首を傾げた。隣の男を見上げる。
「陛下、これは……」
男の優しい目が彼女を見る。
だが彼の口元は動かなかった。
背中が押される。レオノーラは目を瞠った。
激しい水音。
飛沫があがる。
王はそれを顔に受けながら微笑んだ。
「これがこの国の要、聖女の棺だ。
 そして、お前の棺でもある。
 魔女よ……新たなる我が国の礎となるがいい」
水の中、レオノーラは遅ればせながら、相手に自分の素性が気づかれていたのだと、そして逆に罠にはめられたのだと理解した。
あまりのことに怒りに狂いそうになる。
しかし彼女は何も出来ず、落ちていく意識の中目を閉じた。
水は魔女の類稀な魔力を吸い取って輝く。
そしてそのまま国中にゆっくりと広がり始めた。

突然の来客をルクレツィアは不機嫌そのものの目で迎えた。
右手に構成を張りながら問い質す。
「何の用かしら。それ以上踏み込んできたら殺すわよ」
「争うつもりはございません。閉ざされた森の魔女にお願いがあって参りました」
「レオノーラの配下が何の願いがあると言うの?」
冷ややかな声にウナイは黙って一礼した。
剣士である男が武器を帯びていないということは戦意はないという現われだろう。
だからと言って気を抜くつもりはさらさらない。ルクレツィアは背後の寝室の扉を窺いながら、顎で話の続きを促した。
ウナイは表情を変えぬまま用件を切り出す。
「レオノーラ様が北西の小国ヘルギニスにおいて捕らわれました。その奪回をお願いしたいのです」
「断る。帰りなさい」
それだけ言って手の中の構成に魔力を通そうとした魔女を、ウナイは手を挙げて留めた。
「お待ちください。まだ続きがあります」
「何よ。レオノーラに言いなさいな。自分の失態くらい自分たちで何とかしろと」
「どうにも出来なかったのです。既に配下のほとんどは死亡いたしました」
「…………何それ?」
「レオノーラ様は巨大な魔法装置の一部として取り込まれております。
 彼の方の魔力を利用して、ヘルギニスは強大な禁呪を現出させ、大陸に覇権を打ち立てるつもりのようです」
その内容にさすがにルクレツィアは絶句する。
暗黒期、禁呪に手をつけようとした国はいくつかあったが、そのいずれもが禁呪の扱いを誤って甚大な被害を被り、やがては滅びた。
魔法大国と言われたトゥルダールでさえ、100年ほど前に1つの禁呪によって滅亡したのだ。
しかもレオノーラの魔力は、その時の少女、まだ魔女ではなかった彼女のものより遥かに強大である。
魔女を触媒にした禁呪など聞いたこともない。どんな事態になるのか想像もつかなかった。
その時、寝室の扉が開く。
奥から13-4歳に見える一人の少女が顔を出した。
彼女はウナイを見据えると、皮肉な笑みを浮かべる。
「今の話、詳しくきかせてもらおうか」
鋭く研がれた刃のような声。
纏う雰囲気は外見とは似つかわしくない威圧に満ちたものだった。
ルクレツィアは肩をすくめながら椅子に座る。
こうしてウナイは、主人救出の為に二人の魔女を巻き込むことに成功したのだ。

王は魔法士の報告を受けて満足げに頷いた。
魔女の魔力はヘルギニス建国時からこの地に張り巡らされた魔法陣を満たしつつある。
恐ろしいほど綿密で広大な紋様は、城を中心に東西南北の4箇所に配置されており、魔法装置である聖女の棺から魔力を受けて時計回りにヘルギニスを覆う。
かつてはそれはこの国を魔から守る浄化陣であったが、王は今回それを魔力召喚に利用しようとしていた。
召喚された魔力は城の上空に現出し、それを魔法士たちが禁呪として整形する。
魔女の力を元に作った禁呪は諸国を焼き尽くす炎となる予定であった。
「全て予定通りでございます。2日後には術式に入れるかと」
「ご苦労。力を尽くせ」
「御意」
魔法士が下がると王は一人玉座で考えに耽った。
この数百年、戦争に禁呪を使おうとした国は決して多くはないが複数存在していた。
しかしそれらは禁呪の陰惨さを世界に焼き付けただけで、本来の意図を達成できたとはとても言えない。
中にはファルサスのアカーシアによって制御の魔法士ごと切り裂かれた一件もあるくらいだ。
だがそれらは皆、禁呪自体の力不足のゆえだったのだと王は思っていた。
ヘルギニスは違う。何と言っても魔女を元にしてあるのだ。
世界に5人いるらしき魔女。しかしそのどれも行方が掴めない中、レオノーラが向こうからやってきてくれたことは僥倖だった。
男を惑わす魅力に満ちた女。
だがその真実の姿が単なる寵姫などではなく、恐ろしい程の力を身の内に秘めた異質であると気づいたのは、たまたま彼女とその配下の会話を耳に挟んだ為だ。
最初は戦慄し、どう追い出そうと悩んだ王もすぐにそれがまたとない好機だと気づいた。
500年前から現在に至るまで国を守り続ける装置に魔女の力を継ぎ足すことを思いついたのである。
そして彼は勝負に勝った。
今までのどの聖女よりも強力だった魔女は、浄化装置の力を禁呪を発生させるまでに高めつつある。
かつて魔法大国として各国に禁呪の使用を抑制させていたトゥルダールはもうない。
これからはヘルギニスが類を見ない力を以ってその名を大陸に馳せるのだ。

王が自らの野心に酔っている頃、城の遥か上空では二人の女が城塞都市を見下ろしていた。
一人の女は「閉ざされた森の魔女」ルクレツィアであり、もう一人の少女に見える女は「青き月の魔女」ティナーシャである。
レオノーラも合わせれば、大陸に五人しかいない魔女のうち三人が小さな国に集まっている、そのこと自体が既に異例の極みであった。
「凄いわね、これ……都市そのものが魔法陣なんて初めて見たわ」
「記録では聖女を中心として50人の魔法士で建国したそうです。
 聖女とは上位魔族だったのではないかという話もありますね」
「なるほどね。にしてもひどい状態だわ。レオノーラの魔力が元の守護と混ざり合って飽和してる」
「これ暴走したらトゥルダールの比じゃありませんよ。大陸の北西部がぱっきりなくなりますね」
地図職人が儲かりそうです、と冷淡に続けるティナーシャをルクレツィアは呆れた目で見やった。
そもそも二人がこの件に絡むと決めたのも強力すぎる禁呪を放ってはおけなかったからだ。
特に祖国を禁呪で無くしているティナーシャはその思いが強いのであろう。
しかし表面上はまったくそれを見せない友人にルクレツィアは溜息をつく。
だが彼女が口に出したのは実務的なことだった。
東西南北、四つの要所を確認してルクレツィアは腕組みをする。
「あの四つを同時解呪しながら昇華かな。レオノーラだけを切り離すってことはもう出来なそうね。暴走するだけだわ。
 術式を解きほぐすしかないだろうけど……」
「人員が足りないですね。私たち二人で四つはさすがに無理ですよ」
ティナーシャは夜の中、揺らぐ家の灯を見下ろす。
それら一つ一つが人の生だ。
だが、禁呪が暴走すればこの全て、そして何十倍の人命が失われることになるだろう。
闇色の瞳は深淵そのものの昏さを湛えて城塞都市を見つめた。
そこにルクレツィアのあっけらかんとした声がかけられる。
「四つねぇ……四人いればいいんでしょ?」
「まぁそうですけど。あと二人どうするんです」
「いるじゃない。魔女は五人よ?」
ティナーシャは目を見開く。
まるでほんの子供のように驚愕する友人にルクレツィアはにやりと笑うと片目を瞑って見せた。

五人の魔女。
彼女たちは別段仲がよいというわけではない。
むしろ顔を合わすことの方が稀だ。
中にはレオノーラとティナーシャのように戦った事がある者さえいる。
例外と言えば一緒に暮らしているルクレツィアとティナーシャの二人だが、それもティナーシャが子供であった頃からの付き合いなので魔女同士というよりは保護者と被保護者、或いは姉妹のような関係だろう。
特に一番若いティナーシャは水の魔女には会った事がなかった。
その為気になるのかこっそりとルクレツィアに耳打ちする。
「どんな人なんですか」
「んー? 変人?」
「さっぱり分かりませんよ」
もっとちゃんと教えて欲しい、と思ったが今はそれどころではない。
ティナーシャは酒場のテーブルの上に広げたヘルギニスの地図を指で叩く。
「私が北につきますよ。ルクレツィアは東にお願いします」
「分かった。ラヴィニアが西でいいわね。カサンドラには南につくように言っておく」
「開始時間は今夜の7時。解呪は30分で。それを越えると均整が崩れます」
「時間制限って好きじゃないんだけど」
「我慢してください。今回は1歩誤ると取り返しがつきませんから」
ルクレツィアは頬杖をついたまま鼻で笑うと、酒盃を手に取った。
平然と酒をあおる彼女をティナーシャは顔を顰めて見やる。
酒を入れるとはどれ程きつい解呪か分かっていないのだろうか。ただそれが彼女らしいと言えばそうだろう。
ヘルギニスの片隅にある酒場は昼間である為か人はほとんどいない。
主人は少女にしか見えないティナーシャに何か言いたげであったが、代金は充分にもらった為見ない振りを決め込んでいるようだった。
準備のため立ち去ろうとするティナーシャをルクレツィアは呼び止める。
「ね、もし装置の方が耐え切れなかったらどうするの? 最低でもこの国は滅びるけど」
「その時は仕方ありません。上から4人で結界を張りなおしてこの国内に魔力を封じ込めましょう。
外に出したら周囲5国くらいはなくなりますから」
更なる惨事を防ぐ為にヘルギニスを犠牲にするという冷徹な意見に、ルクレツィアは「了解」とだけ言った。
それを聞いたティナーシャは転移して消える。
一人きりになった魔女は少し物憂げな表情になると、酒盃に口をつけたのだった。