禁転載
「エウドラなんて可愛くない」と、すぐ上の兄は言う。
だが彼にとってそれは、到底賛同出来ない意見であった。エウドラは……彼らの妹は間違いなく可愛い。それに美人だ。
勿論兄も外見的な面で「可愛くない」と言っているのではないだろう。そこまで美的感覚が狂っているとはさすがに思えない。
だから兄がエウドラを非難するのはただ単に性格の問題なのだ。皆に可愛がられる末の妹とそりがあわないというだけ。
レーンは短い間にそう結論づけるとほくそ笑んだ。石壁の下にいる妹に向かって手を伸ばす。
「ほら、おいで」
「届かないわ、レーン」
「届く。もうちょっと背伸びするんだ」
レーンは言いながら自分も精一杯手を伸ばした。
その指を取ろうとする少女は、だが背伸びしても兄の手に届かないと分かると頬を膨らませる。細い首を傾いで、小さな両手を打ち合わせた。
「魔法を使えばいいのよ。だったら楽だわ」
「エウドラ、母上に怒られるよ」
「見つかればね」
少女は詠唱もなく構成を組むと宙に浮き上がる。その手をレーンはすかさず取ると石壁の上に引き上げた。妹を抱いたまま塀の向こうに飛び降りる。
よく手入れされた緑の庭。高い石壁に囲まれた広い庭園を背に二人の子供は走り出した。追っ手はない。まだ誰もが気付いていない。
「町に行こう。ちょうど旅芸人たちが来ている」
「旅芸人?」
稚い声が期待に染まる。
妹の関心を得られたことにレーンはまた笑みを浮かべた。走る速度を速め、見えてきた横道目指して緩やかな坂を駆け下りる。
今年十一歳になるレーンは妹とは二つ年が離れている。すぐ上の兄とも年の差は同じ二歳だ。
そしてエウドラが生まれるまでずっと「弟」でしかなかった彼は、この末妹が可愛くて仕方なかった。
もっともそれは始終会えるわけではないという環境も影響しているのだろう。
現に妹と共に暮らしている兄は彼女のことを「我侭」と称してやまない。逆にエウドラの方も二番目の兄を「口うるさい」と表面的には煙たがっていた。
大人や兄たちの目を縫って上手くエウドラを連れ出したレーンは、小さな町の広場にたどり着くと、そこに出来ている人だかりへと妹を誘う。
度々沸き起こる歓声。背丈の低い二人に気付いて、人のよさそうな女が「こっちなら見えるよ」と彼らに場所を譲ってくれた。
人ごみに慣れていない妹を庇いながら、レーンは最前列へと進み出る。
驚きの声に沸き立つ人の輪。その中心にいるのは旅芸人の二人だ。
華やかな衣裳をつけた踊り子が花を手に舞い、その傍らでは弦をかき鳴らす男が座している。
流れ者がよく演奏する哀愁を帯びた曲にあわせて、踊り子が何もないところから花を取り出す様は、魔法に慣れた二人の目にもひどく幻想的なものに映った。声もあげずのめりこみ始めるエウドラを見て、レーンもまたいたく満足する。
旅芸人は三曲を演奏すると、集まった人々に向かって優美に礼をした。
次々と投げ込まれる硬貨や花。エウドラは辺りをきょろきょろと見回すと、慌てて自分の髪にさしてあった髪飾りを抜く。
そのまま柔らかな布を広げる踊り子目掛けて、少女は手にしたものをそっと投げた。
彼女の瞳の色にあわせて青い宝石をあしらった髪飾りは、たちまちのうちに多くの報酬の一つとして布の中に吸い込まれていく。
「いいの? エウドラ」
「いいのよ。それくらいの価値はあるわ。とても素晴らしかったんですもの」
つんと答える妹にレーンは笑った。
あの髪飾りに使われていた宝石は本物である。おそらくそれ一つで他の報酬全てをあわせても到底足りないくらいの金額になるだろう。
あとで投げ込まれたものを確認した踊り子がどれほど驚くか。レーンは自分の想像に笑い出すと、散っていく大人たちの中、妹の手を引いた。大きくはない町の路地に向けて歩き出す。
「何か食べに行こう」
「あまり空腹ではないわ」
「でも珍しいものが食べられるよ。……城都ならもっと色々面白い場所があるんだけど」
「レーン……!」
狭い路地に入りかけた瞬間。彼を呼ぶ声と繋ぐ手が引かれたのは同時だった。
振り返ったレーンは咄嗟に妹の体を腕の中に庇う。それは転びかけていた少女を何とか石畳の衝撃から守る結果となった。
少年は彼女を背に庇うと、すぐ傍にいた男を見上げる。軽く酔っているらしい男は路地の壁によりかかり、にやにやと二人の兄妹を見下ろしていた。
レーンは青い瞳を細めて無礼な酔漢を見上げる。
「何をする」
「何を? 何もしてないぞ」
「嘘をつけ。今、足をかけて妹を転ばせただろう」
「はぁ? いいがかりはやめるんだな」
そうは言われても、レーンは確かに見たのだ。振り返った瞬間、エウドラの足の下から男が自分の足を引き抜くのを。
幸い彼女は転ばなかったが、彼も妹に悪戯をされ黙っていられる性格ではない。年の差も体格差もまったく気にせずにレーンは男を睨んだ。
「詫びてもらおう。それで許してやる」
「言ってくれるじゃないか、貴族のガキが」
吐き捨てるような男の言葉に、レーンの背後にいるエウドラは顔を強張らせた。
身なりか、立ち振る舞いか、或いは彼女が踊り子に与えた髪飾りを見ていたのか、とにかくこの男は二人が上流階級の人間であると気付いたのだろう。そしておそらく、彼らの身分に勘づいたからこそ彼女を転ばせようとした。
どこにでもいる貴族を妬む人間か、もっと悪質な金目当ての人間かは分からないが、関わって益のある相手ではない。普通の大人ならこの場を立ち去ることを選んだだろう。
だがレーンは侮蔑的な声音に憤ると、妹を置いて一歩前に出た。鋭い威を以って男に返す。
「僕たちが貴族だろうと何だろうと、お前のやったことに関係はない。さっさと謝れ!」
「何だと? 生意気を言うな。子供だけで歩いていて……痛い目にあわせるぞ」
男は酔いに赤い顔をゆがめる。酒で気が大きくなっているのだろう。骨ばった手が腰につけていた短剣に伸びた。
それを見てレーンも護身用の短剣に指をかけようとする。背後でエウドラが一歩距離を取るのが分かった。しなやかな声が兄にかかる。
「レーン、容赦はいらないわ」
「当然だ」
まだ子供と言っても、酔っ払い相手に剣で負けるはずがない。
レーンはそれくらいには自分の腕と、日々の稽古に自信を持っていた。男が短剣を抜くのを待って自分の剣の柄を握る。
芸人たちが熱気を生み出していった広場。
周囲を行き交う人々がようやく彼らのただならぬ雰囲気に気付きかけた、だがその時―――― 新たな声が場に響いた。
「何なさってるのです? お二人とも」
氷のように澄んだ少女の声。
女というには成熟していない、子供というには冷ややかな声音に二人の兄妹は顔色を変えた。エウドラが小さな手で口を押さえる。
「え、ジ、ジウ……」
「何をなさっているか聞いているのですよ、姫」
人ごみの中を縫って現れた少女は―― 年は十三くらいだろうか―― 年の割りに大人びた雰囲気を持っていた。
にっこり笑えば充分に愛らしいのだろうが、今は冷気が見えそうなほど隙のない表情をしている。
動きやすい軽装に細身の長剣。肩の上に緑の小鳥を乗せた少女は黒茶の目で三人を一瞥した。少しの呆れが混ざる目がレーンを捉える。
「殿下。黙って姫を連れ出されるとは。帰ってから覚悟なさってくださいね」
「ジウ、だが折角離宮に来ているのに……」
「あとのお小言は兄君たちにお任せします。私はお二人を連れ帰ってくることが役目ですから」
線の細い少女はじろりとレーンの手元を見やった。その視線に少年は慌てて短剣から手を離す。
正直言って剣はともかく口でこの少女に勝てたことはないのだ。ましてや兄からの説教決定とあっては余計なことは出来なかった。
ジウと呼ばれた少女は二人を伴って人ごみの外を指し示す。そこには共にきたのであろう魔法士の男が苦い顔で待っていた。
子供たちより三倍近く年上の男は、手で見物人を追い払うと詠唱を始める。その隣へ少女は二人の兄妹を押し出した。
「さ、帰りますよ。転移で帰ります。さっさと、もう全力で、逃げられる余地もないくらい帰ります」
「逃げないよ」
「逃げないってば」
「信じられません。信用ありません」
「…………」
何と言っても逃亡の現行犯では言い逃れようがない。
項垂れて転移門に入る二人を見送ると、ジウは振り返って誰にともなく頭を下げた。
「お騒がせしました」と謝罪する彼女の手を、先程の酔漢が掴み取る。
「何だ、お前。急にしゃしゃり出てきて……」
「すみません。あなたを助けたつもりだったのですが、余計なお世話でしたか?」
「……は? 俺を?」
「あのまま殿下に傷でもつけていたら、あなた細切れの肉片にされたかもしれませんから。
―――― これくらいで済んでよかったね?」
言うが早いか、少女は素早く身を屈める。石畳に両手をつき、細い足で男の両足を払った。
避けるまもなく派手に転がった男を見て、周囲はわっと笑声を上げる。
それを確認もせずに彼女は身を翻すと転移門を開いたままの男のもとに駆け寄った。男は彼女の頭を軽く小突く。
「ほら、お前も戻れ、ジウ」
「すみません、ニケ」
まるで嵐のように去っていった四人。
転移によって消え去った彼らを見送った町人たちは、苦笑しながら町向こうの丘にある離宮を見上げる。
美しい景色しか見るものがない田舎町に突如建てられたその建物。豪奢な宮に誰が訪れているのか、彼らは知らされていない。
だが知らされずとも分かるだろう。そういったものはやはり何処からともなく人の口の端に上るものなのだから。
人々は転ばされた男に含み笑いと心にもない同情の声をかけ、その場を立ち去っていく。
よく晴れた青空。大陸は今日も平穏に包まれていた。
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