罅割れ殻の歌 006

禁転載

仕立て屋の腕というものを何処で見るものかは分からないが、採寸もせずに大体の裁断を済ませてくるサフィは、確かによい腕を持っているのだろう。裸になって何着かの服を試着仮縫いしてもらったリルヤは、色も形も異なるそれぞれの服に、羨望の息をついた。
「凄い。ありがとう」
「貸しだから後で返しなさいよ。布だって私の私物使ってるんだから」
「うん」
「っていうか、下着も持ってないとかどんだけ適当なの、あんた」
裸身の上に白衣だけを羽織っているリルヤを、サフィは呆れた目で見やる。
だがそう言われても何が非常識なのかよく分からない。リルヤは頬にかかる髪を錆びたピンで留めなおした。
「適当かな」
「そのピンもなんなのよ……。見てるだけでイライラすんだけど」
「ええ?」
「ちょっと、こっち来なさいよ。髪に泥とかついてるし。洗いたい」
何を言う間もなく手首を掴まれて、リルヤは部屋の隅の水路へと引きずっていかれる。そのままサフィは彼女を水路の縁に座らせ白衣を脱がせると、問答無用に頭から水をかけた。がしがしと泥や葉のついた髪を洗い始める。
「なんつかもうね、あんたみたいな顔の人間が自分を適当にしてるのむかつくの!」
「それは、ええと、ごめんなさい?」
「謝れ! あたしに謝れ!」
「ごめんなさい!」
サフィにあわせて叫んだリルヤは、沸き起こってくる楽しさに笑い出した。頭上から「何笑ってんのよ」と文句を言われたが、今この状況が嬉しくて仕方ない。
「変なやつ」
呆れ果てた声と髪を通る優しい指が、焦がれる程に心地よい。
目を閉じて鼻歌を歌いだしたリルヤを、サフィの手は一層の力を込めて洗っていった。

体の手入れとはこうするものだ、と教えられても、膨大に思えるそれらを全て自力ではやれそうにない。
髪だけに留まらず手足や指先、爪にいたるまでサフィによって整えられたリルヤは、水路の縁に座ったまま、まじまじと自分の裸身を見下ろした。
「なんか、不思議」
「何言ってんのよ。ちゃんと手をかければ全然違うでしょ?」
「それは分からないけど」
「おい」
「サフィがやってくれたのが嬉しい」
磨かれた爪は仄暗い地下で、柔らかい艶を灯している。その爪越しにリルヤが少女を見上げると、すっかりびしょ濡れになってしまった彼女は慌てて視線を逸らした。不機嫌そうな顔をしようとして、だが小さな唇だけは花のように綻ぶ。
「……あんた、本当変な子」
「うん」
「あたしのこと、ヒズから聞いた?」
その声は少しの緊張を孕んでいて、リルヤは彼女の表情を注視した。
不安と期待、微かな自嘲。読み取ろうと思っても全部を読み取ることは出来ない。だからリルヤは覚えておこうと思った。
「《サンドバンク》に住んでるって聞いた」
「それだけ?」
「仕事が終わったらここに来るんだって」
聞いたのはそれくらいだ。他にあっただろうか、とリルヤが記憶を振り返っていると、サフィは何処かすっきりしたように笑った。
「そっか。言ってないか」
「うん?」
「ま、当然のことだし自分で言うか」
そう言うとサフィは、ずぶ濡れになった自分の服に手をかける。
手際よくそれを脱いでいく少女を見上げて―――― リルヤは一瞬息を止めた。
細く白い躰。だかそれはリルヤ自身のものとは明らかに異なる。嘆息がひとりでにこぼれ落ちた。
「……《無性》」
「そ、珍しいでしょ。生まれる確率は一万人に一人くらいらしいよ」
稀に生まれる畸形の一種―――― 《無性》。その特徴は、美しい顔立ちに性別のない体だ。
男でも女でもない彼らは、総じて珍しい目の色をしており、十代半ばになると外見の成長が止まる。そして治療をしなければ、早くとも三十歳になる前には死亡する。
その存在は知識として残ってはいるが、当然出会った記憶はない。リルヤは驚きをもって、少女の平坦な体を見つめた。
胸はなく、生殖器もない。行き止まりの美しい生命。言葉を失う彼女の隣に、裸になったサフィは座る。
化粧の施された少女の貌と少年のような躰は、見る者に不均衡な印象を与え、その歪な魅力は……痛ましくも見えた。
細い膝を抱いてサフィは微笑む。
「あたしさ、こう見えてもあんたより年上だよ。外見変わらないからわかんないだろうけど」
「……うん」
「父さんもさ、あたしがこうだから心配性なんだよね。ここへの送り迎えとか絶対してくれるし。
 ほら、あんたは覚えてないかもしれないけど、《無性》ってさ、金持ちの変態とかが高く買うんだよ。
 だから周りであたしのこと知ってるやつはほとんどいないし、普段は仕立て部屋から出ない。
 ―――― でもここに来るのだけは、好きにさせてもらってる」
「ヒズを愛してるから?」
「そう。それがあたしの自由だから」
サフィは顎を逸らし上を向く。
誇らしげな横顔には繊細な翳があって、だがそれさえも鮮烈だった。
生きている、と高らかに謳う存在。
胸が熱くなる。こみ上げる感情をなんと呼ぶのか分からない。
そのまま何も言えないでいるリルヤに、サフィはにやりと笑った。
「で、今日は質問攻めないの?」
からかいを含んで赤い目が細められる。彼女の足が水を跳ね上げるのを、リルヤは目で追った。
「質問していいの?」
「いいよ」
「じゃあ……抱きしめてもいい?」
「それ質問じゃないよ」
言いながらもサフィは苦笑して、リルヤを手招いた。
すぐ傍にいる細い体、サフィという人間を、リルヤはそっと抱きしめる。
触れ合った部分から体温が伝わり、穏かな熱となって心の底に落ちていった。
柔らかい肌の下に硬質さを宿す《無性》の身体。濡れた肩に音のない息がかかる。細い肩に頬を預けて、リルヤは目を閉じた。
充足を求める飢えが、焦がれる思いを呼び起こす。
「……サフィにとって、愛してるってどういう気持ち?」
彼女の愛情は、どんな風に人を刻むのだろう。
リルヤの白い背を、少女の指が滑っていく。その手は最後に、確かめるようにきつく彼女を抱き寄せた。
泣き出しそうな熱情が震える声に込められる。
「こんな風に、触れ合って、相手の中に溶けいって眠りたい。―――― ずっと目覚めることなく」
抱きしめる体から、懇望が染み入る。
リルヤは引きずられるように眼を滲ませ、「教えてくれてありがとう」と囁いた。



定位置に戻って服を着たリルヤに、サフィは化粧のやり方も教えてくれた。
「知っときなさいよ」と言われながら顔の上に乗せられる指がくすぐったく、彼女は笑い声を上げる。
その度に怒られながら、リルヤは少女に多くの質問をした。
曰く、多くの《無性》がそうであるように、出産時に母親を亡くしていることや、人買いを避けてエリア10に移り住んだこと。性別を得る治療を受ける為、父娘でお金を貯めている最中であるということ。
サフィの人生を追っていく質問は、緑の光の下、とめどなくこぼれては消えていく。
髪を結ってもらいながら、リルヤは池越しにドームを見上げた。
「ヒズに初めて会ったのはいつ?」
「六年前。父が除染できる鑑定屋を探してここまで来たの。それで、緑が綺麗だったからって次に連れてきてもらったわ」
「ヒズは昔からああだった?」
「変わんないわね。彼も別エリアから来たクチらしいけど、昔から誰に対してもあんなよ」
六年前というと、ヒズもかなり若かったのだろう。だがそんな彼を想像しようとしても、具体的な姿が思い浮かばない。
今度機会があったら不精髭を剃ってもらおうとリルヤは考えた。
「サフィはヒズのどこが好きなの?」
「強いところ。誰に対しても変わらないし揺るがないところ」
「全方位無愛想?」
「身も蓋もない言い方するな。―――― あたしの父親も強い人間だけど、あたしには弱くなっちゃうから。
 あたしは、あたしのことで左右されない男がいいの。そういう相手なら安心して委ねて眠れる」
薄く笑う少女の嫣然とした笑みは、剥き出しの感情に薄い皮膜をかけたものだ。
本当の水面よりも水を通った光の方が、揺れを如実に示すように、彼女の微笑からは強い憧憬が透けて見える。
リルヤはそれを綺麗だと思った。
「ヒズね、好きな相手は解体したいって言ってたよ」
「……言いそうね」
「解体されちゃったら、サフィはヒズに食べさせればいいの?」
「グロっ! 何そのグロい発想! なんでそうなるのよ!?」
「だってサフィが好きな人の中にいたいって」
「そういう意味じゃないし。あんた頭大丈夫?」
サフィは錆びてないピンをまとめた茶色の髪に挿す。ちくりと肌に走る意趣返しに、リルヤは飛び上がりそうになった。
少女は弾みをつけて隣に座る。
「あんたは忘れてるかもしれないけどね、愛ってのはこの世で一番上等な感情なのよ」
「みんなそれぞれ違うのに?」
「違わないものなんてないわ」
―――― それはとても不思議だ。
同じ名前のものなのに、どうして違うことが当たり前なのか。
それとも違うものを同じ名でくくっているだけなのか。
リルヤが首を捻っていると、その後ろにサフィは寝転ぶ。
「疲れたからちょっと寝る」
「あ、うん」
「歌でも歌ってよ」
「歌?」
「さっき歌ってたでしょ。鼻歌」
「ああ」
言われてみれば、気分のよい時に歌う歌がある。
普段は鼻歌程度だが、意識してみると詞も分かった。リルヤは目を閉じた少女の為に、その歌を歌いだす。
抑揚に乏しい旋律。罅割れた殻の中から、名のない雛が外を窺っているという歌。
それは記憶のない自分が、忘れてしまった過去から持ってきたものなのだと―――― 彼女はこの時、初めて気づいた。



いつの間にかサフィと並んで眠ってしまったらしい。
目が覚めた時、隣に彼女の姿はなく、リルヤは髪に気をつけながら体を起こした。
水の流れる音。静まり返った地下の部屋は、海の底に似ている。
ヒズの姿はない。息を殺して耳を澄ますと、階上で人が話している気配が感じ取れた。
内容までは聞き取れない。だが微かに聞こえてくる囁き声は少女のもので、リルヤはそのことに安堵を覚える。
あの美しい生命が誰かに愛を捧げている。そう思うと、ただ純粋に嬉しかった。