mudan tensai genkin desu -yuki
リズルが「それ」に出会ったのは秋の終わり、村から一番近い山の麓においてのことだった。
冬を間近に控えた肌寒い薄曇りの日、薬草を採りに森へと出た少女は、寒い日が続いたせいかほとんど探していた草が採れないことに困っていた。そのせいでいつもは行かぬような森の奥にまで足を踏み入れてしまったのだ。
草木の間を縫って進む小さな足。小柄な彼女でなければ、或いは「それ」のところまでは行き着かなかったのかもしれない。
だがリズルは足下の草だけを見て奥へ奥へと入り込んでいった。
そうしてふと顔を上げた彼女は、鬱蒼と木が茂っているばかりの森の中で、少し離れた場所に広場らしきものがあることに気付いたのである。
木のない空間。まるで不自然なその場所は、おおよそ少女の住む小さな家三軒分程度の広さはあるようだった。
このような場所に何故空き地のようなものがあるのか、リズルは素朴な好奇心に駆られて足を進める。
足下は見ない。探している薬草のことは既に頭の中で薄れていた。少女はがさがさと音を立てて前へ進む。
その場所はどうやら地面を覆い隠す高い草さえも生えていないようである。これはもしかして泉でも湧いているのかもしれない。
草を掻き分け木々の間を縫い「広場」の縁へと辿りついた彼女は、しかし中を覗き込んではっと息を飲んだ。
木々は生えていないのではなく薙ぎ倒されていただけだ。草は上から押しつぶされたのだろう。ほとんどが根元からひしゃいでいた。
そうして作られた空間の真ん中には美しい緑色の蜥蜴が寝そべっている。
もっともそれはリズルが「蜥蜴」と思っただけで、本物の蜥蜴でないことは明らかだった。
全身を覆う鮮やかな緑の肌は宝石のように硬質な輝きを放っている。足は太く長く、体の横にではなく牛馬のように下についていた。その先には鋭い爪が見え、この不思議な生き物が肉食だということを感じさせる。
そしてもっとも本物の蜥蜴と異なっているのは、その大きさだろう。
伏せられている長い頭から尾の先までは、大人の男の背丈ゆうに三人分はある。
大きな目は今は閉じられており、この蜥蜴が生きているのか死んでいるのか分からない。そこまで見たリズルはそっと唾を飲み込んだ。
―――― 気付かれないうちに引き返した方がいい。
それは物知らずな彼女にも分かることだ。森に踏み込む時の鉄則は、無理をしないことと用心深くなること。
リズルは薬草の見分け方より先に、この二つを養い親から徹底的に叩き込まれたのだ。
その教えからすると、今ここで巨大な蜥蜴を窺っていること自体既に愚かな行いだ。
太い木を何本も薙ぎ倒すような生き物に、万が一気付かれたのなら為す術がない。
そうと分かっていてもだが、リズルは美しい緑の蜥蜴から目を離すことが出来なかった。食い入るように鮮やかな肌に見入っていた少女は、折り畳まれた四肢の間、草に押し付けられた腹から青紫の液体が染み出していることに気付く。
「ひょっとして……怪我してるの?」
草を濡らす体液は、かなりの量であるようにも見えた。
リズルは自分が提げている籠の中を見下ろす。中に摘まれている薬草の中には血止めの為のものもあった。
少女は籠の草と蜥蜴の腹を順に見て逡巡する。
草を踏む音。少女の足は緊張に強張っていたが、それでも出来るだけ音を出さないようにと慎重に動いた。
リズルは蜥蜴が目覚めないことを願いながら、そっと腹の傷へと歩み寄る。
すぐ傍にしゃがみこんだ彼女は、後ろ足の爪の大きさにぎくりとした。
しかしそのようなことに構っていられる時間はない。リズルは急いで籠の中に手を伸ばした。ぎこちなく固まりかける指で血止めの葉を引っ張り出す。何度か手を滑らせながら、少女は十数枚の葉を取り出した。おそるおそるそれを腹の傷口へと貼る。
薄い葉ごしに触れた蜥蜴の肌はひんやりと冷たかった。
よく磨かれた石に触れるような澄んだ感触。弾けばりんと鳴りそうな緑の皮膚に、リズルは束の間見入った。
体全てが宝石で覆われているような美しさ。よく見れば艶やかなそこにはうっすらと自身の顔が映っている。
少女は幻想を垣間見ているような気分になり、じっとその皮膚を注視した。目の奥にまで淡い光が入り込んでくる。
―――― この世にこれ程まで美しい色があったのか。
見つめれば見つめるほど引きこまれる緑光は、どのような新緑よりも鮮やかで、その清澄は頭の中までも支配していくかのようだ。
誰に媚びることもない輝き。触れることさえ躊躇われる玉石の肌ひとかけらでさえ、きっと他のどの生き物よりも貴いだろう。
まるで熱に浮かされているような思考でつい手を止めかけた少女は、けれど己の溜息を聞いてようやく我に返った。忙しなく葉を貼る作業に戻っていく。
少しずつ青紫色の血を指で拭い、血止めを施していく過程。
草の上に接している部分までは無理だが、リズルは剥き出しになっている傷口には一枚一枚丁寧に大葉を当てていった。
そうして一心不乱に行っていた手当がようやく終わると、少女は大きく息をつく。
「効けばいいんだけど……」
これ以上彼女に出来ることはない。あとは気づかれぬうちにこの場から離れるだけだ。
そう思って立ち上がったリズルは、けれどもう一度美しい蜥蜴に見惚れてしまった。その緑の光を目に映し、夢心地になる。
うっとりと宝玉の表皮を見つめていた時間は、彼女の主観では長くなかった。
だが実際はそれなりの時間が経過していたのだろう。薙ぎ倒された木の上に伸びる尾を見ていたリズルは、ふと何ものかの視線に気づいて横を見る。そしてぞっと身を竦めた。
先程まで固く閉ざされていたはずの瞳。それが今や、はっきりと開かれて彼女を見ていた。
深い深い緑の色。森の闇を凝縮したような横長の目が彼女を凝視している。
リズルは喉元まで出かかった悲鳴を押さえた。
動きのない沈黙の時間。それは彼女に与えられた弁明の時間だったのかもしれない。
しかしリズルはそのようなところにまで頭が回らなかった。ただうろたえて後ずさる。
「ああっ」
倒木の枝に足を取られた彼女は、草の上に尻餅をついた。
痛みの走る腰。少女は小さく呻いて立ち上がろうとする。
しかしその時には既に、リズルの眼前には蜥蜴の頭があった。
「ひっ」
正面からは暗緑の目はほとんど見えない。ただ蜥蜴はその代わりであるかのように大きく口を開いた。
女子供くらい一飲みに出来そうな顎。赤黒い口内と縁にびっしりと並ぶ鋸のような歯を見て、リズルは気が遠くなる。息も絶え絶えになりながら首を横に振った。
「まって……ごめんなさい……怪我してるみたいだったから……」
先程までは忘我する程に惹かれていた美しい生き物。
しかし今のリズルには「食われる」という恐怖の方が大きかった。籠を放り出し、両手をついて巨大な顎から遠ざかろうとする。
だが震える手は草を掻き、土の中にめり込んで、ちっとも役目を果たしてはくれなかった。
少女はせめて自分があの牙に穴だらけにされるところは見たくないと、きつく目を閉じる。
最期の時に思い出すべきは何であるのか。
彼女はけれど少しも意味のある記憶を引き出すことが出来なかった。ただ滅裂な恐怖と喘ぎが暗い視界を揺らす。
「ゆ、るして」
言葉になったものはそれくらいだ。
浅い息を繰り返しすぎて倒れそうになったリズルは、頭を抱えて蹲る。
心臓が体を突き抜けて飛び跳ねてしまいそうだ。あまりにも震える手が自分のものとは思えない。
ただ死を待つだけの時間。しかし彼女の体には一向に、何も触れてくることはなかった。
そのことに気付いたリズルは、だがすぐには顔を上げられず身を竦める。
ようやく震える手を下ろしたのは、草の上を何かが這って遠ざかっていく音がした時のことであった。
少女はぼやけた視界に蜥蜴の長い尾が揺れているのを見る。
太くしなやかなそれはけれど、彼女を打たないように半分を曲げているようであった。
リズルは僅かな木漏れ日に輝くその表皮を呆然と眺める。
「あ、ありがとう……」
消え入るような声に蜥蜴は振り返った。暗緑の瞳が彼女を見つめる。
広い森の影そのもののような色。
そこに浮かぶ光は思っていたよりずっと優しげなもので、リズルはまた、その色に見惚れた。
家に帰る時はいつも戸を軋ませないようにと注意する。
薄い木の扉が鳴っては、帰ってきたことが養い親に分かってしまうのだ。
勿論帰っていなければそれはそれで怒られるのだが、リズルは戻ってきたところを彼女に見咎められることが嫌いだった。
その日も気をつけてそっと扉を開いた少女は、けれど細く長く上がる木の音にがっかりする。
すぐに奥の部屋からは養母が現れ、彼女の全身を鋭い目で検分した。
「随分遅かったじゃないか」
「ごめんなさい」
「何かおかしなことに関わっていたんじゃないだろうね」
「そんなことないです」
白髪混じりの髪、あちこちに皺のある顔は、けれどまだ老いているようには見えない。
それは体格のよさと、きつい顔つきの為だろう。リズルの養母であるミドは体のあちこちに苦労の痕を残しているが、それを何とも思っていない強靭さを兼ね備えていた。十二年前、事故で両親を失ったリズルを引き取ってから彼女を育て続けてきた薬師は、少女が籠を背に回そうとしていることに気付くと、目を尖らせる。
「寄越しな」
反論を許さぬ命令。差し出された手に、リズルは嫌々ながらも籠を渡した。その中を覗き込んだミドは眉を寄せる。
「なんだい、血止めの葉が全然足りないじゃないか」
「あんまり見つからなくて……」
「困るんだよ。あれはいつも使うものだからね」
「また明日行きます」
それ以上小言を言われないようリズルはすぐに答えた。ミドは眉間に皺を寄せたが、溜息を一つついて踵を返す。
今が好機だと思った少女は、素早く自分の部屋へと駆け出した。その背に女の声がかかる。
「ちゃんと汚れは落すんだよ! 何がついてるか分からないからね!」
「はい」
それだけ言って自室へと飛び込んだリズルは、閉まる扉の音を聞いていつものように安堵した。
小さな部屋はあちこちがくたびれて煤けていた。
色褪せた花籠が乗っている机。歩くとぎしぎし音を立てる床。薄い壁の染みはまるで大きな口を開けた老婆のように見えた。
少しも好きになれない部屋。だが村の中で彼女が気を張らずにいられる場所はここだけだ。
埃で曇った硝子窓は、よくミドにきちんと掃除するよう怒られていたが、リズルは外を見ることも見られることもしたくなかった。
少女は鏡のない部屋を見回す。顔立ちがいいわけでも愛嬌があるわけでもない彼女は、貧相な自分の姿が大嫌いだった。
同じ年頃の少女たちはいつも小奇麗な格好ではしゃぎ回っているというのに、親のいない彼女は新しい服など買ってもらうことは出来ない。リズルの服はいつも養母の色褪せた服の仕立て直しであり、大きさのあまりあっていない不恰好な姿を子供たちに笑われることも少なくなかった。そのような引け目が外見にも現れてしまうのか、大人たちには陰気な娘と陰口を叩かれ、少女たちからはあからさまに避けられている。
もっと幼い頃には「居場所がない」と養母に泣いて訴えたこともあったが、ミドは「お前がきちんとしてればいいだけだ」とまったく取り合ってくれなかった。今では毎日のように森に出て、村にいる時間を出来るだけ減らすようにしている。
彼女はしばらく椅子に座って呆然としていたが、泥に汚れた手と服に気付くとそろそろと部屋を出た。ミドに気付かれないよう裏の井戸から桶に水を汲む。
冷たい水の中に曝した両手は、荒れてあちこち罅割れていた。
同じ皮でもあの蜥蜴とは大違いである。リズルは思わず溜息をついた。
「あんな生き物もいるんだ……」
ただひたすらに美しい存在。あまり言葉を知らない彼女はそうとしか表現することが出来ない。
リズルは輝くばかりの表皮と深い緑の瞳を思い出し、幻想の余韻に浸る。
まるで白昼夢のような邂逅だった。今でも現実と信じられない。
しかしリズルは確かに自分の指が緑の肌に触れた感触を覚えていた。ひやりとした温度が甦る。
そこにはきっと、彼女の知らない気高さのようなものが潜んでいるのだろう。
リズルは記憶の中をしばし漂った。桶につけたままの指先がしんしんと痛む。
―――― あの蜥蜴は、彼女を殺さなかった。
おそらく怪我の手当をしていたと分かってくれたのだろう。動いたことでずれた葉を直したいと彼女が言うと、まるで頷くかのように薄い瞼の膜を上下させた。
そしてリズルが震える手で覚束なくそれを直しても、何もしてこなかったのだ。
帰ろうとする彼女を見つめていた目。その瞳の温かさをリズルは思い出す。
自分の存在を許されているという思いが、疲れているはずの彼女を高揚させた。
腹の血は止まっただろうか。腹を空かせていないだろうか。
リズルはそわそわと落ち着かない気分になると、また明日様子を見に行ってみようと思った。
翌朝、リズルは養母に何かを言われる前に家を飛び出した。まっすぐに森へと走る。
携えた籠の中には彼女の朝食であるパンが入っていた。あわせて食べられる木の実や薬草などを集めながら、少女は昨日の場所へと向かう。
蜥蜴は一晩経ってもまだ同じ場所に寝そべっていた。怪我は大分よくなったのかもしれない。
リズルの気配に気付くと、それは薄い瞼を上げる。少女は緊張しながら持ってきた籠の中身を蜥蜴の口近くに並べた。
「た、食べられる? お腹空いたかと思って……」
リズルは少し離れて様子を見る。蜥蜴は並べられたパンや木の実を見ていたが、おもむろに頭を起こすと木の実の方を食べ始めた。固いパンにはどうやら興味がないらしい。リズルは土に汚れてしまったそれを少し残念に思う。
蹲って待っていた少女は、蜥蜴が食事を終えると立ち上がった。
「傷、見せてもらってもいい? 薬草採って来たから……」
この大きな蜥蜴はどうやらある程度彼女の言葉を理解出来ているらしい。のろのろと太い足を伸ばすと腹を浮かす。
リズルは急いで傷口に近づくと、貼ってあった葉をはがして様子を確認した。
どうやら血は止まったようだ。彼女は持ってきた布で軽く傷口の血と泥を拭うと、もう一度新しい葉を貼る。
その作業に必死になりながら、リズルはまた輝く肌に魅入られた。
世界にこれ以上美しいものがあるだろうか。自分が今、その存在に許容されているのだという自負が確かに少女を満たした。
手当を終えるとリズルはほっと息を吐き出す。そのまま籠を拾い上げようとして、しかし不意に態勢を崩した。
手をつこうとしたが転んでしまった彼女は、すりむいた脹脛を手で押さえる。
「いた……」
みるみる滲み出す血は泥と混じって赤黒くなる。その汚らしさにリズルは傷の痛みよりも大きく落胆してしまった。
どうして自分はここまで醜いのか、目の前の生き物との落差に胸が苦しくなる。
思わず目を潤ませたリズルは嘆息を零した。その音で気付いたのか蜥蜴が彼女の方を向く。暗緑色の瞳が足の怪我を捉えた。
蜥蜴は二、三度まばたきをすると大きく口を開く。
その仕草にリズルはぎょっとしたが、彼女をどうこうしようという気はないらしい。
ただ何度か開閉される口は、まるで話をしようとしているかのようだった。
リズルは自分の怪我も忘れ、蜥蜴の意思を読み取ろうとする。
「何? 何て言いたいの?」
大きな口の中からは鳴き声さえも聞こえてこない。困惑するリズルに、蜥蜴は長い尾を動かした。その先端で自らの腹の傷を指す。そして次に尾の先はリズルの怪我を示した。
少女は頷く。
「ああ、同じね」
二人とも怪我をしているということを言いたかったのかとリズルは察したが、どうやらそれは違っていたらしい。
彼女の感想を否定するように何度も往復する尾は、やがてリズルが持っていた布を指した。青紫の血がついている布。加えて尾は放り出された籠の中から、血止めの葉を指す。
「あ……」
ひょっとして布で止血をしろということだろうか。
リズルは得心すると、手元の布から泥だけを軽く落とした。それを自分の脹脛に巻く。
血が出ているとは言えたいした怪我ではないのだが、気にかけてもらえたことが何だか嬉しい。
少女はところどころ青紫に染まっている布をきつく縛る。その時、傷口に激痛が走った。
「っあ、っ!」
小さな悲鳴を上げたリズルは慌てて布を解く。何か棘でも混ざっていたかと思ったのだ。
しかしそこには何もなかった。傷口に刺さっているものなどない。それどころか、傷そのものもなくなっていた。
「え?」
驚いた彼女は傷にあてていた布を見やる。そこには青紫の染みの上に、微かに赤い血が見て取れた。リズルは目を丸くする。
―――― 世界には、その血肉が薬となる生き物もいるのだと、ミドに聞いたことがある。
ならばこの蜥蜴の血もそういった力を持っているのかもしれない。リズルは心持ち元よりも滑らかになった肌を見下ろした。
「凄い……ありがとう」
礼を言うと蜥蜴は目を細めた。その目は微笑んでいるようにも見えて、少女は自分も笑う。
くすぐったいような喜びは、初めて他者に居場所を許された感覚なのかもしれない。
この日から彼女は、一人森の奥に通うようになった。
美しい蜥蜴を、リズルは「ラア」と名付けた。
それはそのまま「美」という意味だ。少女はそれを口にすること自体が喜びであるかのように、よく蜥蜴の名を呼んだ。
ラアはいつも同じ場所にいて動かなかったが、彼女が採ってくる木の実などを食べていれば用も済むらしい。
リズルは日に日によくなっていく腹の傷を見ながら、許される限りラアの傍に寄り添った。
ひんやりとした肌を持つ蜥蜴は、しばしばその巨体に彼女を寄りかからせて眠る。リズルはその感触が好きだった。
言葉なき時間、不思議な生物と過ごす時は、取り立てて変わったことも起こらない。
一度リズルが何かの胞子を吸い込んでしまい、咳が止まらなくなったこともあったが、ラアから血をもらって飲めばそれもすぐに治った。
葉の合間から僅かに注ぐ日の光。輝く緑の表皮は、彼女の誇りで憧憬の全てだった。
「ラアは何ていう生き物なの? 他に仲間はいないの?」
ある日の昼下がり、太い尻尾に寄りかかったリズルがそう尋ねるとラアは顔を上げた。薄い瞼膜が開き少女を見つめる。
暗緑の瞳は、感情が窺えることもあればまったく分からないこともあった。大きな口が一度開閉される。リズルは頷いた。
「そう。仲間いるんだ」
それは考えてみれば当たり前のことかもしれない。ラアにも親がいて、そうして生まれたのだろう。
リズルはけれどそのことに少しだけ嫉妬を覚えた。そっと緑の肌を撫でる。
「怪我が治ったら……」
いつかラアも、元の仲間のところに帰ってしまうのだろうか。
それはとても淋しい。いつでも会えるところにいて欲しい。
消沈して目を閉じる少女を、ラアは片目だけで見つめる。
それに気付いたリズルは少しだけ嬉しくなった。
森で過ごす時間が長くなる分、村に戻る時刻は自然と遅くなっていった。
その日も黄昏時になってから帰ってきたリズルは、森に面した村の裏から足早に家へと向かう。
途中すれ違った村の女たちが、彼女を見てひそひそ話を始めたが、少女はそれを無視した。逃げるように人の視線を避けて駆け出す。
小さな家々の間から見える夕焼け。何処からか聞こえてくる子供の笑声が彼女の背を叩く。森にいた時の充足感がみるみるうちに霧散していった。
リズルは出来るだけ暗い場所を選んで村の端にある家へと戻る。そそくさと中に入ろうとして、戸の前にいるミドに気付き凍りついた。
「リズル!」
腕組みをして立っている女は、養い子を待ってそこにいたらしい。目ざとくリズルを見つけるなり鋭い声をぶつけてきた。
彼女は反射的に逃げ出したくなったが、そのようなことが出来る訳もない。籠を握り締め養母の前へと出る。
調合をしていたのか薬で汚れた服のままのミドは、じろじろと少女の姿を観察した。
「随分遅かったね」
「あ、あちこち探してて……」
リズルは薬草の入った籠を前に出す。しかしミドはそれをすぐには受け取らず、少女の顔を覗き込んだ。
「本当に薬草を採ってたのかい?」
「はい」
「他所の男に騙されたりしてないだろうね」
「な……」
それを聞いたリズルは頭の中が瞬間真っ赤になるのを感じた。
―――― ここしばらく帰りが遅かったことを、そのように思われていたのか。
少女の中に怒りと、汚らしいものをなすりつけられたかのような嫌悪感が湧いてくる。震える声で反駁した。
「そんなことしてません」
「ならいいけどね。あんまり暗くなるまで外を出歩いているんじゃないよ。何を言われるか分からないからね」
「気をつけます」
これ以上一秒たりとも彼女と話していたくない。
リズルは半ば籠を押し付けるようにしてミドに渡すと、その脇をすり抜け家の中へと入った。自室に飛び込む瞬間、ミドの怒鳴り声が聞こえる。
「リズル! その態度はなんだい!」
少女は両手で耳を塞ぎ寝台にもぐりこんだ。掛布の下のひんやりとした暗闇。多少の息苦しさを感じるそこで、歯を噛み締めて吐き気を堪える。
人と一緒にいて嬉しいことなどない。苦しいか、汚らしいか、そのようなものばかりで、リズルは今すぐラアのところに戻りたかった。喉元まで嗚咽がこみ上げてくる。
「もういや」
ぽつりと呟いた言葉。
投げやりなその響きを枕にして、リズルはその晩夕食も取らず部屋に引きこもった。
そして翌日、彼女は夜が明ける前に家を抜け出し、森の奥へと向かったのである。
まだ薄暗い森の中は冷え切っていた。リズルは白い息を吐きながらラアの元へと駆ける。
細い草葉が足を掠め薄い切り傷を作ったが、そのようなことは気にしていられなかった。少女は溺れる者のようにその名を呼ぶ。
「ラア!」
彼女の声に、ラアが返事をするということはない。
しかしそれでもラアを求めて声を上げれば、その分自由になれる気がした。リズルは最も美しい緑を求めて森を走る。
ずっとラアと一緒にいたい。出来るならもうあの村には戻りたくなかった。
そう言ってみたら何かが変わるのだろうか。少女は昨日も踏んだ草を踏みつけ、秘された広場へと向かう。
しかし目的の場所へとついた時、彼女はあまりのことに言葉も出ず立ち尽くした。
ラアが草木を薙いで作った広場。そこに、あの美しい姿がない。
何処かに行ってしまったのだ。草の上にはラアが這っていったと思しき跡だけが残っていた。
リズルは不意によろめく。視界は真っ暗になり、すぐには何も考えられなかった。力の抜けた少女はその場にへたりこむ。
「ラア……?」
かぼそい呼び声は森の木々の中へと空しく吸い込まれていった。途端襲ってくる冷気。リズルは身を震わせる。
どうしていなくなってしまったのか。虚脱感が大きすぎて泣くことすら出来ない。
彼女は胡乱な目で広場の向こうへと伸びている草の跡を眺めた。
「ラア」
先程まではあれ程輝いて思えた名も、呼ぶ相手がいなければ途端に色褪せて思える。
リズルは長い自失の後のろのろと立ち上がると、ラアの去っていったであろう跡を追って歩き出した。
来た時とは違う重い足取りは、なかなか先へと彼女を運ばない。
リズルはほとんど惰性で草の上を歩き続けていた。現実を認識するにつれ目頭が熱くなる。
たとえこの道を追って行ってラアに会えたとしても、ラアが彼女に黙って去っていったという事実には変わらないのだ。
いざ会えた時この裏切られたような気持ちを拭えるかどうか自信がない。鬱屈とした感情のまま詰ってしまいそうで、リズルは嫌だった。
肩を落とし歩いていた彼女は、しかしその時遠くから聞こえてくる人の声に顔を上げる。
いつの間にか村に近いところにまで来ていたらしい。そのことに気付くと彼女は愕然となった。
「ラア!」
もし他の人間にでもラアが見つかれば、大変なことになってしまう。
あの美しい表皮は全て剥がされ売られてしまうだろう。怪我や病を治す血は一滴残らず絞り取られてしまうに違いない。
リズルは我に返ると草の跡を走って追い始めた。道は確かに村の方へと向かっている。
それに伴い大きくなる人の声。騒然とした空気に、リズルはラアが村人たちに襲われているのだと思った。
彼女は道を追うことをやめ、声のする方へ一直線に森を突っ切る。
そうして草を掻き分け村の中へと出たリズルは―――― 理解できぬ光景に立ち竦んだ。
美しい緑の体。日の光を受けて鮮やかな輝きを放つ巨体は、村の中にあって嘘のように堂々としていた。
皮膚や血を守るため人間から逃げているということなどない。それは、逆に人間を食らっていたのだ。
ラアと同じ色。だがその体はラアの二倍はある。
地面を揺らして歩いていた蜥蜴は、玩具を壊すように路上にあった荷車を踏みつけた。
ばらばらに飛び散る木片。蜥蜴は素早くその影に隠れていた男に食らいつく。
リズルは、鋸のような歯に噛み切られた男の下半身が路上に落ちるのを何も言えずに見ていた。
地面を鮮血が濡らす。くちゃくちゃと咀嚼の音が聞こえた。
「ラア」
あれはラアではない。大きさが違う。目を見れば分かる。
だが今見ているこれは何であるのか。リズルは己の頭を越える現実に呆然として動けなかった。
何処か遠くから聞こえてくる悲鳴。ゆるりと見回すと、離れた場所に緑の太い尾が上がっているのが見える。
ああ、一匹ではないのだと、少女は思った。
咀嚼の音がやむ。蜥蜴は次の獲物を探して頭を巡らせた。暗緑色の瞳がリズルを捉える。
その時まだ恐怖は少女を覆ってはいなかった。
彼女が我に返ったのは、近くの家の影で別の女が悲鳴を上げたからだ。
リズルを見ていた蜥蜴は、その声に引かれたのか女へと走り出す。本物の蜥蜴よりは長い足が重音を立てて地を蹴った。鋭い歯が逃げ出そうとしていた女の背をこそぎとる。
真っ赤な血肉を撒き散らして倒れる女は、よくリズルを見て顔を顰めていた人間で、けれどもう彼女を侮蔑することは出来なそうだった。伏した体を蜥蜴はがつがつと音を立てて食らっていく。
「ひぃ……っ」
喉元まで出かかった悲鳴をリズルは口を塞いで押さえた。声を出してはいけない。目をつけられたら終わりだ。
彼女は身を翻すと家に向かって駆け出す。頭の中は真っ白で何も考えられない。けれどこの場にいては不味いとは分かった。
いつもとは異なる状況で、だがいつものように家々の影を伝ってリズルは走る。
村中あちこちから聞こえてくる絶叫。彼女はその時、何も考えてはいなかった。
それでも薄汚れて小さな家が視界の先に見えてくると、激しい安堵が彼女を襲う。
幸い近くには蜥蜴の姿は見えない。彼女は鍵のかかっていない戸を開けて中に飛び込むと、固く掛け金を下ろした。肩で息をつく。
その時、廊下の奥からミドが出てきた。
「リズル! 何処行ってたんだい!」
「あ……」
鍵がかかっていなかった為、てっきりミドは外に逃げたのかと思ったが、そうではなかったらしい。
つかつかと近づいてくる養母に、リズルは身を竦めて俯いた。殴られるのかと歯を食いしばる。
しかし女は伸ばした両腕で、少女を強く抱き締めた。安堵の呟きが耳元で聞こえる。
「よかった……心配したんだよ。まさかこんなところに幻獣が来るなんてね」
「え……」
「さあ早く! 部屋に行って大事なものだけ持ってきな。村から逃げるからね」
背中を押さえれてリズルは自室へと入る。ほとんど物のない部屋。何を持ち出せばいいのか、すぐには分からなかった。
おろおろと周囲を見回した彼女は、机の上にあった花籠だけを手に取る。
それは両親を失ってすぐ泣いてばかりいた彼女にミドが作ってくれたもので、けれど最近の彼女は見向きもしていない布飾りだった。
何も考えずそれだけを手にした少女は廊下へと戻る。ミドは彼女が手にしている花籠を見てふっと苦笑したが、すぐに厳しい表情で急きたてた。
「行くよ。何を見ても大きな声を上げちゃ駄目だよ」
リズルはただ頷く。二人は戸の掛け金を開け、外へと出た。ミドは森の方を指差す。
「森の中なら大きいのは入ってこられないからね」
「あ、でも」
それは違う、と言おうとしたリズルは、けれどミドに手を引かれて走り出した。
森まではそう遠くない。見つからずに逃げ込めれば本当に助かるのだろうか。
少女は養母の手に引かれもつれるようにして駆けた。けれどその時、大きな影が二人の上に差す。
「み、みつかった!」
「走るんだよ! 振り返っちゃ駄目!」
そう言われながらもリズルは後ろを見た。
澄んだ光を反射する緑の肌。日の下で喩えようもなく輝く巨体が、逃げる二人を見下ろしている。
もはや蜥蜴と言うことも出来ないそれは、馬さえも飲み込めそうな口を開いた。ぎざぎざと細かい歯の間に女の長い髪の束が挟まっている。口腔内にこびりついた黄色い脂らしきもの。リズルは我を忘れ絶叫した。
「ああああああああああっ!」
「リズル!」
強く手を引かれる。彼女の体はそうして森の方へと突き飛ばされた。
ミドは尻餅をついた少女を庇って両手を大きく広げる。
「お逃げ! 早く!」
自分に向けられたミドの背をリズルは見上げた。
ちっぽけな後姿。少しも好きではなかった女。
けれど今、自分を守ろうとしている養母をリズルは呆然と見つめる。
―――― その体は彼女の目の前で、腰から上がなくなった。
顔から足にかかる血飛沫。生温かい感触と地に倒れた両足が現実を訴えた。
リズルは何も言えず、その足に手を伸ばす。
触れた体はまだ充分に温かい。
いつも薄汚れていた服はみるみる血を吸い込み、布だか肉だか分からないものへと変わっていった。袖から花籠が転がり落ちる。
血溜まりの中にへたりこんでいるリズルは、養母を噛み砕く幻獣を見上げた。
煌びやかな緑石の皮膚は彼女が憧れたものと同じである。けれどもうそれを美しいとは思えなかった。
「お、かあさ」
立ち上がる力はない。恐怖はあったが、それ以上にもう駄目だという思いが大きかった。
少女は自分を見下ろしてくる幻獣から目を逸らす。生臭い匂いが鼻をついて、正気に戻れば吐いてしまいそうだ。
そうして横を見た彼女は、けれどゆっくりと自分の方に向かって歩いてくる緑の蜥蜴に気付く。
見間違えるはずもない瞳。一回り小さい体の腹には覚えのある傷痕があった。
少女の胸の中に熱いものがこみ上げてくる。
「ラア!」
今この現実が絶望なら、ラアの存在は唯一の希望だ。
リズルは必死に手を伸ばす。一方大きな幻獣の方は何故か少し退いた。ラアは一歩一歩彼女の方に近づいてくる。
「ラア、探してたんだよ。心配して……」
現状を問い質すより先に、この気持ちを伝えたいという衝動がリズルを突き動かした。
他に残っているものなど何もない。元からなかったのだ。彼女は自分が愚かであったことを知りたくなかった。
ラアは少女の前で足を止める。暗緑の瞳がじっと彼女を見つめた。
リズルは血に汚れた左手をその顎に触れさせる。ひんやりとした感触。少女は少し嗚咽を零した。
「ラア」
歯のある口が二度開閉される。リズルは目を瞠った。
鋸のような歯が、彼女の腹に食らいつく。
「あああああああぁぁぁああぁぁあっっ!!」
生きながら腸を食われる痛み。絶叫し崩れ落ちた彼女を、ラアは頭で転がした。そうして仰臥させた少女の腹をまた食べ始める。
希望はない。鋸のような歯が内腑に穴をあける度、リズルの体は跳ねた。大きく見開かれた瞳から涙が溢れる。
濁った視界。もう美しい緑は見えない。彼女の居場所は何処にもない。
こうしてリズルは血溜まりの中で、幻獣の子に食われて死んだ。
※
小さな村の風景は何処も大して変わりがない。
平らでない地面。小さな家々。粗末で平穏な日常は、女にほろ苦い懐かしさを抱かせる。
生温い風が彼女の髪を揺らし、荷車の藁をざわめかせた。近くには痩せた犬が繋がれている。
旅人もあまり訪れないのだろう村の小道を歩く彼女は、先程から住民たちに好奇の目で見られていた。
女はそのうちの一人、十代半ばの少年に気付くとにっこりと笑ってみせる。彼は驚いたのか慌てて納屋の裏へと逃げ去った。
森に程近いこの村の住民は、約五百人程度だろうか。
一通りを回ったリズルはそう見積もると、村の外れにあった切り株に腰掛ける。目を閉じて情報を送った。
ラアはすぐにそれを受け取ったらしく、了承の意が返ってくる。彼女は微笑んで空を見上げた。
あの日リズルは、確かに死んだ。
友だと思っていたラアに腸を食われて死んだのだ。その遺骸は地面に打ち捨てられていた。
彼女が意識を取り戻したのは、丸一日経った後のことだ。
気づいた時腹の傷は元通りになっていて、彼女は途方に暮れて人がいなくなった村を彷徨うと、最後にラアを呼んだ。
詳しいことは分からない。
ただ彼女は死んだ時、既に体質が変わっていたのだろう。
呼ばれて現れたラアは再度彼女を食らったが、リズルはやはり一晩経って再生した。
死ねない体になっていたのだ。そのような人間は村で彼女だけだった。
「やっぱりあの時の血が原因かな……」
胞子を吸い込んでしまった時に飲ませてもらったラアの血が原因なのかもしれない。
だがそれを確かめる術はないだろう。彼女はいつの間にか人ではなくなった。
寄る辺もないリズルは食われても食われても最後にはラアを呼んで、ついにはその同胞となった。
一年に一度、人の集落を襲って食事をしていく幻獣の群れ。その先駆けとして彼女は手ごろな村を探し偵察する。
そうして戦士の有無や人数を報告し、ラアたちを村に呼び込むのだ。
流れる雲を見ていたリズルは、少女のきつい声に視線を戻した。
見ると十代半ばと思しき少女が、道端で母親らしき女と言い争いをしている。
大方たいして深刻な話でもないのだろう。だが少女にとっては違う。彼女は注意してくる母親に怒声を投げつけるとその場から走り去った。リズルはじっと取り残された母親を見つめる。
―――― 近くにある時には分からないものなのだ。
口煩く厳しい養母がどれ程の愛情を持って接してくれていたのか、リズルは結局気付くことが出来なかった。
現状を疎んでばかりいた少女がそのことを知ったのは、養母の死によってである。
リズルは己の愚かさを永劫忘れることはないだろう。
彼女は、溜息をついて帰っていく母親の背を懐かしく眺める。
あの母親は幻獣を前にしておそらく娘を庇うだろう。そんな気がした。
緩やかに流れる風。リズルは鮮やかな緑の瞳で天を仰ぐ。
日の光を受けて輝く緑。
その色を、彼女はもう美しいと思わない。
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