禁転載
魔法具の板によって熱された調理器具は、見た目からではよく分からないが充分に熱されているらしい。
黒々とした鉄板の上、クレメンシェトラはそっと切った肉の破片を乗せてみた。途端に激しい音がして思わず跳び退きそうになる。
だがここで慌てふためいては怪しまれてしまうだろう。少なくともレアリアは最近は手馴れた様子で料理を作っていたのだ。
クレメンシェトラは背後に控える女官たちの視線を意識して、動きだけは滑らかに手近にあった調味料を適当に振り掛ける。
―――― そのように作られたものを、女皇のディアドはいつも顰め面で食べるのだが。
「……ってか甘くするなよ。辛かったらどんなものでも食べられるのに」
「食べられないのか?」
「食べますけどね」
驚いて彼女が聞き返すと、アージェは苦い顔ながらも甘く焼かれた肉を口に運んでいった。
律儀と言えば律儀な彼は、レアリアがほんの初心者だった頃から持ち込まれた料理を残したことがない。
それは彼女が深い眠りにつきクレメンシェトラが表に出てきてからも変わらぬことで、この青年のことをクレメンシェトラはまだいまいち掴みかねていた。
アージェは甘さを緩和するかのようにお茶を啜る。
「今まで長く生きてきて料理をしたことがないんですか?」
「ない。表に出ていること自体が珍しいしな」
「神代も?」
「ないというのに」
「誰か教えりゃよかったのに……」
ぽつりと洩らされた呟きは彼の本音であるのだろう。クレメンシェトラは唇を曲げた。
「なら食べるな」
「食べます。次は辛くしてください」
女は料理に伸ばされる青年の手を見ながら、ゆっくりと記憶を遡らせる。
懐かしい神代。教えられたことはそう多くはなかった。
だがその中で彼女にもっとも物事を教えていったのは、目の前の青年の祖にあたる男だろう。
彼は何も知らなかったクレメンシェトラに、人間にとっては当然のことを一つ一つ教えてくれたのだ。
ささいな習俗から人の常識まで―― 彼の知るそれは人の全てではないだろうが、少なくとも彼女に考える切っ掛けをくれた。
思えばあの頃から彼女は、人の真似をしてみようと思い始めていたのかもしれない。
クレメンシェトラは更に過去のことを思い出そうとして……だが不思議な空白に気づく。
―――― カルディアスが教えてくれたこと、そこにはもっと大事なことがあったのではないのか。
もっと大事な。彼女の存在そのものに関わるようなこと。それはつまり。
無意識のうちに片手が両目を覆う。暗くなる視界に、アージェの怪訝そうな声が聞こえた。
「どうかしましたか」
「いや」
意識が飛んでいた。
我に返ったクレメンシェトラは手を下ろす。その仕草を青年は眉を寄せて見つめた。
「そういえば、礼拝の時に陛下だけそうやって手で目を覆いますね。あれはどうしてなんですか?」
「礼拝? 祈りの時か?」
「ええ」
国外の人間であったディアドの素朴な質問は、確かに事実を指して問うていた。
全ての者が胸に両手を当て祈る中、女皇だけはただ一人片手で目を覆う。
それは何を意味しているのか。知らないはずがないクレメンシェトラは、だが答えられない自分に愕然とした思いを抱いた。
「いや……どうしてだろうな」
「昔からですか」
「分からない」
少なくとも彼女が神の傍にいた頃はそうではなかった気がする。
一体いつから、何故そのように変わったのか。考え始めたクレメンシェトラはふっと恐ろしい予感に襲われた。
それはまるで、神から目を背けているような。
忘却は突然やってきた。
目の前で手を叩かれたクレメンシェトラは顔を上げる。
そこにいるのはディアドの青年で、彼は整っていると言えなくもない顔立ちに険を乗せて彼女を見ていた。
「どうかしましたか。具合が悪いのならば帰りましょう」
「……別に、平気だ」
「そうですか」
そっけない態度ではあるが、彼はどの道戻るつもりなのだろう。広げられた昼食を片付け始めていた。
やがていつものように手を差し伸べられたクレメンシェトラは、その上にレアリアの手を重ねる。
―――― 思い出せないことは、それを思い出せないことさえ忘れてしまう。
だから今、確かなことは目の前にあることだけだ。クレメンシェトラはまるで迷子のように城の中庭を見回した。
「帰りますよ」
「……ああ」
掌に伝わる温かさに引かれ、彼女はゆっくりと歩き始める。
見上げた空には薄い雲がかかり始めていた。
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