楔の憧憬

禁転載

たとえば最初から自分は、このような終わりを予感していたのだろうか。



崩れ行く櫃の中は、思っていたよりも窮屈さを感じさせない広々とした場所だった。
楔が座する為の、人間階であって人間階ではない位階の狭間。そこを訪れたルクレツィアは、櫃の中央、溶けていく存在の前で足を止める。
まだ自我が残っているかどうかも分からぬ白い霧のような残骸は、つい先程までこの大陸の楔であった存在だ。
ルクレツィアは神の召使であった女に向けて声をかけた。
「結局あんたは、それを選んだわけか」
労わるわけでも見下すわけでもない、ただの確認。白い霧は少女の存在に気づいたのか微かに震えた。
声にならないそれは、しかし確かに同じ楔であるルクレツィアへと意思を伝える。少女は口元だけで苦笑した。
「私はやめないわよ。そりゃ、この役目が嫌にならないかって言ったら分からないけど、私はやめない」
神である彼女の父が去っていく時、彼は人の為、誰かを楔としなければならないことに躊躇いを覚えていた。
だがルクレツィアは自分がその役目を負うと申し出たのだ。
そうして彼女は櫃の代わりに新たな名前と忘却を受け取って、今まで生き続けてきた。
―――― ただ稀にかつての記憶を思い出す時、自分の生に意味はあるのかと、考えることはあった。
「私はさ、一番後に生まれたからっていうのはあるけど、兄弟の中で一番人間を知らなかったんだよね。
 だから楔を引き受けた。知らなければ知る楽しみがあると思ったし、人間に絶望もしてなかったから。
 勿論、今はもう色々知ってるけどさ。……あんたは人間について忘却させられてから楔になったんだっけ?」
クレメンシェトラという名を持っていた霧は、ルクレツィアがそれを知っていることに驚いたような感情を返した。
記憶を制限されていた彼女は、かつて自身がルクレツィアにそれを語ったのだと、もはや覚えていないのだろう。
遥か遠い日の話に少女はささやかな郷愁を覚える。

楔同士の繋がりなど、本来はあるはずもない。
彼らはそれぞれ異なる神に繋がる存在だ。大陸を隔てた今や届くものもない。
だがそれでもルクレツィアは彼女に呼ばれてここまで来た。
神槍でも女皇でもない彼女。分かたれながらも一つであった楔。
本来は全知であった彼女は、はたしてこのような終わりをも分かっていたのだろうか。
ルクレツィアは世界に溶けていく存在を見つめる。
「結局、見てて思ったけどさ、人間って何がどうなくなっても何とかやっていくんだろうね。
 だからきっと、私が死んだってあんたが消えたって変わらないんだ」
生き続けることを定められた楔の終わりなき道は、けれど人間にとっておそらく不可欠なものではないのだ。
魔法がなくとも、神の庇護がなくとも、人は生きていける。そう在ることを望むことが出来る。
それが知りたかった答なのかと聞かれたら断言は出来ないだろうが、ルクレツィアは不思議と悪い気分はしなかった。金色の目が穏やかに細められる。
「私たちは、いつ死んだっていい。世界に在るただのちっぽけな一要素で……それは人間と変わらない」
だから好きなように生きて、好きなように死んでもいいのだ。
彼女がそう言うと、消えていくクレメンシェトラははにかんだような気がした。



いつか自分は、この記憶をも忘れてしまうのだろう。
その忘却が父から与えられた慰めだ。だがそれでも残るものはあるのだとルクレツィアは思っていた。
生きたいと思う限り生きる。もはや何も知らない子供ではなくなった彼女は、その自由を胸に時を渡る。
そしていつか時が来た時、世界の狭間に消えていくのだろう。そうして去っていくクレメンシェトラと同じく。



別れの言葉を口にしようとした少女は、その時既に相手の意識が溶け入って残っていないことに気づいた。
壊れていく櫃。ばらばらに位階の狭間へと引き出される空間から、ルクレツィアは静かに人間の住む世界へと戻っていく。
そうして人のいなくなった城壁の上へと立った彼女は、目の前に広がる平原を眺め渡した。生と死で彩られた大地を愛しげに見つめる。
胸に抱く思い。穏やかな熱を帯びたそれは憧憬によく似て―――― 彼女はこの時、人のように自由だった。