禁転載
手を取って、顔を上げて、さぁはじめよう。
目が覚めた時、自分の名前も何処の誰かも、何も思い出せなかった。
これはいわゆる記憶喪失というものなのかもしれない。
着ていた服から察するに、きっと何処かの屋敷に仕えていた小間使いなのだろう。
ただそのようなことを共にいた友人に聞くと、彼は苦笑して言葉を濁した。
自分の知らない自分を知っている青年──── 彼は彼女のことを、「レア」と呼んだ。
町の中はほどほどに賑わっている。辺境ではあるが街道上にあるこの町は、旅人たちが羽を休める場所となっているらしい。
何もかもが珍しくて辺りをきょろきょろと見回していたレアは、自分の手を引いてる青年に呼ばれて顔を上げた。
「何?」
「ちょっと後ろ向いて」
「うん」
理由は分からないが彼の言うことに従わない理由はない。
素直に背をむけると、青年は手を伸ばして服の後ろを止めていた銀細工を外した。何かの紋章であるらしいそれを目の上にかざす。
「こういうのも売れるからな。さすがケレスメンティア。俺、ほぼ正装でよかった」
「ケレスメンティア?」
「んー、何でもない。ちょっと小金作って怪我治して、それから宿取るよ。
その後はまた傭兵やりながら移動してけばいいか。クラリベルのところに行くと足がつくからな」
「傭兵だったの?」
「うん」
彼女の友人だという青年は、随分世慣れているらしい。
レアは脇腹を庇っている彼に、心配そうな目を向けた。
「怪我してるの?」
「ちょっとな。ルクレツィアに治してもらえばよかった」
「それ、誰?」
「知り合い。でももう会わない」
再び彼女の手を取って歩き出す彼は、多くを知っているように思える。
だがその全てを彼女に教えてくれる気は、まだなさそうだった。
過去の記憶はない。
だがうっすらと分かることはあった。
たとえば、彼ら二人のように元いた場所から焼き出された人間は、この大陸では珍しくもないのだということ。
着ていた服を売って町の少女のような平服に着替えた彼女は、同様に旅人の軽装になった青年を見上げた。
剣も買い換えた彼は、自分の首元を確かめると息をつく。
「あー、こっちの方が落ち着く」
「前のも似合ってたけど」
「息苦しいんだよ。あとあれ、見る人間が見れば素性が分かるからな。色々やばい」
頭を撫でてくる手の下で、レアは頷く。
よくは分からないが、自分たちは身を隠さねばならない人間だということは感じ取れた。
それは彼が、あまり人のいるところで自分の名前を呼ばないよう釘を刺してきたことからも分かるだろう。
店を出て裏路地を行く彼女は、彼のことを何と呼ぼうか困ってしまった。
「ア、アー……くん」
「…………」
「アーくん」
「え、俺、そう呼ばれるの?」
「だ、だって」
呼ぶなと言ったのは彼であるのに随分な反応である。真っ赤になる女に、青年は苦笑した。
「まぁいいか。状況が分かるまでだし。それでいいよ」
「い、いいの?」
「いいよ」
繋いだ手は大きく温かい。
記憶のない彼女が頼りに出来るのは、今は彼だけだ。彼の他には何もない。
時折、振り返れない背後に大きく暗い穴が開いているような不安が襲ってくる。
だが、そのような時でも彼女の手は彼に繋がっていた。
レアはふと、青い空を眺める。
何も思い出せない。
ただ、涙が出た。
「レア?」
振り返った青年は、彼女が声を出さず泣いていることに驚いたらしい。手を伸ばすと
滴る涙を拭った。
それでも自分では泣き止めない彼女は首を左右に振る。
「ご、ごめんなさい。何でだろう」
「いいよ。泣いてて」
彼はレアの頭を抱き寄せた。もう片方の手が背を叩く。
「泣いてていい。──── 俺たちは生き残った人間だから」
かけられる言葉は優しい。
レアはそれを聞いて、自分たちが何かを負っていることを知った。
手を繋いで歩いていく。
そうして彼の温かさに救われながら、レアはいつか自分が暗い穴を振り返るのだと知っている。
だが、その時も彼は手を取っていてくれるのだろう。
だから、怖くはない。長い旅路は、まだ始まったばかりなのだ。
※
「え、別々の部屋を取るの? 一人で寝ないと駄目?」
「ちゃんと鍵かけて、知らない人間が来ても開けるなよ」
「ひ、一人でないと駄目?」
「そこまで自分を信用してないからな」
「??」
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