鏡の中

禁転載

「というわけで、彼はお前の兄にあたるんだ。半分だけだけれどね」
父からそう聞いた時、ミルザが感じたものはまず激しい憤りだった。

城の長い廊下は、いつでも塵一つ落ちていない静謐に保たれていた。
神聖なる空間。真っ直ぐに続くそこは、時折彼女に「自分が何処にいるのか分からない」感覚をもたらす。
まるで巨大な図柄を構成する一つの点のように、我というものが消え世界の中に埋没する。
そのような時ミルザは、自分の中がひどく虚ろであるような気がして、足下のない不安に身震いするのだ。
「……馬鹿げている」
己でも気の迷いと思える空想に、少女はかぶりを振る。
だが一度抱いた不安は簡単には拭えない。ミルザは薄気味悪いものを見るような目で艶のある床を見下ろした。
その時、背後から不意に肩を叩かれる。
「何してんだよ」
慌てて振り返ったミルザが見た者は腹違いの兄だ。彼女は反射的に眉を吊り上げた。
「何でもない。気安く触れるな」
「道の真ん中で邪魔だった」
あっさりと言い切って脇を通り抜けようとする青年に、ミルザは食って掛かる。
「無礼な! 陛下の騎士たる者がそのような態度で」
「あ、そう言えばちょうどよかった」
まったく少女の話を聞いていないアージェは唐突に振り返った。
「俺、これからちょっと街に出るんだけど、暇なら付き合えよ」
「は!? 何故私が」
「ゲドゴン買ってやる」
「ゲドゴン……?」
耳触りの悪い単語は何を意味しているのかさっぱり分からない。
ミルザは彼女の返答を待たずさっさと歩き始める青年の背に苦い顔を向けると、その後を追って走り出した。

アージェが向かった店は城下にある花飾りの店だった。小さな薄暗い店内に入った二人は、若い娘の弾むような声に迎えられる。
「あ、来てくれたの! ……って、その娘だれ?」
「妹」
何気なくの彼の返答に、ミルザは危うく飛び上がるところだった。まじまじと青年の顔を見上げるが、彼はいつもと変わらぬ平然とした面持ちをしている。店番の娘は安堵したように笑った。
「ああ、じゃあその娘にあげるものなのね。これ」
「いや、妹二人いるんだよ」
アージェは奥にあるテーブルに歩み寄ると、振り返ってミルザを手招く。
少女が訝しげに歩み寄ると、そこには花飾りをあしらった三段の銀棚があった。
愛らしく繊細な作りに、ミルザは感心の目になる。
「どうだ?」
「どうとは何が」
「貰って嬉しいと思うか?」
その問いでミルザは大体を察した。おそらく彼の「本物の」妹への贈り物なのだろう。
だが傭兵上がりの青年には年頃の娘が喜ぶような品物がよく分からなかったに違いない。
年の近い自分を連れてきての確認に、ミルザは呆れ顔になった。
「充分だと思うが。私に聞いて参考になるのか」
「なる。じゃあこれ包んで」
店番の娘は笑顔になると、鼻歌を歌いながら棚を包み始めた。
その間ミルザは釈然としない思いで店の陳列物を見て回る。このようなことの為に連れてこられたのかと思うと疲労感が湧いてきた。
やがて包み終わった棚を受け取り、アージェは代金を払うと店を出た。外に出るなりミルザは溜息をつく。
「それで? ゲドゴンとは何だ?」
「ん。ちょっと寄り道するぞ」
アージェは言うなり細い路地に入ると、ずんずん先へ行ってしまう。歩幅の違う兄を追って、またもやミルザは小走りになった。
何度か角を曲がって出た別の通り、そこにある露店へと青年は向かう。
「ほら、ゲドゴン」
「…………」
差し出されたものは、どう見ても子供のお菓子である。
ごつごつとした焼き菓子を色紙でくるんだものを、ミルザは無表情で受け取った。無性に青年の足を蹴りたくなる。
「怒るぞ」
「美味しいぞ。食べてみろよ」
アージェは自ら色紙を剥くと、その中身を文句を言いかけるミルザの口に押し込んだ。
固く素朴な味ではあるが、飾り気のない甘みが広がる。少女は黙々とそれを咀嚼した。
「他にも欲しいのあったら買ってやるぞ」
青年が指し示すのは、露店に並べられた色とりどりの菓子である。
平民の子供であれば喜んで飛びつくのであろうそれを、彼は「少女が喜ぶもの」と信じて疑っていないようだった。
ミルザはアージェの横顔を哀れみの目で見やる。
「何だよ、その目は」
「いや……だから私を呼んだのか。本当に自分では判断が出来なかったのだな」
「すごく見下されてる気がするのは気のせいか?」
「気のせいではないから安心しろ」
「お前な」

何故このような人間が自分の兄なのか。
まったく納得がいかない。考えれば考える程腹立たしい。
だが、たとえば彼が女皇の傍に控える時、無言で彼女を庇い支える時、ミルザは自分でもよく分からぬ安堵を覚えるのだ。
それが血の繋がりの為か否か。ただ少しだけ、彼がそうであることが嬉しかった。

一抱えするほど菓子を買い込んで城に帰るまで、ミルザは怒りながらも笑っていた。
まるで自分が普通の少女になったかのような錯覚。それは小さな菓子と同じ甘さだろう。
自分の部屋に帰るという青年と別れる時、彼女は不思議な充足を覚えて彼を見上げる。
「次はくだらぬ用事で呼ぶな」
「またゲドゴン買ってやるよ」
「要らぬ。自分で買う」
ぷいと顔を背けた少女にアージェは肩を竦めた。懐から小さな包みを取り出すと、それをミルザの持つ菓子袋の中に捻じ込む。
「ま、助かった。ありがとな」
そっけない挨拶。手を振って去っていく青年の姿をミルザは目で追う。腕の中の紙袋をきつく抱いた。

屋敷に戻って袋をあけた彼女は、中から小さな花の髪飾りを見つける。
おそらく最初の店で買っていたのだろう。ミルザは「つまらぬ小細工を」と苦笑した。鏡を前に、そっとそれを髪に挿してみる。
宮廷にいる時、彼女は時折自分が何ものでもないような杞憂に捕らわれる。
異能者として騎士として、ただそれだけでしかない彼女。その内実がひどく空っぽに思えて不安になることが。
だが今日の彼女は―――― 「彼の妹」だった。
胸の中に沸き起こる不思議なくすぐったさ。ミルザは花飾りをつけた少女を見て微笑む。
そして彼女は山ほどの菓子の中から赤い包み紙を摘み上げると、はやる心を抑えてそれをあけ始めたのである。