闇に流れる子守唄

mudan tensai genkin desu -yuki

「魔女?」
窓辺に佇む女の言葉に男は聞き返した。
冗談を言っているのかと思ったらそうではないらしい。
女は嫣然と首肯する。
「そうよ。新しい魔女。まだ名前のない…… この国に来ているわよ。見てみる?」
「別に興味はない」
それは嘘だ。興味はある。
魔法を廃し弾圧するこの国において、しかし彼の目の前に立つこの美しい女は魔女だ。
世界に4人しかいないはずの魔女の一人。
だが5人目が生まれたというのか。
興味はあったがこの女の言うことにすぐ食いつくのはまずい。
恋人ではあったが彼女はいつも駆け引きを楽しんでいる。
緑の眼に獲物を定める猫のような光を宿して彼を見るのだ。
隙を見せれば彼どころか彼が治めるこの国さえ破滅に追い込むだろう。
けれどその危険な駆け引きが彼にはたまらなく刺激的だった。
魔女と通じているなど他の者に知られれば身の破滅だ。
しかし知られなければ、これは最高に楽しい遊戯なのだ。
女は細い十指を組んだ。からかうような笑みを浮かべる。
「まだ子供だけど美人よ? 何事もなく即位していれば美しい女王になったでしょうね」
もったいぶって出されたその言葉を男は聞き逃さなかった。
「女王?」
「そう、トゥルダールの女王になるはずだった娘。
 今はもう魔女だけどね?」
隣国であった魔法大国が謎の滅亡を遂げてから半年余り。
取りざたされる原因は根拠のないものばかりで噂話の域を出ない。
何しろ生き残りが誰もいないのだ。民のほぼ全てが住んでいた城都は一夜にして壊滅した。
だが女王候補が生き残っていると言うのなら……おそらくその少女が滅亡に絡んでいるのだ。
男はしばしの考えをめぐらすと、女に向かって顔を上げた。
「会ってみたい。連れて行ってくれ」
「お安い御用よ」
呼ばれぬ魔女は匂い立つような微笑みで頷いた。

地下につくられた酒場は昼間であっても薄暗い。
けだるい酒気が漂うその空間に、細い笛のような歌声が響いていた。
時に頼りなく、時にぞっとするほどの力を込めて、歌は紡がれる。
或いは酒以上に酔わせるその声に客たちは話し声も抑えて耳をそばだてていた。
「今の歌い手はいいね。随分若いけど」
「一人で旅してるらしい。無愛想な娘で話しかけても何とも答えんよ」
「何だ、口説いたことがあるのか?」
「おいおい、多分まだ子供だぞ」
男たちの密やかに笑う声も全く届かないかのように少女は歌い続ける。
厚く黒いヴェールが顔の半ばまでを覆い隠していたが、すっと通った鼻梁と小さな紅い唇で
おそらくは整った顔立ちなのだろうということが窺い知れた。
少女は息を吐ききって歌を終えると、わずかに膝を曲げて礼をする。
酒場にぱらぱらと拍手が起こった。
その二人が入って来たのは次の曲が始まってすぐのことだ。
少女はヴェールの下の眉を顰める。
顔を隠した男女。だが女の方には覚えがあった。
数日前に会ったばかりの女。この国にいるはずのない存在だ。
魔法士であれば少女の強大な力を見抜くかもしれない。だが魔法士のいないこの国ではその心配はない。
そう思って歌い手をしていた少女は、自分と同じ名称で呼ばれる女に会ってしまったのだ。
後ろ手で指に嵌めていた封飾をはずす。何があっても対処できるようにだ。
だが女は最後の曲が終わるまでただ盃に口をつけていただけで、終わるとさっと帰ってしまった。
女ばかりを気にしていた少女はだから知らない。
女の隣りにいた男が自分を値踏みするように注視していたことに。

歌の報酬は一日ごとに貰うようにしていた。
「ご苦労様」と機嫌のいい主人から少し大目の給金を貰ったティナーシャは
裏口の階段を登って路地裏に出る。
この仕事をするようになってから大分安定して生活している。
攫われたり拾われたり裏切られたりするのには慣れたし疲れた。
顔を隠し言葉を交わさなければ面倒もない。元より人と話もしたくないのだ。
子供の一人旅も歌い手であれば何か事情があるのだろうと過度な詮索はされない。
だが一つところに留まるのは揉め事に遭いやすくなる。
そろそろこの街を離れた方がいいだろう。
噂に聞く魔法によって封じられた盗賊の宝物でも見に行ってみようか、そう考えながら歩いていた時
ティナーシャは不意に自分に向かう気配を感じて飛び退いた。
ヴェールが取り去られる。
顕になった闇色の瞳を見て、ヴェールを掴んだままの男は楽しそうに笑った。
「随分綺麗な顔をしてるな……魔女ってのは皆そうなのか?」
「……ッ!」
ティナーシャは反射的に構成を組んだ。素性が看破されたのだ。
だが男は両手を上げて敵意がないことを示す。
その真意を測りかねてティナーシャは構成を留めたまま男を見やった。
身なりはいい。年は30前後だろうか。人を従えることを当然と思うような空気を纏っている。
そこまで確認してティナーシャは男が、先程酒場で魔女の隣に居た人間だと気づいた。
「貴方は……!」
緊張が全身を駆け抜ける。
果たして魔女に成ったばかりの今の自分に他の魔女と渡り合えるほどの技術があるのか
ティナーシャは分からなかった。
男は彼女の顔をまじまじと見つめている。
「いい目だな。気が強そうだ。女王になるはずだったというのも頷ける」
ティナーシャは息を呑んだ。
この国にあって魔女と関わりがあるとは死にも等しい罪だ。
だがこの男はおそらく呼ばれぬ魔女からティナーシャの素性を聞き、そしてその眼前に立っている。
どんな人物なのか、何が狙いなのか、掴みかねて彼女は1歩退いた。
男は少し笑う。
「そう逃げるな。魔女だろうと魔法士だろうと、俺が居れば何もされない。
 安心してこっちに来い」
「……貴方は誰です?」
「俺か? 俺はグウィードという。お前の名は何だ?
 魔女としての通り名はなくても本当の名前はあるだろう」
「答える義理はありません」
顔色を変えぬよう注意しながら彼女は後ろ手に転移の構成を組んだ。
聞き間違いでなければ男はこの国の王だ。関わりあいにならない方がいい。
しかし彼女が転移を発動させるより早く、男はその言葉を口にした。
「トゥルダールを滅ぼしたのはお前か? よくやってくれたと礼を言おう」
「……何だと?」
一瞬で空気が変わる。
闇色の目に憎悪が満ちるのを見て、グウィードは口笛を吹きたくなった。
深淵がそれ自体力を持つかのように威圧を以って輝く。
路地裏に魔力が渦巻くのを感じ取って男は剣に手をかけた。
「怒るな。お前を傷つけるつもりはない」
だがティナーシャは退かなかった。敵意を持って白い手を伸ばす。そこに雷光が走った。
触れれば人の意識を奪うであろう力を凝縮した枝葉が、空間を走る。
しかしそれはグウィードに触れる前に消え去った。
代わりにそこに一人の女が現れる。
「短気なのはよくないわよ? もっと楽しみなさい」
妖艶に笑う女が誰なのか、ティナーシャはよく知っている。
少女は一瞬で判断するとその場から消え去った。
夜風だけが緩やかに流れる路地裏に二人の男女は残される。
女は緑の目を煌かせて笑った。
「どう?」
「ああ……面白いな。あの目が気に入った。欲しいな」
うっとりと焦がれるように笑みを浮かべたグウィードに魔女は目を瞠る。
「正気? まだ子供よ」
「どうせすぐ大人になる。きっとお前よりいい女になるぞ。手なづけ甲斐がある」
「……言ってくれるわね」
レオノーラの言葉に微かに苛立ちが混じる。
誰にでも爪を立てる憐れな子猫を見せてやろうと思って連れてきたのだ。
予想外の執心を男が見せ始めたことに彼女は美しい顔を歪めた。
そんな彼女をグウィードは嘲笑う。
「いつまでもお前と一緒だと思ったか? タァイーリの王であるこの俺が」
「あの小娘がこれからは私の代わりになるというの?」
「魔女なんだろう? おまけにトゥルダールの王族だ」
お前よりずっと価値がある、そう言いたげな男の言葉にレオノーラは鼻で笑った。
「好きにすれば? 噛まれても知らないわよ」
「それくらい御して見せるさ。あの目を俺に向けさせるくらい簡単なことだ」
レオノーラは何も言わなかった。付き合っていられないとばかりに姿を消す。
一人路地裏に立つ男は夜空を見上げた。
闇の中に青白い月が浮かんでいる。
怜悧で孤高で、手の届かない美しさ。
「面白い……引き寄せて見せるさ。たとえ月だろうとな」
グウィードは微かに笑う。
魔女二人であっても上手くあしらえると、彼は自分の力を信じていたのだ。

宿屋の部屋に転移したティナーシャは手早く荷造りをした。
酒場の主人に挨拶が出来ないことを少し心苦しく思うが仕方ない。
沸き起こる憎悪を何とか宥めようと、彼女は深呼吸した。
精神を統御する。波立つ水面を平らなものとして意識する。
何も考えない。感じない。
ただ遠ざかる。
……大丈夫だ。
ティナーシャは小さく溜息をつくと荷物を手に取った。
決して多くはない。小さな袋に納まるくらいだ。
彼女は代金を払って宿屋を出ると、すぐ隣りの角を曲がり立ち去ろうとする。
だが彼女は不意に向こうから走ってきた人間にぶつかり、共に転んでしまった。
背後に注意して前を見ていなかったのだ。
すりむいてしまった肘を見ながら体を起こす。
相手は若い女のようだった。腕の中に何かを抱き込んでいる。
ティナーシャを見る女の表情は怯えたものだった。
「ご、ごめんなさい。急いでて……」
「何処に行った!」
女の走ってきた背後から誰何の声と何人かの足音が聞こえて、彼女はびくっと体を震わせた。
一層強く胸の中のものを抱きこむ。
その時になって初めて、ティナーシャは彼女の抱いているものが1-2ヶ月の赤ん坊だということに気づいた。
とても小さく頼りない。よく眠っているようだ。
だが何か引っかかる。ティナーシャは白い指を伸ばした。
「あの……」
女は恐怖と敵意にティナーシャを反射的に睨んだ。赤ん坊を庇うように立ち上がる。
その時、背後からの追っ手がついに女に追いついた。
手を伸ばし、女の肩を掴んで引き摺る。彼女は悲鳴を上げた。
「逃げるなど神へ背いたと思われるぞ! その赤ん坊を寄越せ!」
「嫌です! この子は私の子です!」
「魔力を持ってる! 呪われた赤子だ!」
その会話でようやくティナーシャは女が何故逃げていたのかを悟った。
タァイーリでは魔法士は忌避され、問答無用に断罪される。
生まれてすぐのこの赤ん坊は、おそらく魔力があることを看破されたのだ。
だが母親は我が子を殺されるのに耐えられず逃げ出した。
先程感じた違和感は赤子の魔力だったか、とティナーシャは納得した。
赤ん坊を奪われまいと半狂乱になって暴れる女。
少女はその女に剣を向ける男を睨みつける。
「離しなさい」
「何だお前……部外者が口を出すな。この赤ん坊は魔物の子だ」
「赤ん坊を殺そうとする貴方の方がよっぽど魔物じゃないんですか?」
辛辣な言葉に、男は顔を歪めると手を離した。ティナーシャに向き直る。
この隙に逃げろと言いたかったのだが、母親は腰が抜けたように地面に座り込んでしまっていた。
とりあえず戦うしかないだろうか。
そう思って構成を組みかけた時、彼女の背後から朗々とした男の声が響いた。
「下がれ。この娘は俺の女だ」
瞬間誰が誰を指して何を言ったのか分からなかった。組みかけた構成を崩してしまう。
しかしその声は間違いなく先程聞いたばかりの男の声で、
剣を抜いてティナーシャに向かいかけていた追っ手は、数瞬の自失の後に剣を捨て地面に這いつくばった。
「へ、陛下……そうとは知らず申し訳ありません。ですがこの赤ん坊には魔力が……」
「失せろ」
「は!」
追っ手は剣を拾うとそそくさと夜の中に消え去った。
ティナーシャはついほっと息をついてしまう。
しかし間髪おかず、細い肩に背後から手が乗せられた。
「何処へ行くつもりだ? 俺のところへ来るといい。不自由はさせんぞ」
「……は?」
思わず耳を疑ってしまう。今何と言ったのだろう。
この国の王が魔女である自分を呼んだというのか。
ティナーシャは肩の上の手を払いのけながら振り返った。
敵意が顕な少女の目を見返すと、グウィードは楽しそうに笑う。
「歌い手などする必要はない。お前はあの魔女より余程可愛げがあるからな。
 俺の側室になるといい。元のような暮らしをさせてやる」
「正気ですか?」
何だか息苦しい。
それを隠すように、ティナーシャはとりあえず口を開いた。
目の前の男が何を考えているのか分からない。
呼ばれぬ魔女をそうしているように、自分も従えようというのだろうか。
だがそれは到底受け入れられないことだ。ティナーシャは氷のように冷え切った目で男を見据えた。
男は自信に満ちた目で彼女に笑いかける。
「本気だ。何ものからも守ってやる」
「何故?」
グウィードはすぐには答えなかった。帯びていた剣を抜く。警戒に構成を組むティナーシャの横をすり抜けて
彼はへたりこんだままの母子に向かって歩を進めた。
女が首を左右に振る。
「陛下……お慈悲を……」
だがその哀願をまるで聞こえないかのように、グウィードは剣を振り上げた。
背後のティナーシャを余裕たっぷりに誘う。
「俺には力がある。お前を傍に置けるくらいはな。
 お前もその美貌と名を売ればいい。トゥルダールの王族の生き残りがタァイーリに嫁いだとなれば
 タァイーリの勇猛は一層諸国に知れ渡るぞ?」
ティナーシャは何処か遠くの出来事のように、母子に向かって剣を振り下ろそうとする王を眺めていた。
何を言っているのか分からない。
自分を守るというのなら、何故その手で無力な赤ん坊を今殺そうとしているのか。
魔力を持って生まれたというだけの子供。
自分と何ら代わりがない。
なのに何故その片方を助け、片方を殺すのか。
分からない。
女の悲鳴が響く。
次の瞬間、夜の路地に閃光が炸裂した。

泣き声が聞こえる。寄る辺のない声。
月光の下微かに聞こえる幼い声に、囁くような歌声が重なった。
夜の中を細く通る子守唄。
今はもうない国に伝わる歌だ。
やがて泣き声が寝息に変わる。ティナーシャは腕の中の赤ん坊を抱きなおした。
隣りには緊張が切れたのか、赤子の母親がぐったりと眠りについていた。
セザルに入ってすぐ、街道沿いの木陰に3人は座り込んでいる。
何もかも失って祖国から逃げ出した母子に、果たして未来はあるのだろうか。
そんなことはティナーシャには分からない。
彼女もまた自分の未来が分からないのだから。
空は白み始めている。もうすぐ夜も明けるだろう。
30分ほど歩けば街があるはずだ。
ティナーシャは眠りについた赤子を籠の中に寝かせると布をかけた。
その下に庶民には大金であろう程の銀貨を袋に詰めて置くと、温かい頬に触れる。
せめてこの子くらいは幸福になれるように。
運命に惑わされず生きられるように。
ただ願って、彼女は再び歌いだす。古い子守唄に祝福を乗せて。

朝になり、母親が目を覚ました時には既に彼女と彼女の赤ん坊以外誰の姿もなかった。
名前も名乗らず助けてくれた美しい少女のことを、彼女はついに知ることはない。
5番目の魔女が「青き月の魔女」と呼ばれ始めるのは、この数年後のことである。

title by argh