死を与える

mudan tensai genkin desu -yuki

「あー…………ついてない」
ぼそっと呟いた声はかなりの小声であったが、隣りにいた女は聞き逃さなかったようだ。
琥珀色の瞳を細めて聞き返してくる。
「何がついてないってのよ」
問い詰めるような勢い。
ティナーシャは素直に答えた。
「いや何かもう全てが。貴女と出かけるって辺りからおかしかったんですよね」
「何よ。あなただって大陸の外を見てみたいって言ったじゃない」
「言いましたけどね……まさかこんなことになるなんて思ってもみませんでしたよ」
小さく肩をすくめるとティナーシャは真っ直ぐ前を指差す。
そこには一人の男が必死な顔で何やら詠唱をしていた。
彼だけではない。遺跡の石畳に立つ二人を囲むようにして十数人の男が詠唱をしている。
ルクレツィアはぐるりと彼らを見回すと首を傾げた。
「崇拝してくれてるんじゃない? 神とか何とか言ってたし」
「私には邪神って聞こえましたけどね……」
「え? そう? じゃあまぁとりあえず、懲らしめちゃおうか」
ティナーシャは深い溜息を以ってそれに応えた。
紅い閃光が走る。
次の瞬間詠唱していた男たちは揃って背後に吹き飛ばされていた。

そもそもの発端はルクレツィアが今日の朝、塔を訪ねてきた時、
「大陸の外にある島に行ってみない?」
と言い出したことである。
彼女らが住むこの広い大陸以外にも世界にはいくつかの大陸があり
ルクレツィアなどは他の大陸に行ったことがあるらしいが、ティナーシャはない。
時折船が行き来していることを考えると、おそらく他所の大陸にも国があり人々が住んでいるのだろう。
ティナーシャは若干の好奇心で頷き、 そして転移とナークを使ってたどり着いた南の島で、今、珍妙な事態に見舞われていた。
部屋の床いっぱいに並べられた料理の皿を、彼女は半ば呆然と眺めている。
どれもこれも豪勢だが見たことも無い。
初めて見る巨大な魚の姿焼きにティナーシャは若干引いたが、 ルクレツィアは楽しそうにそれらに手をつけている。
「どうぞご遠慮なくお召し上がりください」
「はぁ……」
小さな島についた二人は、その中央にある遺跡を見て回っていた。
だが石段の上に作られた儀式場に足を踏み入れた途端、二人は島民と思しき男たちに囲まれたのだ。
この島では魔法士のことを呪術士と呼ぶらしい。
「邪神を目覚めさせる気か」とか何とか言いながら詠唱を始めた彼らを ルクレツィアは何の遠慮もなく吹き飛ばした。
手加減はしてあっただろうが、そろって気絶した呪術士たちを見て、 その後ろに控えていた首長は彼女たちを突如宴席に誘ったのだ。
怪しいとしか言いようがない。
手をつけるのを躊躇いながらもティナーシャは横を見た。
ルクレツィアは満足げに果物を手に取っている。
魔法薬に卓越した彼女が喜んで食べているようでは、毒などは入っていないのだろう。
ティナーシャはようやく小さな器に入った麺類を手に取った。
「今日は娘の婚礼なんですよ。そんな日にこのように力のある方々をお迎え出来て嬉しい限りです」
何が嬉しいのだろう。
真剣にティナーシャは悩んだが、首長は出会った時とはうって変わり、 にこにこと愛想よく二人を見ている。
何だか精神的に居心地が悪くて床の起毛の敷布の上に座っていたティナーシャは、何度も姿勢を変えた。
その時入り口からもう一人、若い男が入ってきた。
日に焼けた体は鍛えられており長身というほどではないが姿勢がいい。
少女なら見惚れてしまいそうな物憂げな灰色の瞳に、ルクレツィアは隣りの友人に耳打ちした。
「結構いい男よね」
「そうですか……?」
「あんた、男を見る目厳しいよ」
16-7の少女にしか見えないがその実400歳過ぎの魔女であるティナーシャは、小さく舌を出す。
何といわれてもそう見えないのだから仕方ない。
首長はその若い男を、自分の息子ですと紹介した。
どうやら今日嫁ぐ花嫁の兄にあたるらしい。
イアグと名乗った若者は深々と頭を下げた。
満足そうにそれを見やった首長は魔女二人をゆっくりと見回す。
何だか嫌な予感がした。
そしてティナーシャのそれは怏々の場合当たる。
首長はにっこり笑うと
「貴女方がいらっしゃったのは神の導きです。どちらか私の息子の花嫁となってくださいませんか」
と言ったのだった。

「お断りします」
即答したティナーシャに首長は残念そうな顔を見せる。隣のルクレツィアは酒の為か 僅かに紅い頬でくすくすと笑っているだけだ。首長は彼女に向かって頼る視線を向けた。
「では貴女は……」
「どうしよっかなー。彼は気に入ったけどこの島に住むのは嫌。
 くれるなら貰ってあげるけど?」
「そ、それはちょっと……」
「ならこの娘を口説いた方がいいわよ? 私より情は篤いし」
「嫌ですよ! 私、精霊術士なんですから!」
「一度は結婚してみれば? 結構面白いかもよ」
「絶対面白くない!」
二人の掛け合いを見ていた首長は、一瞬目を瞠ったが、すぐに元の困ったような微笑みに戻った。
それは残念、と言うと会話は元の島についての他愛もない話に戻る。
首長の話を総合すると、大陸南岸から船で1週間ほどのところにあるこの島は 古くから邪神が封じられているという言い伝えがあるのだという。
はるか昔、一度邪神によって島の都は滅亡し、だがその時に当時の王が邪神を封じた。
その子孫である彼らは遺跡に封じられた邪神を見張っている。
中でも首長の家は強い呪術士であることが求められているらしく、二人の力を見て 首長は彼女たちの血が欲しいと思ったらしい。
「いい機会じゃない。受ければよかったのに」
夜になり、寝室に通されたルクレツィアは隣りでばてている友人に向かって声を掛けた。
まるで他人事である。ティナーシャは呆れて顔を上げた。
「本気で言ってるんですか?」
「本気も本気。妊娠と出産は魔女にとって命取りでしょ?
 でもこんな島なら魔女自体を知ってる人間もいないし、大陸からも人が来ない。
 これ以上の環境なんてないと思うけど?」
女性の魔法士にとって妊娠と出産は魔力が最大に乱される期間である。
体自体が変質し、別の魂が中に入っているのだから無理もないが、魔女にとってはそれは致命的だ。
普段忌まれ畏れられている存在が10ヶ月弱もの間、普通の魔法士かそれ以下にまで弱体化してしまうのだ。
野心がある者や名を上げたい国に知られたら腹の子共々殺される可能性が高い。
ルクレツィアはそれを指して言ってるのだろう。
だがティナーシャは小さく溜息をついて寝台に寝そべった。
「子供は要りません。夫も。明日になったら帰りましょう」
「つまんないの」
ぽつりとした言葉と共にルクレツィアの気配が消える。自分の寝室に帰ったのだろう。
顔を上げて確認する気もなく、疲れていたティナーシャはそのままうとうとと眠りについた。

眠りが深く寝起きが悪いティナーシャだが、必ずしもそれは隙だらけという意味ではない。
だから彼女の部屋に音もなく侵入し、その黒髪に触れようとした男はあっという間に 腕をねじ上げられ、床に押し付けられて苦悶の声を上げる羽目になった。
男の上に膝をついて乗りながら、ティナーシャは眠気混じりに問い質す。
「何のつもりだ? 死にたいのか?」
可愛らしくぼんやりとした声に似合わぬ内容に、男は小さく呻くと
「殺してください……」
と言った。
「はぁ?」
何がしたいのか分からない。
明かりをつけてよく見ると、男は先程紹介された首長の息子、イアグだった。
ティナーシャは乱れた髪をかきあげながら立ち上がって彼を見下ろす。
「何なんですか……眠い……」
「申し訳ございません……父がどうしても貴女を花嫁にと」
「そんなのルクレツィアの方に行ってくださいよ」
「精霊を使われる貴女の方が守人にはふさわしいと申しまして……」
「私の精霊ってそういうんじゃないんですけどね」
精霊魔法とは妖精のように人ならざる自然の精を操る魔法ではない。
単に主に自然の力そのものを構成にて動かす魔法なのだ。
よくある誤解だがそんな理由で花嫁にされてはたまったものではない。
「やっぱついてない……」
ティナーシャは苦い顔でかぶりを振ると、がっくりと肩を落としたのだった。

使い魔に起こされたルクレツィアは、やってくるなり
「何だ失敗したの?」
と笑いながら言った。当然ながらその言葉にティナーシャは顔を引き攣らせる。
「知ってたんですか!?」
「知らないけど。やりそうだなーと思って。あの親父ねちっこそうなのにあっさり引き下がったでしょ」
「疑ってたなら教えてくださいよ……」
「正面から夜這いするなんて馬鹿よね。言ってくれれば媚薬とか作ったのに」
「いっぺん痛い目見ますか?」
静かな火花がティナーシャの右手に散る。
だがルクレツィアは一向に堪えていないようで、イアグに視線を移した。
「にしても失敗したくらいで死ぬことないじゃない」
「それは……」
言い難そうにイアグが口を開いた時、窓の外、屋敷の入り口辺りに火が灯った。
誰かが松明か何かを持って移動しているのだろう。いくつもの火がゆらゆらと揺れている。
耳を澄ませば男たちの誰何の声が聞こえてくる。
その中に、ダヌアという名前があることに気づいて、イアグは慌てて立ち上がった。
「妹が……!」
部屋から駆け出そうとする彼を二人の魔女はきょとんとして眺めた。
だがすぐにルクレツィアが手を伸ばす。
「逃がすか」
言うなり見えない糸がイアグを絡め取る。
廊下に出かけていた彼はそこで足を止めざるを得なくなった。
「お願いです! 行かせてください!」
「やだ」
「ダヌアに何かあったんです! 今日嫁いだばかりなのに!」
イアグはその場で不可視の束縛から逃れようともがく。
しかしその彼に暗闇の中走って廊下の角を曲がってきた人物が、正面から激突した。
二人はもんどりうって床に転げる。
奇しくも相手を抱え込むことになったイアグは、その正体を確かめて声を上げた。
「ダヌア! 何故ここに……」
「兄様……」
「ともかく入りなさいよ」
そっけなくルクレツィアが言ったのは、廊下をこちらに走ってくる複数の足音を聞きつけた為だろう。
束縛を解かれたイアグは妹を庇うようにして部屋に入ると扉を閉めた。
ダヌアは外見はティナーシャと同じくらいの年齢に見えた。
兄と同じ灰色の眼は大きく、可愛らしい顔立ちをしている。
だがその顔よりも眼を引いたのは彼女の姿だろう。
花嫁を象徴する純白の夜着。新床から走ってきたらしき彼女の手と服は、べっとりと血で汚れていたのだ。
明らかに面倒ごとだ。ティナーシャは頭を抱えた。
「ダヌア、何があったんだ!」
「シッ! 声を出さないで」
短い命令はルクレツィアのものである。それと同時に扉が激しく叩かれた。
ティナーシャは溜息混じりに「どうぞ」と答える。
扉を開けた男は見知らぬ男だった。手に松明を持ったままである。
男は部屋の中を見回しながらティナーシャに尋ねた。
「お休み中すいません。誰か訪ねて来ませんでしたか?」
「誰も」
ティナーシャの返事に男は怪訝そうな顔をしたが頷いた。
驚いたのはイアグとダヌアの兄妹だろう。
抱き合って震える彼らを男はまるで見えていないかのように礼をして出て行ったのだ。
ティナーシャの隣りに座るルクレツィアが舌を出す。
人の感覚を弄るぐらい彼女にとっては造作もないのだ。
追っ手をやり過ごしてしまうと兄妹はようやく安堵したのか、二人の魔女に向き直った。
「あ、ありがとうございます」
「別にいいけど。あなた、まさか花婿を刺したとか?」
ルクレツィアの軽い指摘に唖然としたのはティナーシャだけだった。
ダヌアは兄の胸に顔を埋めて泣き出し、彼はそんな妹の肩を抱く。
恋人のように寄り添う二人にティナーシャは訳が分からなくなった。
頼る視線をルクレツィアに向ける。
「つまりあなたちは好きあってるんだ? だから妹は花婿を刺したし
 兄は死にたがった。血が繋がってないわけ?」
「……いえ、繋がっております。同じ父母から生まれました」
「そりゃ駄目だわ」
近親相姦は何処へ行っても禁忌だ。
それを否定しなかった二人にティナーシャはただ眼を丸くするばかりである。
「な、なんで分かったんですか?」
「そんなの、態度を見れば分かるじゃない」
「全然分からない!」
「お子様」
ひどい言われようである。
400歳も過ぎて子供と言われてティナーシャは激しい脱力感に見舞われた。
寝台に両膝を抱えて座り込んでしまった友人を無視して、ルクレツィアは楽しそうに二人に笑いかける。
「で、どうするの? これから」
他人事を娯楽としか思っていない魔女の問いに二人は顔を見合わせた。
しばらくの間があって二人は頷く。
「もはや、この世に居場所はないと……」
「あっそう。じゃあ死ねば?」
「ルクレツィア!」
「だって本人たちがそう言ってるんだからしょうがないじゃない。
 諦められないんでしょ?」
ルクレツィアの言葉は返事を求めたものではなかった。
だから彼らの沈黙は明確な肯定である。
ティナーシャは言に詰まってしまった。
兄も妹も、きっとお互い以外を見ようとしたのだろう。
どれほど努力したのか彼女には分からない。だがとにかく試みてはみたのだ。
その結果はここにある。
血に汚れた手で、兄の服をぎゅっと掴む少女を見て、ティナーシャは不安と焦燥の入り混じったような 何ともいえない感情に囚われた。
彼女の知る限り大陸内で近親婚を許す国はない。
おそらく大陸外でもそうであろう。
お互いの手を離せない以上、彼らに居場所はないのだ。
知りたくなかった。
知らなければこんなもやもやした気持ちになることもなかったのに。
ティナーシャは舌打をしかけて、しかし二人の手前それをこらえた。
そんな友人の姿をルクレツィアは、にやにと見やる。
「どうしたの? 面白い表情しちゃって」
「別に」
「何? 気になるの?」
気になることはなるが、こんな満面の笑みで聞かれては頷きにくい。
だがルクレツィアはそれをお見通しらしく、爪が綺麗に紅く塗られた指を顎にかけて嫣然と微笑んだ。
「あなたが気になるっていうなら、手を出してもいいけど?」
3人は目を丸くする。
全員の気持ちを代弁してティナーシャは眉を顰めた。
「手を出すって……何するんですか?」
思い詰めた顔のイアグ。今にも倒れそうなダヌア。
そして不安そうなティナーシャの注目を浴びてルクレツィアはゆっくりとまばたきした。
琥珀色の瞳が光の加減か金に見える。
閉ざされた森の魔女は、強くお互いを抱く二人を指差した。
「死んでもいいんでしょ? だから『死』をあげるわ」

雲一つない青空の下、爆発が起こる。
ティナーシャは爆風に乗って宙に浮かび上がった。
舞い上がる小石や石畳の破片を結界で避けながら右手で構成を組んだ。
眼下に見えるのはドラゴンほどもあるだろう巨大な黒い蜥蜴だ。
濡れた青い舌をチロチロと揺らしながらティナーシャを見上げている。
先程の爆発でわずかに抉れ、黒い血が流れる背中目掛けてティナーシャは真空の刃を放った。
畳み掛けるように巨大な光球を生む。
刃によって胴を半ば切断され、空気を震わす悲鳴を上げた蜥蜴は 次の瞬間光に飲み込まれ、跡形もなく焼けつくされた。
安全なところから、戦いというには一方的な攻勢を見守っていた首長は、 ティナーシャが帰ってくると興奮冷めやらぬ様子で頭を下げた。
「あ、ありがとうございます! まさか邪神があんなものとは……」
「中位魔族だったみたいですね。年は大分いってたみたいですが、まぁこんなものでしょう」
「我が家は長年封印を守る役目を勤めてきましたが、お恥ずかしながら子に恵まれませんで……
 どうなることかと思いましたが、おかげで助かりました。お礼の言葉もございません」
首長の言葉に曖昧な笑顔でティナーシャは応える。
つまりこれが、ルクレツィアの与えた『死』なのだ。

ティナーシャはルクレツィアの話を聞いた後、ダヌアの刺してしまったという花婿を見に行った。
幸い内臓は避けていたらしく、だが重傷だった彼の傷を治して帰ってきた時、 既に全ては終わっていたのである。
閉ざされた森の魔女。その真髄は精神魔法にある。
ルクレツィアはわずか十数分の間に500人ほどが住む小さな島に術をかけて イアグとダヌアの存在そのものを島民の記憶から消してしまったのだ。
「完全なる忘却は死と同義だわ」
と笑う彼女を見て、改めてティナーシャは友人の力を思い知った。
一方朝から封印を解き、邪神とやらを始末したティナーシャは 宴席を設けるという首長の申し出を断って島を後にした。
長距離転移を使って大陸に戻る。
約束の場所、ファルサスの南東にある小高い山の頂上には、ルクレツィアと兄妹が待っていた。
「あら、早かったわね。大変だった?」
「全然。楽勝でした」
「さすが最強」
「からかわないでくださいよ」
ティナーシャは肩をすくめながら二人を見る。
固く手を握り合ったイアグとダヌアは、ティナーシャに深々と頭を下げた。
ルクレツィアが美しくも残酷な微笑みを浮かべる。
「じゃあ、覚悟はいい?」
「……はい」
イアグが答える。隣りでダヌアが頷いた。
ルクレツィアの提案、完全なる忘却は当事者二人を例外としない。
つまり彼ら二人もまた、自分のこともお互いのことも、全て忘れるのだ。
皆が彼らを知らない、兄妹だと忘れてしまった中で生きて行きたいだけなら 最初から「死にたい」などとは言わないだろう。「この島を出たい」と言う筈だ。
彼ら自身もまた禁忌の意識に苛まれ、葛藤し続けている。
それでもお互いの手を離せなかったのだ。
ならばその記憶も失えばいい。
兄であったことも妹であったことも、ずっと一緒だったことも愛し合ったことも忘れ、 一からやり直せばいい、そうルクレツィアは言ったのだ。
彼女は東と西、遠くに見える二つの町を順番に指差す。
「どちらもほどほどに人がいて、交流もあるわ。馬で片道2時間ってところかしら。
 あなたたちそれぞれを、あの二つの町に分けて置いてくる。
 運がよければまた逢えるんじゃない?」
軽く言われる言葉に、イアグとダヌアは握った手に力を込める。
精神魔法に卓越したルクレツィアの施す術だ。
彼女がそう意識してかければ、何があっても記憶が戻ることは一生ない。
おそらくティナーシャにも解くことは難しいだろう。
だがそれを希望として、二人は旅立つ。
必ずもう一度出会い、恋をすることを信じて。
今度こそ一分の迷いもなく愛せるように。

「何ていうか……これでよかったんですかね」
記憶を消され意識を失った兄妹をそれぞれ町に飛ばした後、ティナーシャは深く嘆息した。
二人の魔女がいるのはティナーシャの塔の最上階である。
湯気がたつお茶に口をつけながらルクレツィアは笑った。
「何で? 記憶がなくても近親相姦なんて駄目ってこと?」
「いやそうじゃなくて……記憶がなくなったらやっぱりもう、
 その人はそこで死んだと同義じゃないかな、と思って。戻らないわけですよね?」
「戻るわけないわ。入念にかけたもの」
ルクレツィアはカップを置くと、紅い唇に魅力的な笑みを浮かべる。
「だから死をあげるって言ったでしょ」
「そうなんですよね。
 でも……何だろ。死を決意するほど愛したのに、それを捨ててしまっていいのかなって。
 体だけ生きていればいいってものじゃないでしょう?」
うまく言葉にならない。
だがティナーシャはどうしても腑に落ちないのだ。
彼らは過去と一緒に想いも捨ててしまった。
全てであった熱情を失い、代わりに一体何を得られたというのだろう。
首を捻る友人に、しかしルクレツィアは「何だそんなことか」と呟いた。
「賭けてるんじゃない? もう1度やり直せるって。
 記憶がなくても辿りつけるって信じてるんでしょ」
「そうなんですかね……」
「希望が少しでもあれば人はそれに縋れるわ。希望が叶うと信じられるのは若いと思うけどね」
「むー……」
何だかすっきりしない。
ティナーシャは焼き菓子を摘んで半分に折った。
その片方をもそもそと口に入れる彼女をルクレツィアはからかう目で見やる。
「まぁ貴女も男が出来れば分かるんじゃない?
 不条理でも記憶を失うとしても賭けてみたくなる時が来るかもよ?」
「ないない」
「どうかなー? 貴女の厳しい目に適う男が現れるかもよ?」
「別に厳しい自覚はないんですけど」
「厳しいわよ! まさか貴女、最低基準を塔の達成者に置いてるんじゃないでしょうね……
 だったらあの馬鹿王と結婚すればよかったのに」
「馬鹿はお断りです」
誰か個人にそれほどまでに執心するなど想像もつかない。
そういった感情さえ理解しにくいのだ。
ティナーシャは焼き菓子のもう片方を口の中に放り込んだ。
自分にはすべきことがある。
そんなことに関わっている余裕などないのだ。
誰かを愛するなど冗談ではない。強い感情など要らない。
だがルクレツィアは何もかも分かっているような年長者の目でティナーシャを眺めている。
「そう最初から遠ざけないで注意してなさいよ。世界は広いんだから。
 貴女が躊躇なく命を賭けられるような相手がいるかもしれないわよ?」
いつになくしつこいルクレツィアにティナーシャは頬杖をついたまま呆れたように言った。
「仮にそういう人間がいたとして、その人と私が出会って、
 なおかつ私のことを好きになってくれる確率って、どれくらいなんですか」
「運と貴女の努力次第でしょ」
「ありえないってことですね」
そっけない受け答えに、ルクレツィアはテーブルの上に身を乗り出す。
「そう? じゃあもし結婚式になったら、私出てもいい?」
「当然じゃないですか……ってしないよ! 結婚なんて!」
「どうだか。案外気が変わるかもよ?」
まったく会話が噛みあっていない気がして、ティナーシャは肩をすくめた。
なくなってしまったお茶を淹れ直す為に席を立つ。
まったくもって未来は何も分からない。
だから彼女は塔に一人、泰然と生きていられるのだ。
胸を焼く熱情も、自分の死さえ受け入れられるほどの恋も知りたくはない。
自分を取り巻く全員から忘れられ、自身も忘却を受け入れた人間は、きっとその時死んだのだ。
そして新しく生まれなおす。
体以外何も持って来れなかった新しい生において、彼らが何を得るのか。
それは誰にも分からない。
ただそこに少しでも安息があればいいと思う。
死した彼らもそう思っていたのかもしれなかった。

記憶を失ったダヌアは1年後、自分を助けてくれた町の男と結婚した。
イアグは子供のいなかった老夫婦に気に入られ、小さな店を継いだらしい。
彼らは賭けに負けた。
だがそのことに後悔を抱くことさえ出来ない。
あの時別れ際、確かに強く握っていた二人の手をティナーシャは思い出す。
彼らは望み通りあそこで死んだ。
愛し合ったまま、その感情のゆえ共に消えたのだ。
だがたとえ新しい生において別々の道をいくとしても、
あの時の彼らの想いは、決心は彼女の心に残っている。
だからきっとあれでよかった。そう思いたい。
ティナーシャが70年ぶり、史上初、単独での達成者である男と出逢うには
まだこれより17年の歳月が必要なのである。

title by argh