哀しい子供

mudan tensai genkin desu -yuki

何処までも
何処までも何処までも広がるのは瓦礫だ。
少女は瓦礫の中一人立ち尽くす。
風が吹いていく。
長い黒髪は、埃混じりになびいて揺れる。
最早帰る国はないのだと、彼女はよく、知っていた。

城都から出たことなどほとんどなかった。
もっと子供の頃遊びに連れて行ってもらったくらいだ。
それも片手の指で足りるほどの回数で、当然ながら彼女は他の国を知らない。
切り裂かれた跡がある夜着。埃だらけの髪。
ぼろぼろの孤児のような風体で最初に見つけた町に入ったのは
国が滅びてから4日目のことだった。
関わり合いになりたくないという視線が彼女に浴びせかけられる。
無理もないだろう。ぼんやりと痛む頭で少女は思った。
薄汚い素性も知れない少女だ。
話しかけて面倒になったら困る。
皆がそう思うのは当然のことだと、彼女は自嘲した。
だから街の片隅で、一人の男に話しかけられた時驚いてしまったのだ。
「どうした? そんな格好で。焼け出されたか?」
「…………帰る家がないの」
「家出か? にしてもそんなんじゃ倒れちまうだろう。来るといい」
40過ぎだろうか。人の良さそうな男だ。
少女はしばらく逡巡していたが、やがて頷くと男の後について歩き出した。
ここ数日ほとんど食べ物を口にしていない。
眠りが足りなくて体もだるい。
とにかく休みたかったのだ。
男は自分の家に彼女を招きいれると妻に彼女を示した。
少し太めの女は突然の客に驚いたようだったが、少女の為にすぐに風呂を用意してくれた。
「そういえばあんた、何て名前なんだい?」
「……アイティ」
闇色の目。
そこには消えない傷が刻まれている。
帰る国を持たない彼女は泣き出しそうな顔で微笑んだ。

久しぶりのお湯に浸かり埃を落としながら、ティナーシャは髪を梳いた。
とても眠い。
このまま眠ってしまえば楽になれるだろうか。
目を閉じれば疼くような痛みが甦る。
白い腹を触ったが、そこには何の傷も残って居なかった。
そう、体には傷がない。
だからといって過去が消えるわけではないのだ。
数日前までは確かにあった彼女の国を思う。
多くの人が住んでいた。
皆が笑っていたのだろう。幸せだったはずだ。
だからその笑顔の為に、彼女は尽くすつもりだったのだ。
それを失って何処へ行けばいいのか分からない。
何も考えられない。
今体を浸すぬるま湯のような絶望があるだけだ。
食卓を用意していた夫婦は、風呂から上がった彼女を見て息を呑んだ。
艶を取り戻した漆黒の髪。白磁の肌。
俯きがちな顔を上げれば、人を捕らえる芸術品のような美貌がそこにはあった。
驚きを押し隠しながら男は微笑む。
「おいで、食事にしよう」
優しい目。優しい言葉。
もし父親がいたら、こんな風に話しかけてくれたのだろうか。
だが彼女の父親は国と共に死んだ。
会ったこともない両親もまた、瓦礫の中に消えたのだ。
ティナーシャは小声で、お礼と、いただきますと呟いて食卓についた。
久しぶりの食事は、何だかとても温かかった。

お前は本当に寝起きが悪い、そう誰かに言われた気がして少女は顔を上げた。
誰もいない。当然だ。女王候補である彼女にそんなことを言った人間もいなかった。
なのに何故そんな声が思い浮かんだのか。
泣いていたのか頬が濡れている。
ティナーシャはそっと寝台を抜け出した。
まだ夜中だ。
扉の隙間から明かりが洩れている。
息を殺してそこに立った少女は、わずかに聞こえてくる話し声に耳をそばだてた。
「まだ子供だよ……こんなことはよくない」
「でもあれだけの顔だ。きっといい女になる。振る舞いも……貴族か何かじゃないか?
 あの子ならきっと気に入られる。ルミナを返してもらえるだろう」
無条件で助けられるとは思って居なかった。
そんな親切を今の彼女は信じられない。
だからティナーシャは二人の会話からできるだけを引き出そうと息を止める。
分かったことは、彼らの娘が街の貴族に連れて行かれたということ。
そしてティナーシャと引き換えにその娘を返してもらおうとしていることだった。
「貴族ね……」
聞こえないほどの声で呟く。
本来貴族や領主とは民を守る為の高貴なる称号なのだ。
トゥルダールには貴族はいない。しかし他の国にはそういった家柄があると彼女は知っていた。
そして守るはずの民から享楽を吸い上げている不埒な人種がいることも。
ティナーシャは溜息をつきながら寝台に戻ると目を閉じた。
今自分に必要なのは眠りだ。愛情でも同情でもない。
そんなものが欲しいわけではない。
これから何をすべきか分からない少女は、そうして再び深い眠りの中に落ちていったのだ。

翌日の夕方、庶民のものではあったが綺麗な服に着替えたティナーシャは
男と共に街の奥にある屋敷を訪れていた。
「きっと、いい暮らしができるよ。何も心配することはない」
罪悪感か不安からか、先程から繰り返しどんなにこの家が裕福か訴える男に
少女は感情のこもらない瞳を向けた。
深淵そのもののような目。その目に見つめられると何も言えなくなる。
うろたえて目をそらした男から視線をはずすと、ティナーシャは目の前の扉を見た。
まるでそれを待っていたかのように、扉はゆっくりと奥に開いていく。
むせかえるような甘い香り。淀んだ空気。
淫靡な悦楽の満ちる部屋の中に、一瞬血の匂いを嗅ぎ取ってティナーシャは眉を顰めた。
隣りにいる男が震える声を紡ぐ。
「参りました」
「入れ」
部屋の奥には紗幕で覆われた寝台があった。
主人である男はそこにいるらしい。微かに衣擦れの音がする。
一方的に向けられる舐めるような視線を感じて、少女は不快げに身じろぎした。
「随分若いな……まだ子供だ」
「で、ですが……」
「だが育て甲斐はありそうだな。気に入ったぞ」
「ならルミナは……!」
喜色を浮かべる男に、しかし主人は何の答も返さなかった。
代わりにティナーシャに問う。
「名は何だ?」
「アイティ……アエテルナ」
「アエテルナか。変わった名だな。年は?」
「13」
「ふん。あと2,3年もすれば男がむらがるだろうな。いいだろう。飼ってやる」
主人は尊大な鼻を鳴らした。ティナーシャの隣で震える男に向かって「帰れ」と命ずる。
「あ、あの、娘は……」
「うるさいやつだな。さっさと失せろ」
紗幕が引かれる。寝台に座っているのは30半ばの脂ぎった男だった。
贅沢が皮膚を潤しているかのような弛みに、ティナーシャは侮蔑の視線を投げかける。
だが少女のその目が、主人をかえって悦ばせたようだった。
彼はティナーシャに向かって手招きした。
「来い。お前は私のものだ」
しかしティナーシャは一歩も動かなかった。闇色の目が主人を射抜く。
「この人の娘さんは何処? でなければ貴方のものにはならないわ」
毅然と答える少女に、男二人は目を丸くした。
「き、君……」
「たとえ裏があったのだとしても、私は恩を返したい。
 娘さんをこの人のところに返してください」
「なかなか気が強いな。気に入ったぞ」
「質問に答えてよ。何処なの?」
「ここに来たら教えてやる」
主人の手招きに、少女は渋々ながらも応じた。寝台に歩みより、男の太い腕の中に抱き取られる。
華奢な少女の体を膝の上に抱き上げた男は、若く滑らかな肌を楽しむように撫でる。
だが少女は冷ややかな表情を崩さないまま重ねて問うた。
「教えて」
少女の首筋に顔をうずめた男は、詰問に面倒くさそうに吐き捨てた。
「裏にでも行って見ろ。まだ骨くらい残ってるだろう」
「……え?」
理解できなかった父親とティナーシャの声が重なる。
しかし男だけは楽しげに言を続けた。
「お前も気をつけろよ? 粗相をしてみろ、腹を裂いてやるからな」
その言葉。
嘲りに
息が止まる。
不快だ。
生温かく濡れるのは血か。
思い出す。
嘲笑。
慟哭。
逃げ出した。
埋もれた死の。
とても
とても不快。
父親の激昂が聞こえた気がした。
だがそれも意味が分からない。
人の欲。
際限がない犠牲。
黒いものが少女の中でゆっくりと頭をもたげる。
肉のほとんどない体をまさぐる手を彼女は見下ろした。
憎い
純粋な感情が脳裏を塗りつぶしていく。
思い知らせねばならない。
贖いをさせねば……
次の瞬間彼女は、何の詠唱もなくその腕を肩から切り落としていた。

「ぎゃああああああああっっ!!」
男の絶叫が屋敷に響き渡る。
聞き苦しいその声にティナーシャは冷淡な無表情のまま宙に浮かび上がった。
せっかく着替えたと言うのにまた血で濡れてしまった。
不快感と憎悪が小さな体の中を渦巻く。
ティナーシャは白い指を弾いた。
男の右足がはじけ飛ぶ。
血の飛沫が、彼女の頬を濡らした。
父親は腰が抜けたかのように背後で座り込んでいる。
ティナーシャは細すぎる腕を、寝台を血で染める男に向けた。
「人を殺すのは初めて……いい声で鳴いてください?」
言いながらも彼女は、それが嘘であることを知っていた。
なくなった国、そこに住んでいた人々。
皆自分が殺したようなものだ。
自分さえ生まれなければ、女王候補として見出されなければ
ラナクの心の闇に気づいていれば……
死が彼女の存在を覆っていく。
それらを憎悪を以って輝かせながら、彼女は微笑んだ。
憎い。
憎しみに恍惚と眩暈さえする。
誰が憎いか分からない。
全てが混沌と絡み合う。
でもきっと……
少女は目を閉じる。その暗闇には誰も入ってこない。
きっと自分は、人が憎いのだ。
自分の為に、他人の為に、愛情を以って憎悪を以って同じ人を殺す。
度し難い生き物だ。
皆同じだ。
男の悲鳴に屋敷の警備兵が駆け込んでくる。
彼らに向かって男は手を伸ばした。
「た、助けて……」
「嫌。バラバラになってしまいなさい」
その言葉と同時に、男は肉の破片となった。
あってはならない光景に少女を除いた全員が息を呑む。
警備兵は怯えながらも誰何の声を上げた。
「何者だ……!」
闇色の目が恐怖に震える人々を捕らえる。
助けてくれた男を見ても、武器を構える警備兵を見ても、何とも思わない。
ただ彼らが人であることが……憎いだけだった。
そしてそう思う自分はもう、人ではないのだろう。
人の中にあって人ではない。浮き上がる異質。
ティナーシャは嫣然と笑った。
白い指で頬の血を拭う。
「私は魔女。5番目の……新しく生まれた魔女」
あの日国と共に彼女は死んだ。
今、内にいるのは憐れで哀しい子供だ。
自分の死を、国の滅亡を受け入れられない。取り戻したいと願っている。
叶わない願いに、妄執に、囚われたままの子供。
だから彼女はそれを抱えて生まれるのだ。
比する者がない最強の魔女として。

title by argh