浴室

mudan tensai genkin desu -yuki

彼の黒猫は、甘ったれで底知れず、つかみ所がない。
それが結婚するまでの間ラジュが抱いていた感想で―――― おおむね真実であった。
今は鼻歌を歌いながら彼の髪を洗っている女を、ラジュは目を細めて見上げる。
しかしそれは当然ながら「上向かないで下さい」という苦情ですぐに中断させられた。白い指が丁寧に彼の髪を梳いていく。
かつてはすぐにべったりとくっついてくる彼女を遠ざける為に、色々と気苦労をさせられたものだが、結婚した後はそれを受け入れられるようになった。
本当は彼もいつからか分かっていたのだ。彼女の、強すぎる執着が不安の裏返しであることに。
ティナーシャは彼に触れ、その温度に安心しながらけれどいつも恐れている。
彼女自身自覚がないのだろう。だが彼女はいつでも一つの恐怖を振り払えないでいるのだ。
すなわち、彼がふとしたことで失われてしまわないだろうかと。

「流しますよ」
「ん」
彼が返事をするとすぐに、ぬるいお湯が頭の上に注がれる。
顔の方に流れてこないのは魔法が使われている為であろうが、反射的にラジュは自分の手で前髪をかきあげた。女がくすくすと笑う声が聞こえる。
再び細い指が差し込まれ丹念に彼の髪を濯いでいく間、ラジュは目を閉じて温かさに身をゆだねていた。機嫌のよさそうな歌に、自然と微笑が零れる。
「そういえば」
「何ですか?」
「猫は」
「嫌です」
「…………」
一言しか喋っていないのに拒絶された。
おそらく風呂場での話題であるからして洗われるのだとでも思ったのだろう。
それは真実なのだが、ラジュはまるで心外だというような声を上げた。
「最後まで聞けよ」
「大体分かりますから。嫌です。人の姿のままならいいですが」
「俺は変態にはなりたくない」
まだ十六歳の彼にとって、その辺りは若干抵抗を感じる行為である。
ティナーシャはお湯を止めると彼の背に抱きついてきた。半ば圧し掛かるようにべったりと体重をかけてくる。
彼と違って彼女は服を着ているのだが、濡れてしまうのもお構いなしらしい。彼は肩に乗せられた女の頭を軽く叩いた。
「ありがとう。離れて」
「嫌です」
「風邪引くから……」
「猫を洗ってやろうとか考えた罰ですよ」
「考えただけで駄目なのか!」
語るに落ちる驚愕の声をあげると、ぺしぺしと後頭部を叩かれた。
謝罪すべきか否かをラジュが考えている間に、けれど圧し掛かっていた女は彼を解放する。ほっとしたのも束の間、背中に柔らかな感触が走った。
―――― ぞっとしたのは半ば本能的な欲動によってだ。
罰を与えるように、愛を請うように加えられた口付け。
続く女の溜息からは感情を読むことは出来ない。ただ彼女はいつも不安なのだと、それだけをラジュは知っている。
彼は内心の動揺を押し殺すと息を吐き出した。
「分かった。意地悪しないから」
「本当ですか?」
「本当」
即答するとまた背に唇が押し当てられる。ラジュは眉を寄せてそれを堪えると、背後の女を手招きした。
彼女が覗き込んでくると、その体を膝上に抱き上げる。驚く闇色の瞳に、彼は苦い顔で告げた。
「あと俺、別に逃げたり消えたりしないから」
だから恐れる必要はないと、彼はたった一人の妻に諭す。

不安で仕方ないのだろう。
朝方、寝起きの悪い彼女は彼に縋り付いてくることがままある。
そんな時ティナーシャはまるで泣いているかのように彼を抱いて、そしてようやく落ち着きを取り戻すのだ。
けれどそれもいつかは癒える傷なのかもしれない。ラジュはティナーシャを抱き上げるとそのまま浴槽に入る。
彼女は一瞬泣き笑いのような表情を見せて、夫の首に抱きついた。
水面に広がる長い髪。白い服の裾がお湯に揺らされ波打つ。彼女は目を閉じて囁いた。
「ずっと私が守りますよ」
「まず自分を守って。危なっかしいし」
「あと服傷むんで脱いでいいですか」
「断る」
温かい中に浸され溶けていくように、彼女の不安もいつかなくなるのかもしれない。
ラジュは濡れた裾を手繰り寄せ口付けると、猫ではない彼女を抱いて笑い出したのだった。