mudan tensai genkin desu -yuki
全てが壊れてしまえばいいと願って、それを為せる人間がこの大陸に何人存在しているのか。
だがその数は決して零ではない。可能な人間は、確かにいる。
※
寝台に寝かされた少女の手足は痩せ細っており、こけた頬は荒れて血の気が悪い。
貧相という言葉には収まらない不健康な体は、充分な栄養を取っていないのだろう。少しでも力を加えれば壊れてしまいそうだった。
衰弱した少女。彼女がまだ生者の側にいることは、規則的に上下する薄い胸からも窺い知ることが出来る。
しかしだからと言って安心は出来ない状態だ。彼女を拾ってきたルクレツィアは、右手の平に魔力を集めると、一通り少女の体の上をなぞって「中身がどうなっているのか」を調べた。
結果としては内臓などに疾患は見られない。いたって綺麗なものだ。
だがそれも少女自身、強力な魔法士であるなら当然のことであろう。ルクレツィアは紅い唇を曲げて笑う。
「さて。新しい魔女、か……面白いじゃない」
この大陸には強すぎる力を持った女たちがいる。
その人数は四人。いわゆる「魔女」と呼ばれる女たちだ。
そしてそこに、今は五人目が加わっている。擁している力だけなら他の四人をも凌駕する少女。
しかし持っている力とは逆に、まるで「死にたがっているような」彼女を、ルクレツィアは穏やかな目で見つめた。
最古の魔女と最強の魔女。
共に人を外れた彼女たちの出会いは、こんなささやかなものだ。
魔法薬の調合に戻ったルクレツィアが少女の覚醒に気付いたのは、家の中の魔力の揺れに気付いたからだ。
彼女は盆に水差しとグラスを乗せて、寝室の扉を叩いた。返事がない為そのまま扉を開く。
部屋に一歩足を踏み入れた―――― 直後、彼女を襲ったものは不可視の魔力だ。
波形を描くそれはルクレツィアへと一瞬で到達し、だが何ら影響を与えることなく砕け散る。彼女は唖然とする少女に向けて余裕の笑みを見せた。
「ふーん? 面白いことしてくれるじゃない。家が壊れたらあんた直せるの?」
少女は寝台の上に中腰になって右手を上げたまま動きを止めている。
その指先に複雑な構成が浮かんでいるのを見て、ルクレツィアは内心感嘆した。
「ちょっと落ち着きなさいよ。人体実験しようってわけじゃないんだから」
「……人体実験?」
「しないっつってんでしょ。とりあえず水飲め。風呂入って食事しなさい」
ルクレツィアは寝台に向かってつかつかと歩み寄る。
少女は警戒する猫のように飛び上がったが、空のグラスを差し出されるとじっとそれを見つめた。
「ほら、持って」
「要らない」
「飲めっつってんのよ。いい加減昏睡するわよ。そこまで面倒見るのは嫌だからね」
「要りません。元より、助けられる筋合いはないです」
ぼろぼろの体で、しかしそれでも助力を拒否する少女は、みすぼらしい外見ながらも高い矜持を窺わせていた。
しかしルクレツィアはそこに矜持以外のものをもまた感じ取って、嫣然と笑う。
「あっそ、じゃ、好きにすれば?」
言い放つと同時に彼女は水差しを手に取った。そのまま腕を振りかぶると、中身を少女に向かってぶちまける。
魔法の行使のみを用心していた少女にとって、それは完全に予想外のことだったのだろう。彼女は黒い前髪から水滴を滴らせてぽかんと口を開いた。
「風呂入るならこの部屋出て右だから。好きに使いなさいね」
「い、要らな……」
「ちなみにその水、飲む分には栄養あるけど、皮膚に触れると変色するから。急いで落とした方がいいわよ」
「な……っ」
慌てる少女を笑いながらルクレツィアは魔法薬の調合に戻る。
彼女が魔法湖で拾ってきた薄汚れた少女が、貧弱なままではあるが目を瞠るほどの美しい容姿を曝して戻ってきたのは、その一時間後のことだ。
「あら、綺麗になったじゃない」
艶を取り戻した黒髪は絹糸よりも滑らかに少女の背を覆っている。
白皙の肌は温められた為か、先程よりも血色がよく見えた。ルクレツィアは未完成ながらも非常に整った顔立ちの少女を見て満足そうに頷く。
「じゃあ次は食事ね。苦手なものはあるの?」
「……要らない」
「口から食べられない野生動物っていうなら、別のところから採らせてやってもいいんだけど?」
半ば冗談で口にした脅しは、しかし先程のこともあってか少女に「やりかねない」と取られたらしい。
彼女は顔を引き攣らせると一歩後ずさった。
「食べ、られない……。吐いてしまうんです」
「あら。じゃあ、スープとかにする?」
衰弱しているせいか、と思って聞き返すと、少女は首を左右に振った。
先程診た感じからいって異常があるとは思えない。ならば精神的なものだろうか、とルクレツィアは魔法薬の調合台を振り返った。
そこに緊張気味の少女の声がかかる。
「貴女、何者なんですか?」
「魔女よ。見て分からない?」
少女の闇色の瞳に強い警戒が走る。構成を組むつもりなのか細い指が円を描いた。
大陸に四人しかない魔女。その一人と突き当たって、だが少女は瞠目しつつも恐怖を見せることはしていない。
彼女は魔法防壁を張り―――― しかしその全てを笑い飛ばすようにルクレツィアは踵を返した。
「とりあえず、座って待ってなさいよ。食べられそうなもの何か作るから。
ああ、食べれるならその辺の菓子、好きに手をつけていいからね」
家の主人が厨房に消えると、残された少女は辺りを見回した。やがてすることもなく菓子瓶が置かれたテーブルの前に座す。
花の形にくりぬかれた焼き菓子が詰め込まれた瓶。
何処か懐かしい、人の手の温かさを思わせるそれを見つめると、彼女はそっと瓶に手を伸ばした。中から一枚を取り出し、逡巡しながらも口に運ぶ。
「…………美味しい」
ほのかな甘さは疲れきった心身に染みこむようだった。
少女はそれきり沈黙すると、痩せた両膝を抱え目を閉じる。
あの場所に何日いたのか、ティナーシャ自身よく覚えていない。
ただようやく行き着いた魔法湖の只中で、彼女はずっと昇華の為の構成を組み続けていたのだ。
飲まず食わずで、考えられるだけの方法を試して、だが人の魂を固着させ更なる魔力を集め続ける魔法湖は、それらの構成に微塵の変化も見せなかった。
魔法大国次期女王候補の力をもってしても、どうにもならなかったのだ。
それでも彼女は諦めず力を行使し続け、そうしてついに倒れた。
絶望とはこういう気分をいうのかと、少し思った。
ルクレツィアの出してきた料理は、ティナーシャの体調をよく考慮し、その上で充分すぎるほどに美味なものであった。
最初はスープからおそるおそる口にしていた少女も、少しずつではあるが何品かに手をつける。
量としては子供の食事の半分にも満たないほどであったが、確かに幾分かを食した少女をルクレツィアは満足そうに見やった。
「少しずつでいいから食べて体を整えなさいよ。今のあんたじゃすぐまた行き倒れるわよ」
「平気です」
「変な強がりしてんじゃないっての。大体あんた、そんな年齢で成長止めてるのよくないわよ。あと五歳くらいは進めなさい。
そうすれば今よりは体力もつくし、動きやすくなるわ。男どももちやほやしてくれるわよ」
「……そんなのどうでもいいですよ」
投げやり、というよりも半分くらいは呆れた目を向けてくる少女に、しかしルクレツィアは笑顔を崩さないままである。
ティナーシャは内心を見透かすような琥珀色の瞳を前にして、嫌そうに目を逸らした。
「時間が必要なんです。肉体の無駄な成長に費やしていられません」
「あらそう? あんた早く死にたいんだとばっかり思ってた」
さらりと投げ込まれた言葉。核心を突かれた少女は絶句する。
成長を止めて時間を惜しみながら、その身をぎりぎりまで衰弱させている。
それはまるで矛盾した行為だろう。まるで死と生の両方を望んでいるかのように。
「死にたいのは結構だけれど。
あんまり感情に振り回されないようにしなさいよ?
あんたくらいの力の持ち主だと、矛盾もそのまま実現したりしちゃうだろうから。
何かやることあるならもうちょっと自分を律して、あと命に気を使いなさいよね。
力と時間があれば大抵のことは何とかなるんだし。それが可能なのが魔女なんだから」
最古の魔女の言葉は軽くその場に響き、だが見通せない悠久をもまた擁していた。
ティナーシャは魔女の真意を探るように琥珀色の瞳を注視する。
女は淡く笑んでお茶のカップに口をつけた。湯気にけぶる睫毛が金色に艶めく。
そこには少しの憂いも、分かるようには存在していなかった。
言葉にされないことは名前を持たないままだ。判然としないまま精神の奥底に溜まっていくしかない。
そしてそれを他者と共有することは難しいだろう。共有しようとも思わぬ二人は、だからそれぞれの静寂を選んだ。
ティナーシャは前触れもなく席を立つ。
そうして家の戸口に向かうと、扉を開ける前にルクレツィアを振り返った。
「……お世話になりました。ありがとうございます」
「別にいいわよ。またいつでも来なさい」
「そのつもりはありません」
少女は背を向けると扉に手をかけた。その時背後から魔女の声がかかる。
「来なさいよ。何もかも壊したくなったら来なさい。あと百年くらいは相手になってやるから」
囀るように軽やかに笑う女。
だがティナーシャは彼女を振り返ろうとはしなかった。傷ついた光が宿る目を閉じて、小さな家を出て行く。
※
「来ない」と言いながらも、懐かない猫のように時折家を訪ねてくるティナーシャを、ルクレツィアはその度、当然のように迎えた。
後に当時のことを振り返ったティナーシャは「貴女がいなかったら私は死ぬか壊すかしていたでしょうね」と苦笑し、ルクレツィアは「百年どころか十年が限度だったわね」と嘯く。
魔女二人の間にどのような絆があるのか、二人のどちらもが口にしない。言葉にはしない。
しかしお互いにとって忘れられない出会いとなったこの日のことは、永い時を渡る二人にとって、かけがえのない記憶として今もしまわれているのだ。
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