名のない時

mudan tensai genkin desu -yuki

赤い焚き火の中、木の爆ぜる音が小さく続いている。
その火を中心に円になって地面に座る人々は、焚き火だけでは夜の寒さを拭えないのか、おのおの厚手の織物にくるまっていた。
大陸北東部を通る街道の一つ、街と街のほぼ真ん中地点に位置する荒野で、たまたま同じ乗合馬車で顔を合わせただけの彼らは同じ夜を過ごしている。そのうちの一人、柔和な顔立ちの若い男は空を見上げて嘆息した。
「朝には出られるんだろうか」
「夜は魔物が馬を驚かすっていうからな。どのみちこんな時間に街についても開いてる店は多くない」
「そうだろうけど……何だか落ち着かないな」
たまたま隣に座った中年の男の嗜めに、彼は苦笑し肩を竦めた。

ここ一年ほど、荒野を伸びる街道に魔物が出るという話は有名になっている。
そのため夜走る乗合馬車は、深夜になると馬を休ませ火を焚いて野営をすることが当たり前となっていたのだが、他国から来たこの青年はその通例を知らなかった。御者から与えられた織物を肩にかけ、反対側で小さくなっている若い女を見やる。
「君は知ってた? 野営のこと」
「知っていたわ」
くすんだ金髪に緑の瞳。旅人の服装に身を包んだ彼女は、顔立ちは十人並みだが、何処か普通の女とは違う雰囲気を醸し出していた。
平凡な女に見えるのにそうではない。
疲れ、くたびれ、擦り切れてしまったかのような倦怠を抱えながら、目だけは食い下がり諦めていない。
何だかおかしな女だ。きっと複雑な事情を抱えた人間なのだろう。
男は馬車の中、その危うさが気にかかり何度か彼女に話しかけていた。その時に「別の国からここに来た」と聞いていたのだ。
「あれ。君、この国初めてじゃなかったっけ。なのに知ってるなんて有名な話だったのか……」
「いいえ。それ程有名ではないわ」
女は手の中で織物の端を握り締める。緑の瞳がその奥に昏く歪んだ影を映した。
嘆息よりも重い息を吐いて、彼女はゆっくりと頭を振る。
「私、この国は初めてだけれど―――― この道はもう千回以上越えてきているの」
誰とも共有出来ない絶望。塗り替えられる時の虜囚。
時読の当主と呼ばれる女、リーシア・メリ・クロノスは、そう言って赤く照らされた貌で微笑んで見せた。



ノートラの街は、北東の小国の西方国境近くに栄える辺境都市である。
城都からも遠いこの街は王の庇護はほとんど得られずにいたが、代わりに貴族である領主の支配のもと緩やかに発展し、安定した平和をここ数十年保ち続けていた。交易が盛んで魔法の研究にも力を入れているノートラの財源は、主に領主所有の銀鉱山である。領主に仕える街の人間たちによって採掘された銀は、城が買い取り銀貨とするものの他に、貴族の装飾品や魔法具の材料として引く手数多であり、ノートラはおかげで平民までもが衣食住に困らぬ富んだ暮らしを許されていた。
もっともそれは、たった一日で一変してしまうような安定ではあったのだが。
「一月前、領主様のお嬢さんが事故に遭われてなぁ。足が動かなくなっちまったらしいんだよ。可哀想になあ」
街道の先に見えてきたノートラの城壁。それを見ながら中年の男はリーシアたちに語る。
「領主様は街の魔法士たちを総動員させたが、決定的な治療はなされてないらしくてな。
 ならばということであちこちから魔法士を集めたり、怪しげな占い師を呼び込んだりで、すっかりお館は変わっちまった」
領主の館に毎月交易物を納めているという商人の男は、同情心に溢れた目で首を振った。
その話に青年もすっかり感じ入ったらしく、長い溜息をつく。
「そりゃ何とか治ればいいのに」
「まったくだ。美人なお嬢さんなのに、あの足じゃ男も尻込みするだろう」
「そんなことはないわ」
きっぱりとしたリーシアの相槌に男二人は驚いて顔を上げた。
だが彼女はそれ以上を説明する気もないらしく、ただじっと近づいてくる街を見つめている。
女の確信に満ちた声音に、商人の男は眉を寄せた。
「何だ、あんた。占い師か?」
「違うけれど。私は色々分かるのよ。―――― たとえば、あなたがずっと手探りで探しているペンが、そっちの鞄に刺さってることとか」
急に話題を振られた青年は慌ててリーシアの指す背後を振り返る。
そこに置かれた荷物に愛用のペンが確かに刺してあるのを見つけた彼は、頭を掻いて「参ったな」と恥ずかしそうに笑ったのだった。



「君は何しにこの街に来たの?」
乗合馬車から降りてまもなく、大通りに向かっていたリーシアは、背後から追いついてきた青年に問われて振り返った。
煩わしげでも嬉しそうでもない、きょとんとした女の目に、男は慌てて荷物を持っていない右手を振る。
「あ、ごめん。変な詮索して。僕はあちこちの国を旅して紀行文を書いてるんだけど、別に怪しい者じゃ……怪しいか」
人の事情を聞くからには自分についても明らかにしなければ、と思ったからなのだが、口にすると余計に怪しくなってしまった。
あちこちを放浪する物書きなど定住し職を得ている人間からすれば、胡乱なことこの上ない。
気まずげに苦笑する青年に向かって、だがリーシアは笑うわけでもなく真面目な顔で頷いた。彼が予想したより遥かに穏やかな声で答える。
「怪しくはないわ。とても楽しそうだし」
「そ、そう?」
「私は領主の館を訪ねてきたの」
「ひょっとして娘さんの治療で?」
「違うわ」
今まででもっとも強い声音。
話を断ち切ったリーシアは再び歩き出す。だが呆気に取られた青年が気を取り直すより早く、彼女はもう一度だけ足を止め彼を見やった。
緑の瞳に一瞬、判別しがたい感情が沸く。
「あなた、この街を早く出た方がいいわ」
「え。来たばっかりなんだけど……」
「それでも。あと一週間以内にはここを出なさい」
リーシアは擦り切れた外套を翻し雑踏の中に消えていく。
その後姿を彼は、飲み込めないものを口にした時のような顔で見送ったのだ。






広い寝台の四方には紗幕が引かれ、中で休む人間を不躾な視線から守っていた。
時は黄昏。だが寝台にいる人間は一日中そこから出ていない。出たくとも出られないのだ。
動かない足を嘆く少女のすすり泣きが、部屋に控える小間使いたちの眉を曇らせる。
次第に暗くなっていく部屋に、彼女たちは顔を見合わせるとそっと溜息をついた。

一月前、領主の娘である彼女は乗っていた馬から振り落とされ、したたかに全身を打った。
幸いすぐに施された魔法の治療で何とか一命は取り留めたが、その代わり彼女の細い両脚はそれから動かなくなってしまったのだ。
領主は金に糸目をつけず各地から高名な魔法士を呼んで治療をさせたが、その努力も虚しく今も完治の目処は立っていない。
気がつけば聞こえてくる嗚咽。聞く者全てを憂えさせる声に居た堪れなくなったのか、小間使いの一人がそっと寝台に声をかけた。
「お嬢様、そろそろご夕食のお時間ですが……」
「要らない」
「ですが」
「要らないの。ごめんなさい」
疲れ果てた少女の声は、しばらくするとまたひっそりと泣き出す。
積み重なる悔恨。いつ終わるともしれない重苦しい空気。
けれどその嘆きを終わらせる出来事が、一月経ってようやく領主の館を訪れたのだ。
それは事故が起きてすぐノートラの街を旅立った男が、満身創痍で少女の元に帰ってきた―――― その夜のことだった。



五年前から領主の私兵として仕えていたヴィサは、もともとは城都で武官をしていた男だった。
それが上官とのいざこざに巻き込まれ、宮仕えを辞めてノートラの街に流れ着いた。その後、剣の技量を見込まれ領主に拾われたのだ。
当時二十歳だった彼は城都で培った広い識見もあってすぐさま領主に気に入られ、もっとも重要な役目、娘の護衛をも任されるようになった。
領主からも娘からも信用を得て過ごした日々。
五年間つつがなく任務をこなした彼は、けれど彼女の事故以来、責任を感じたのか消えたように彼女の前に現れなくなっていた。
それが彼女の不幸を拭う為のものだったと娘本人が知ったのは、ヴィサが小さな箱を携え彼女の部屋に忍んできた夜のことである。
「お嬢様……」
「ヴィサ?」
小間使いたちも下がった夜更け。扉を開ける音を訝しんですぐ、聞こえてきた声に娘は飛び起きた。
急いで紗幕を開け懐かしい男の顔を見ようとする。けれど、意思に反して体が上手く動かない。
感覚のない両脚に絶望を覚えながらも彼女は震える手を伸ばし白い幕を掴んだ。しかしそれを留めるかのように男の声が続く。
「どうかそのままで、お嬢様」
「ヴィサ? ヴィサではないの? 今までどこへ……」
「お嬢様の足を治療すべく国を出て呪具を探しておりました」
「呪具? お父様はご存知で?」
「いいえ。これは表立ってその力を説明出来るようなものではないのです。その力を直接お見せすることも出来ませんでしょう。
 ただお嬢様の脚は元通りになる。それだけはお約束出来ます」
「どういうこと?」

困惑声の少女に、跪いたヴィサは苦笑した。手元に抱えた小さな箱を見やる。
その中には赤い鉱石を磨いて作られた小さな珠が入っているのだ。
これを手に入れるまでどれ程の苦労があったか、それは顔にまで残る生々しい傷跡を見れば容易に窺い知れることであろう。
だがヴィサは純真な少女に惨たらしい傷を見せることを厭って、視線を遮る布越しに言葉を紡ぐ。
「お嬢様、もう少しだけお待ちくださいませ。あの事故をきっとなきものにして参ります」
「なきもの?」
「はい。これはそれを可能にすることが出来るのです。つまり―――― 」
「時を遡り、改竄することが、出来る」
少女のものでも男のものでもない声。
それは唐突に、部屋の窓際から響いた。乾ききった女の声にヴィサは慌てて立ち上がる。
「何者だ! 貴様!」
剣を抜きながらの誰何。その鋭さに女は苦笑した。時を越え続ける砂に似た虚無が暗い両眼によぎる。
転移魔法を使い娘の室内に直接現れた彼女―― リーシアは無言で右手を上げた。
悠久の中で培われた構成が、何の音も光もなくヴィサの手の中からするりと箱を取り上げる。
滅多に見ることのない無詠唱での力の行使。彼は女の正体に気づくと顔色を変えた。
「貴様……っ! 魔法士か!」
箱は男の手を巧みにすり抜けてリーシアの手の中へと収まる。彼女はそれを一瞥すると腰につけた袋に押し込んだ。
剣を抜く男から意識を逸らさぬまま、再度転移の構成を組み始める。



得体の知れない女だ。
だが、このまま逃がすわけにはいかない。あの呪具は、あれだけは渡せないのだ。守るべき娘の未来の為に。
しかしそう思いながらヴィサが踏み出した時、寝台の中から悲痛な制止が響いた。振り返ると紗幕を掴んだ娘が蒼ざめた顔を覗かせている。
「やめて、ヴィサ。そのようなことをしないで。
 ねぇ貴女、わたくしにはそれが必要なのです。ヴィサがわたくしの為に探してきてくれたもので……」
「これがなくとも、あなたは幸せになれるわ」
「……え?」
「もうすぐこの街には、国境を越えてタァイーリが攻めてくる。
 魔法士を集めている危険な街に鉄槌を与えようとして、しかし実際のところは銀鉱山を目当てに。
 この街はタァイーリの支配下に置かれ、あなたは王の目に留まり後宮に連れて行かれる。
 そして王の寵愛を受け二人の子を産む……充分な未来ではないかしら」
淡々とした声は、まるで未来のことを過去の出来事として読み上げるかのように、二人には聞こえた。
娘は愕然とリーシアを見つめ、ヴィサは困惑の目を二人の女に彷徨わせる。少しも飲み込めずにいる領主の娘に、リーシアは続けた。
「勿論、あなたは違う未来を選ぶことも出来る。タァイーリが来る前にあなたを想う男と共にこの街を逃げ出すことも……。
 でも、これは渡せない。私はもう同じ時を繰り返したくないから」
「何を……。戯言を抜かすな女! 貴様はお嬢様に一生このままでいろというのか!」
「やがて歩けるようになる。魔法で治せないのは彼女の心の問題だから」
「知った風な口を利くな! 自分が五体満足と思って……」
「五体満足?」
女の唇が歪む。全てを嘲弄する声が刹那部屋を凍らせた。
到底埋めようもない年月、孤独、絶望。
その谷底に立つリーシアは左手で腰の袋を押さえつけた。僅かに寄せられた眉だけに彼女の苦悩が垣間見える。
「体は無事でも魂の傷は消えないわ。何千回も何万回も……私の魂は傷つけられる。
 あなたたちがそれをするのよ。人を愛して私たちを苦しめる」



呪われた一族だ。
囚われた血脈だ。
誰かが誰かを思い、願う。
過去を変えたいと、祈り、跳ぶ。
その度ごとに彼らは傷つけられる。魂に記録を刻まれ記憶を重ねる。
それは逃れられぬ運命の連なりだ。終わりを与えられぬ悪夢の続きだ。



「……何のことだ?」
ヴィサの問いに、リーシアは答えようとしなかった。無言で転移を発動させ、その場から消え去る。
止める間もない消失。残された二人は混乱を胸にお互いを見つめあった。
女の語った「過去」が、それぞれの中に戸惑いを生む。娘は剣傷の残るヴィサの顔を見上げ、夢うつつのように首を傾げた。
「わたくしが、寵姫?」
「この街が……侵略されるだと?」
すれ違う言葉は夜の中に消えていく。
女の言葉通りノートラの街がタァイーリの軍の前に陥落したのは、この十日後のことだった。






肩の荷が下りた。
そう表すにはあまりにも長かった旅路の果て、リーシアは気の抜けた思いで一人小さな田舎町を歩いていた。
ずっと追い続けてきた呪具。それをようやく手にして「沈黙の魔女」へ預けた。これで彼女は束の間の平穏を約束されたのだ。
だが、平穏とは言えそれは決して解放と同義ではない。
繰り返された時の重みを思うと手放しで喜ぶことは出来ず、彼女はとぼとぼと人通りの少ない道を踏みしめていた。

伝え聞く話では、ノートラ領主の娘はやはりタァイーリ王の後宮に召し上げられたらしい。
ただおそらく彼女を守ろうと戦ったであろう男がどうなったか、そこまでリーシアは知らなかった。

これからどうしようか。
そんな疑問がふと頭をよぎる。
たとえば今自分が死ねば次代はどうなるのか。それは気にしていながら知りたくなかった疑問だ。
自分の死が怖いからというわけではなく、誰が自分の次にこの苦悩を負うのかという意味において。
本当はその答は既に決まっている。
彼女は、一人の男児を生む。その子が次代の当主で、これはもはや「刻まれた」決定事項だ。
だがリーシアはずっとその事実から目を逸らしたくて彼女を縛る呪具を追って来た。かつて手にしていた多くのものを捨ててまで。



「あれ、君」
かけられた声は、聞き覚えのある男のものだった。
目を丸くして振り返るリーシアに、乗合馬車で出会った男は気恥ずかしそうに笑う。
「こんなところでまた会うなんて……偶然だね」
「どうしてこんなところにいるの?」
―――― ぽつりと聞いた問いの重みを彼は知らない。
青年は寝癖の残る髪をくしゃくしゃとかき回した。
「何となく君の言ったことが気になって、あれからすぐにノートラを出たんだ。そしたら侵略されたって聞いて驚いて……。
 でも君も助かったんだね。結構心配してたんだけど。やっぱり占い師?」
「違うわ」

彼は、何も知らない。何も覚えていない。何も気付かない。
それでも出会う。引き寄せられる。
これは偶然か、それとも呪具の力が「次代の父親」を呼んでいるのか。

「あ、時間あるならこれから一緒に飯でも食べない? 小さな町だけど美味い食堂見つけてさ」
頭を掻く癖。すぐに持っているペンをあちこちに刺してしまう仕草。
懐かしい男の姿にリーシアはしばし無言で見入った。返事をしない彼女に、青年は困ったような顔になる。
「ご、ごめん。図々しかったかな」
「いいえ」
何千も繰り返される歴史。そこに束の間の平穏を見ることは出来るのだろうか。出来ないのだろうか。
長い間忘れていた涙が瞼の奥にこみ上げ、リーシアは微笑んだ。躊躇いがちにそっと頭を振る。
「行きたいわ。行っていいのなら。あなたと一緒に……」
「本当? じゃあ案内するよ」
嬉しそうな表情で道を示す男の後をリーシアはついて行く。
その足取りは確かに今までのものよりも軽く、新しい時に向かって歩んでいくささやかな期待を込めたものだったのだ。