晴天の破片

mudan tensai genkin desu -yuki

「今年は何が欲しいですか？」
それ自体が澄んだ空気のような女の声。よく耳に馴染んだ妃の問いにオスカーは顔を上げた。
天井近くに浮いている女を見上げる。
「……ああ、誕生日か」
「そう。希望を聞きますよ」
あと一月もすれば、第二十一代ファルサス国王である彼の誕生日がやって来る。
そしてそれは、各国の主要人物を招いた式典が行われるということでもあるのだ。
派手な外交の場があまり好きではない王は苦い顔になったが、ティナーシャの言葉を思い出すと表情を和らげた。
宙にいる妻を手招きで呼び寄せる。
「欲しいものと言ってもな……。特にないぞ」
「貴方、私生活は結構あっさりしてますからね。毎年困るんですよ」
今年は彼女と結婚してから三回目の誕生日であるが、確か去年も似たようなことを聞かれて似たようなことを返したのだ。
オスカーは膝に座る妻の頭に顎を乗せると苦笑した。
「そう言われても充分幸福だ。これ以上贅沢は思いつかん」
「何でも言ってみてくださいよ。『私』が聞いているのに欲がないですね」
確かに、最強の魔女と呼ばれる彼女から無償で「望みは何か」と聞かれているにもかかわらず、「何もない」と答える人間はほとんどいないに違いない。
彼女の助力さえあれば大抵のことは何とかなるのだ。富でも権力でも、その他諸々のことでも。
ただオスカーは必要以上の富に魅力は感じないし、国の領土を更に広げようなどとも思わない。ただ面倒なだけだ。
そして、妃の座には彼女がいる。他に欲しいものは何もなかった。

それでも彼は、妻からの質問を受けて考え込む。しばらくして王は、ふとあることを口にした。
「そうだな。少し休みが欲しい。半日くらい城外でゆっくりしたい」
国の最高政務者である彼は、王であるという立場のこともありほとんど個人の時間というものが存在しない。
昼は執務をしているか剣を取り武官たちに稽古をつけているかで、僅かな休憩時間と夜の数時間をティナーシャと共にすることだけが休みに相当している。
勿論ここ半年、丸一日の休日などはなかったし、そのことに取り立てて不満も持っていなかった。
彼よりは遥かに自由時間の多い王妃は、夫の希望を聞いて笑顔になる。
「それでいいんですか？　なら私が執務を代わりますよ」
「駄目」
「何でですか。信用ないですね」
ティナーシャは白い頬を膨らませる。彼女は自分が「王の仕事を任せるに足らない」と言われたと思ったらしい。
かつては女王候補としての教育を受け、長い年月の間に実際何カ国かの政務に関わったこともある女の頬を、オスカーは笑いながら摘んだ。
「お前の能力は信用してるさ。ただ俺だけ休みでもつまらん。お前がいないとな」
「う……急に難易度高くなりましたね。私たち両方が城を空けるって難しいですよ」
「だろうな」
彼ら二人はそれぞれが実質的に城の支柱なのだ。どちらかの不在をどちらかが埋めることは出来ても、両方いなくなると急時に対応できない。
オスカーは「まぁ何でもいいぞ。お前がくれるなら」と言ってこの話を締めくくる。
だが彼が笑ったのとは対照的に、ティナーシャの方は何やら深く考え込んでいるようで、休憩時間が終わるとすぐに執務室からいなくなってしまったのだ。

嫌だやりたくない、と言っても一応正式な行事である。その年のファルサスの式典は予定通り、オスカーの誕生日の二日前に行われた。
華やかなドレスの色彩が溢れる中を、二十四歳になるファルサス国王は来賓との会話に追われながらゆっくりと移動していく。
彼の隣にティナーシャはいない。魔女である王妃は式の始めにだけ彼と共にいたのみで、あとは広間の隅で話しかけてくる人間たちに受け答えている。
彼女の前歴は勿論ここにいるほぼ全員が知っていることであり、その存在を忌避する人間も少なくない。
その為ティナーシャは王の隣を占めているのではなく、むしろその場所をファルサスとの関係を保ちたい人間たちの為に空け、自分はそれなりの意志や覚悟を持って眼前に現れる人物たちだけを話し相手としているのだ。かつてそうして「塔の達成者」にのみ、その姿を見せていたように。
オスカーは何やら初老の男と話しこんでいる妻を遠目に一瞥すると、新たに挨拶をしてきた二人の人間へと向き直った。
男の方は品のよい身なりをした壮年の男で、もう一人は彼の姪くらいの年齢に見える美しい少女である。
彼らは北東の小国メディアルの王族だと名乗ると、儀礼的な祝辞を述べる。オスカーは礼儀を持って挨拶を返した。
「噂には聞いておりましたが、いや非常にお若い。これ程の若さで大国を動かすとは羨ましい才覚をお持ちで」
男の追従は幾分鼻につくものであったが、本人はそれに気づいていないらしい。
オスカーは内心の冷笑を無言の苦笑に変えると、自分の倍くらいは年上の男を見やる。
「王妃様も評判通りのお美しい方で。あれ程の美貌なら他の姫君が目に入らないのも頷けます。
　ただ惜しむらくは……いまだお世継ぎを生まれていない」
含みのある言葉。男の連れている少女がついと視線をティナーシャの方へ走らせた。その視線に混濁を垣間見てオスカーは目を細める。
「子は勿論必要だが、そう急いではいない。俺は勿論、あれも肉体的には充分若いのでな」
「左様でございますか。ですが、既にご成婚から三年以上が経っています。もしもの時の為に別の可能性を探しておくことも必要ではないでしょうか」
ここまで来れば、誰でもこの男が何を言いたいのか分かる。
つまりは子供を身篭らないティナーシャの代わりに、子を産む女を側室に迎えろということなのだ。
そしてあわよくばその座を自分の国の姫に占めさせたいと。
オスカーは苦々しい溜息を飲み込んだ。男のすぐ後ろにいる少女に視線を移す。
先程から野心と憧憬の混ざった目で彼を見ている少女は、自分に王の視線が移ったことでぱっと顔を明るくした。
年齢以上の艶やかさが美しい貌に宿る。オスカーは人形のような彼女の顔を見ながら口を開いた。
「確かにあれは、長らく体の時間を止めていた影響でしばらくは子を孕みにくいと聞いた」
「ならば……」
「だがそれも数年のことだ。その数年が待てぬわけではないし、俺はあれの子が欲しい。それにな……」
若き王は二人の来賓を順番に眺める。
社交的なものではない冷ややかな視線。
その意味することに気づいて、彼ら二人ともが顔色を変えた。まだ十代の少女は初めて見る王の威にそのまま硬直してしまう。
「たとえ何かの事情で側室を置き、子を作らなければならなくなったとしても、俺はあれに侮蔑の視線を送る女は決して城には迎えない。
　あれこそが俺の妃であると、それさえ理解できぬ側室は不要だ。―――― 分かるか？」
これ以上ない拒絶の言葉。
心当たりのある娘は震えて頭を下げた。その体を伯父が押し退ける。
だが、オスカーは最早彼らを顧みない。尊大な挨拶だけをしてその場を立ち去る。
他国の人間は皆承知しているのだ。だが初めてこの式典に現れた彼らは知らなかったのだろう。
王は自分に取り入ろうとする人間たちに対し、魔女を畏れることは許す。
けれど彼女を穢らわしい異物として軽蔑することは、決して赦さないのだと。

誕生日の朝はいつもと変わらぬものだった。オスカーは朝早く目を覚ますと、隣に眠る女の頭を撫でる。
彼女がこんな時間に目を覚ますことはありえない。いつも日が昇りきった頃に目を擦りながら這い起きてくるような女なのだ。
だから彼はこの日、伸ばした手が逆に掴まれたことにぎょっとしてしまった。寝相の一種かと疑いながらティナーシャの顔を覗き込む。
「……起きたのか？」
「お、きて、ます……」
「半分くらいは寝てるじゃないか」
「ううう……ちょっと待ってください」
彼女の寝起きが悪いのは半ば体質だ。その為オスカーは「寝てていい」と言ったのだが、ティナーシャはこの日に限って「絶対起きるから風呂に連れて行って欲しい」とねだる。仕方なく力ない体を抱き上げて浴室に運ぶと、彼女はよたよたと歩いて顔を洗い始めた。
そうこうしているうちに、ようやく自力でも動けるくらいになったらしい。ティナーシャは幾分はっきりとした目でオスカーを見上げる。
「よし！　遊びに行きましょう！」
「―――― は？　何を言ってるんだ。仕事があるぞ」
「いいからいいから。何とかしましたから！」
まったく意味が分からない上に唐突だ。
けれど魔女はその後急いで自分の仕度をしてしまうと……結局夫を促して、執務室ではなくドラゴンの背に乗せてしまったのである。

空の上から見える国土は美しい。緑は命そのものを孕んで地平にまで広がり、遠くに見える街が繊細な細工物のように輝きを放っている。
オスカーは久しぶりの景色を見ながら、だがやはり隣の妻の頭を叩いた。激しく気になっていることを問い質す。
「何なんだ一体。あまり長くは空けられないぞ」
「無理矢理空けてきました。事前に処理できるものはみんな処理してきましたから」
「……そんなことをしていたのか？」
「だって休みが欲しいって言ったでしょう」
何故そんなことを聞くのか、心外だと言った目でティナーシャは夫をねめつける。
彼女がここまで断言するのなら本当に空けてきたのだろう。随分無茶をするものだ。事前に出来るものと言ってもかなりの量だったはずなのだから。
まさか戯れに言ったことにここまでの手を尽くしてくれるとは思わなかった。オスカーは苦笑して……けれどもう一つ気になっていることをも口にする。
「それは凄いし嬉しいが。後ろにある扉は何だ」
彼らの背後、ナークの背の上には扉が一つ置かれている。勿論その更に後ろには何もない。ただの扉だけだ。
彼女は出発に際し、どこからか取り出したその扉をドラゴンの背に据えつけたのだが、何の意味があるのかオスカーはまだ聞いていなかった。
魔女は子供に似た仕草で笑ってみせる。
「ああ、あれは執務室の扉です」
「は？　お前、扉をもぎとったのか！？」
ちょっとした力ですぐに城を破壊してしまう彼女だが、これはさすがに意味が分からない。
唖然となった王に、しかしティナーシャは笑って首を横に振った。
「違いますよ。あっちの扉はちゃんとついてます。ただちょっと仕掛けをしてきましてね。
　執務室の扉を開けると、こっちの扉に自動転移するようにしてきたんです。これで緊急の用件が入っても平気ですよ」
移動している座標を取得するよう構成を組むのが大変だったんです、と続ける魔女は何処となく楽しそうである。
上手い悪戯を仕掛けられた子供のような目でオスカーを見上げると、ティナーシャは白い手を伸ばした。
「何でも叶えますよ、私の王。だから……遊びましょう」

望めば一夜で国一つさえ滅ぼせる女が、たった一人の男の為に最高の技術を以って時間を用意する。
それはまるでありふれた、けれど贅沢な幸福だ。
血でもなく力でもなく、ただ稚気に富んだ想いだけが彼に注がれ贈られる。

「何処に行きます？　海ですか？　島ですか？　東の大陸でもいいですよ？」
鳥よりも身軽な女に問われて、オスカーは声を上げて笑い出した。華奢な躰を引き寄せると足の間に抱え込む。
「そうだな。とりあえずこのまま一回りしてくれ。久しぶりの空だ」
「だそうだ、ナーク。張り切って行くといい」
二人の言葉に応えるようにドラゴンは甲高い鳴き声を上げるとゆっくり旋回し始める。風が心地良く流れて行き、眼下の景色が色を変えた。
舞い上がる黒髪を手で捕らえながらオスカーは妻の耳に口を寄せる。
「凄いついでにもう一つ叶えてくれ」
「何ですか？　言ってみてください」
叶えられないことなどないと、自信を滲ませる女の目をオスカーは見つめた。
いつまでも変わらない無二の闇色。彼だけの魔女の瞳を。
「来年のこの日まで、また俺の傍にいてくれ」
それだけが望みだ。他に何も願うようなことはない。
彼女の存在そのものが、彼が欲して欲してようやく手に入れた至宝なのだから。

ティナーシャは少し目を瞠って、しかしすぐに空に溶ける声で笑う。
彼女は白い両腕を夫の首に回すと「それならば毎年でも」と囁いて彼の頬に口付けたのだった。

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