mudan tensai genkin desu -yuki
彼らは週に二度、森の中の屋敷から街へと出る。
どうしても買わなければならないものがあるというわけではない。単に街へ出ると彼女は喜ぶのだ。
だからオスカーは妻を伴って外へ出る。
ただいつも同じ街へは行かない。彼女の容姿は非常に人目を引くものであるから、その時々で行く先を変える。
その日出た街は、ファルサスの南部にある港町だった。初めて見る南の海にリースヒェンは歓声を上げる。
「オスカー、青が澄んでる」
「そうだな。大分色が違う」
すっかりはしゃいでいる少女は手を離したら何処までも走っていってしまいそうだ。
彼は「食事をしたら砂浜に連れて行ってやる」と言いながら、妻を桟橋から引き剥がした。
とりあえずは立ち並ぶ屋台の一つから貝殻の詰まった瓶を買って、リースヒェンに渡す。
少女はそれを日の光にかざしながら首を傾げた。
「貝の中身って何処にいるの?」
「海の中だ」
「新しく生まれ変わるのね」
唐突な彼女の言葉にオスカーは苦笑する。
生まれ変われる生き物など、この世界において彼ら二人しかいない。まだ彼女はそれを知らないのだ。
かつて魔女であった少女は弾むように潮風の中を歩いていく。闇を切り取った長い髪が揺れた。
人通りの多い港町のざわめきに、彼女に気づいた人間たちの囁きが混じり始める。
だが彼女本人は自分についてのさざめきよりも別の噂話に耳を引かれたようだった。振り返って長身の夫を見上げる。
「また戦争があったの?」
「らしいな。戦争というほどではないが。大国同士の小競り合いだ」
世間とはまったく隔絶した生活を送っている彼らだが、オスカーは大陸の動きについて一応一通りの情報を得るようにはしている。
六十年前に端を発する亡国の禍根を巡っての戦闘は、けれど動員された軍の規模からいって長続きするものではないだろう。
どちらの国を動かす人間も、若くはあるが有能な人間たちだ。己の引き際を見極められないことはないと彼は踏んでいた。
だが、戦争によって自国を失う経験をしたリースヒェンは、何処か不安げな瞳を薄青い空に彷徨わせただけである。
髪と同じ色の瞳に、人の営みを慈しみながらも憂いていた女の貌が重なった。
「これからも増えるの?」
「いや。それ程でもないだろう。暗黒時代ほど各国が不安定なわけではないし、再来期のように新しい技術が生まれたわけでもない。
単に血の気の多い人間が暴れているだけだ」
「血の気の多い? オルトヴィーンみたいに?」
「そうだな。たまにこういう巡りあわせの時代が来る。若さと力と野心を持った人間が複数居並ぶような時代がな」
一般に再来期と言われるのは、魔女の時代が終わった後、画期的な技術が発明された為、量産された魔法具が戦場投入された時代のことを言う。
たった十年で終わったその時代は、けれどそれだけの間に多くの国の運命を塗り替えたのだ。
主体のない嵐のようだった時代。しかし今は、その時と比べればまったく様相を異にしている。
単に己の力を試したい人間たちがいるだけだ。そして彼らのほとんどが致命的な傷を負う前に手を引こうとするだろう。
オスカーはその予想を長く積み重ねた自身の経験から得ていたが、ただでさえ経験が足りていない妻にそれを理解させるのは難しそうだった。
彼はリースヒェンの頭に手を伸ばす。くしゃくしゃと撫でようとして、しかし闇色の瞳を見てその手を止めた。
異質の海。光のない深淵が世界を映し出す。
「―――― 変革が起きる」
「リースヒェン?」
普段とはまったく違う、きっぱりとした言葉。
その強い響きにオスカーはあやうく別の名を呼んでしまうところだった。足を止め、妻の貌を覗き込む。
だがそこに魔女を思わせるものは何もない。ただ無垢な視線が彼を注視した。
「オスカー」
「どうした?」
「分からない」
彼女はまるで今自分が言ったことも忘れてしまったかのように微笑する。
そのまま彼の手をすり抜け、貝殻の詰まった瓶を手に駆け出していった。オスカーは歩調を速めてその後を追う。
リースヒェンは何も思い出していない。自分の力も全ては使えない。
だから彼女だけが何かの異常に反応するということは本来ないはずなのだ。むしろ勘が鋭い彼の方が先に気づく。
―――― だがもしかしたら。
「変革か……あいつの属性だからか?」
人は誰しも生まれた瞬間から属性を持つ。
自覚できぬ気質、奥底に潜み続ける本質の一部を。
本来ならば一生認識することの出来ないそれを、だが彼らは人の輪から外れることで思い出した。
人であった時、彼が持って生まれた属性は「征服」。そして彼女の属性は「変革」だ。
オスカーは自身の属性を圧して人としての生涯を終えたが、彼女はまさに属性の象徴するまま自身と世界を変えていった。
そして、変革の属性を持つ彼女が予感したというのなら、何かが起きようとしているのかもしれない。大陸を再び塗り替えるような何かが。
オスカーは手を伸ばすと、柵から海を覗き込んでいた妻の頭を撫でる。彼女は心地よさそうに目を閉じた。
「オスカー、私、子供が欲しい」
「無理だ。俺たちにはもう子供が生まれない。魂が宿らない」
「そうなんだ」
リースヒェンはがっかりした様子もなく、ごくごく当たり前に返す。空いた手で夫の手を取ると、柵にそって歩き出した。
白い手の中に握りこまれた瓶の中には貝の殻だけが眠っている。
物言わぬそれらはずっと、帰ってこない中身を待っているかのようだった。
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