お休みの日

mudan tensai genkin desu -yuki

青い塔から呪いの解呪の為にファルサスに来て三ヶ月。
ファルサスにおいて魔法の講義を聞いたり、呪詛の解析をしたりして日々を過ごしている魔女は、その日契約者からある誘いを受けることになった。
「釣り?」
「釣り。やったことないか?」
「ないです」
「なら行くか」
「何で」
彼の考えることはまったくよく分からない。分からないのだが何だかうやむやのうちに馬に乗せられ、気がついた時は城都近郊の湖にいた。
ティナーシャは森の中にぽつんとある小さな湖を眺める。隣ではオスカーとラザルが釣竿を用意しているが、その内のラザルが妙に凹んだ表情をしているのは何故なのだろう。とりあえずそのことは置いておいて、彼女はオスカーに尋ねた。
「こんなところに湖あったんですね」
「俺も初めて来た。ほら、釣竿」
「……ありがとうございます」
意味不明だが、餌までついた釣竿を渡されてはやらないわけにはいかない。
ティナーシャは鶏の腿肉が結わえられた糸を少しの疑問を抱きながら湖に向って投げた。そのまま水辺にぺたんと座る。
その契約者は軽く腕を振っただけで彼女より遠くに糸を投げ込むと、隣に座った。最後にラザルが非常に嫌そうな顔ですぐ目の前の水に糸を垂らす。
一見非常にのどかな休日だ。だが魔女の頭の中には疑問符がいっぱいであり、何から聞こうかと悩んでいる最中だった。
「この湖って地図に載ってないですよね。小さいからですか?」
まずは無難なところから切り出してみる。ファルサスの地図は彼女も何度か見た事があったが、確かここはただの森だったはずだ。
オスカーは動かない糸を眺めたまま答える。
「いや。二週間前に出来たから載ってないんだ」
「何だよそれは!」
「ちょっと前に何日か大雨の日があっただろう? その時に出来たらしいぞ」
「…………」
確かに二、三日大雨が続いた日があったが、いくら小さいとは言えそんなことで綺麗に湖が出来てしまうだろうか。
ティナーシャは更に悩んだが、もともと窪地だったのだろうと片付けることにした。一向に引きが来ない糸を手持ち無沙汰に揺らす。
「雨で出来た湖なんかに魚がいるわけないじゃないですか」
「そうでもない」
言うと同時に彼は竿を上げる。手繰り寄せられたその糸の先には……小さな人の足が生えた青い魚が食いついていた。
魚は釣り上げられたと分かるや貪っていた鶏肉から口を離し、白い牙を向いてオスカーに飛び掛ってくる。彼はそれを持っていた短剣で難なく切り捨てた。
悲鳴を上げて飛びのくラザルとは対照的に、まったく表情を変えないまま彼は魔女の方を見やる。
「ほら、釣れた」
「―――― 最初っから説明しなさい!」

そもそも二週間前に雨が上がった後、この湖が森の中に突然現れたことから話は始まった。
その後近隣の村人が何人か森にキノコを狩りに来て湖の存在に気づいたのだという。
彼らはやめておけばいいのに面白半分で釣りをした。そして明らかにおかしな魚を釣り上げ―――― やめておけばいいのにそれを食べてしまったのだ。
「それでどうなったんですか」
魔女は白眼で話の続きを促す。先ほどから二人は怪しい魚を釣り上げてはそれを殺して横に積み上げているのだが、まったく際限がない。
よくこんなものを食べる気になったものだと、ティナーシャは白目を向いて死んでいる足つき魚を一瞥した。
「それがな。食べた人間の指に水かきが出来てしまったそうなんだ」
「うわぁ……。でもそれくらいですんでよかったじゃないですか。明らかに自業自得ですよ」
「最近は水の中じゃないと呼吸できないらしい」
「…………」
何だかもう無茶苦茶だ。要するにここには何かしら魔族がいるのではないか、ということなのだろう。
ティナーシャは糸を引く力に反応して竿を上げる。その先に食いついていた足魚を無詠唱の魔法で焼いた。
「で、どうするんですか。水を干上がらせろっていうならやりますけど」
「ふむ。主が釣れないかと思ったんだがな」
「そんな馬鹿な。鶏肉なんかで釣れるわけがないじゃないですか……。もう湖ごとふっ飛ばしますよ」
「まぁ待て。もうちょっと粘ってみよう。大物が釣れるかもしれん」
「そういう粘り強さは本物の湖で発揮してください!」
もう限界だろう。ティナーシャは立ち上がると糸を巻き上げようとした。しかし、次の瞬間彼女は逆に引っ張られて転びそうになる。
顔から草むらに突っ込むところをかろうじてオスカーが手を伸ばして支えた。だがその間にも糸はかなりの力で彼女を湖に引きずり込もうとしている。
「な、何これ」
「お、大物か。放すなよ、ティナーシャ」
オスカーは自分の釣竿を手放すと代わりに彼女の小さな体を抱き上げて抱え込んだ。その手から釣竿を受け取って黙々と糸を巻き取り始める。
ラザルは既に釣りを放棄して恐怖の表情で後ろに下がっており、ティナーシャは溜息をつくと男の膝の上で釣竿に触れながら詠唱を開始した。
湖の中で何が糸を引いているのかは分からないが、それが人間を引き込もうとする力よりオスカーの力の方が強いらしい。
糸が切れないよう魔法で補強するティナーシャの助けを借りて、彼は確実に手元にそれを引き上げつつあった。

水の中からの反発が急になくなったのは、湖面に激しい水飛沫が上がる一瞬前のことである。
力では敵わないと悟って打って出ることにしたのだろう。水の中から飛び出したそれはオスカーの前にいたティナーシャへと真っ直ぐに向った。
「うわ!」
彼女が叫び声を上げたのは恐怖より生理的嫌悪の為だった。
見るからにぬるぬるとしている青い鱗。大人ほどの背丈の魚の腹からは、白い人間の足が六本生えている。
バタバタと空中で足を動かし牙を剥いて食いついてこようとする魚を、魔女はけれど嫌がりながらも用意していた魔法で打った。
魚はそのまま激しく弾かれて水の中に落ちる。出現した時よりは遥かに小さい水飛沫と共に、不気味な姿は見えなくなった。
「…………あ、しまった」
「逃げたじゃないか。切り身にしようと思ったのに」
「絶対食べませんからね!」
いつの間にか釣竿ではなくアカーシアを持っている男は水面を窺う。ティナーシャは新たな魔法を詠唱すると白い手を湖に向けた。
「もう見たからいいでしょう? 湖ごと焼きつくします」
「まぁいいか。頼む」
「マテマテ」
しゃがれた声は水の中から聞こえる。二人の視線が集まった先、小さな湖からさっきの魚人が顔だけ出して二人を見つめていた。
どこから声を出しているのか、魚は口をぱくぱくさせて訴える。
「モヤスナ。アツイカラ」
「知りませんよ。燃えなさい」
「茹でると色が変わるのかもしれん」
「食べませんからね!」
姿を現して頼んでみたが、二人は燃やす気満々らしい。魚の魔族は焦って首を振った。
「マテマテ! タスケテクレタラ、ネガイ、ヲ、カナエヨウ!」
「願いと言われてもな……。じゃあこいつと結婚できるようにしてくれ」
「何言ってるんですか貴方は! ここは村人を元に戻せというところでしょう!」
非常識な契約者に魔女が怒ると、彼はもともとここに来た経緯を思い出したのかぽんと手を叩いた。魚に向って軽く手を振る。
「ああ、忘れてた。じゃあそれで」
「サカナ、タベタモノ、ワタシガ、シナナケレバ、ナオラナイ」
「何だ。じゃあ結局煮るしかないな」
「マテマテ」
不毛な問答にティナーシャは頭を抱える。しかしオスカーは剣を携えたまま冷ややかに返答した。
「村人も戻せなければ結婚も出来ない魚はただの魚だ」
「結婚できないのは殿下の性格のせいなんじゃ……」
「魚を食わすぞラザル」
「心にもないことを申しました。大変失礼致しました」
足魚から視線を逸らして頭を下げる従者に、黙って頷くとオスカーは魚人に向き直る。
湖の深さがどれくらいあるか分からないが、そこに入って戦うのはやはり面倒だろう。彼は魚人を手招きした。
「よし、捌いてやるからこっちに来い」
「イヤダ」
「美味しくしてやる」
「イカナイ」
聞いているだけで頭が痛くなってくるようなやりとり。魔女は疲れた顔でかぶりを振ると詠唱を開始する。
「来い」「コナイ」を繰り返している後ろから湖に狙いを定めると―――― 彼女は無造作に魔法を放った。

熱風が吹き付ける。
それは、辺りの木々を激しく揺らし、葉を散らした。ラザルは思わず腕で顔を庇う。
肌に突き刺さる熱が数秒続き、その後風は不意にやんだ。
それに気づいた彼はこわごわ手を下ろして湖の方を見る。
しかしそこには……もはや水の一滴も残っていなかったのである。

カラカラに焼かれたむき出しの地面を見てオスカーは肩をすくめる。
そこには先ほどまで「イヤダ」を連呼していた魚人の姿もない。ただ少し焦げた痕が中央に残っているだけだ。
「綺麗さっぱりだな」
「最初っからこれで解決じゃないですか!」
「でも面白かっただろう?」
「全然。もう釣りはしませんからね!」
「それは残念」
オスカーが手を差し伸べると、不服顔の魔女はその手を取る。
これくらいは二人にとっては事件のうちにも入らない日常で、ちょっとした休日の一つなのだ。