双頭の蛇 05のおまけ

mudan tensai genkin desu -yuki

気がつくと彼女の視線はどこか別の方へと向いている。
自分には絶対向けない柔らかな笑顔で誰かの姿を追っている。
それが、砦に入ったばかりの少年に向けられている笑顔なのだとモーラウが気づいたのは彼女を砦に連れてきてから一月程経った時のことだ。
彼は、窓からじっと少年を見つめている女をふと背後から呼んでみた。
「ティナさん」
「何ですか」
「いえ、特に用はないです」
「用もないのに呼ばないでください」
彼女は軽く彼を睨むと部屋から出て行ってしまう。少年のところにでも行ったのだろう。それを留める権限は彼にはなかった。
むしろ去り際に向けられた冷視線が嬉しい。モーラウは機嫌よく小躍りしながら仕事をもらう為に自分も部屋を出て行ったのだった。

初めて会った時のことは覚えていない。多分、記憶操作をされたのだと思う。
ただ彼女を愛人だと思い込んで砦に伴って連れて来た。だが日を重ねるごとに「何かがおかしいな」と違和感が重なっていく。
それが積もりきったある日、彼はそのことを直接愛人に問い質したのだ。
「貴方、暗示に耐性が出来ちゃったんですね」
ティナはあっさりとそう言うと、自分が彼の愛人ではないことを認めた。魔法でそう思わせていただけなのだと。
その上でもっと強烈な暗示をかけようとする彼女を留めると、モーラウは「今のままでいい」と頼み込んだのである。

彼は、強い女性が好きだった。
もっと言うならば、強い女性に悪し様に言われることが好きだった。
しかし貴族であり、普段傲岸不遜に振舞っている以上そんな性癖を明らかにすることはできない。
その為彼は本来の女性の好みを内心だけに留めざるをえなく、そして秘すれば秘するほどに苛々が募り、また平民にきつくあたって女性には避けられるとい うわけの分からない悪循環に陥っていた。
けれど今は非常に充実した生活を送れている。それもこれも、対外的には彼の愛人となっている彼女のおかげだ。
彼女に冷ややかな言葉を浴びせられると気分は晴れ晴れとして、何でもできるような気になってくる。
そうなると仕事も積極的にやろうとさえ思えてくるのだが、いかんせん気分はよくても彼は能がないので砦自体の益までにはさほど繋がらなかった。

その翌日、引き受けるだけは引き受けた山のような仕事を持って、彼は自室に戻ってきた。
最近は貴族特有の嫌味がなくなり性格が丸くなったものの、無能な彼に砦の文官たちは優しくない。
むしろ厄介払いとして過去の記録の整理をあたえるくらいだ。だが、彼は仕事の軽重さえよく分からない人間だった。
帳簿の束を机に置くと、彼は部屋の隅にティナの姿を見出して目を丸くする。
彼女は珍しいことに鏡を見て嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「どうかしたんですか、ティナさん」
「首飾りをもらったんです」
「ああ、なるほど」
彼女の白い首を飾る装飾品は、モーラウからすれば宝石の一つもついていない飾り気のないものだ。
だがそれがどんな宝石よりも彼女にとって価値があるものであることは、彼にでも分かる。
少女のように浮き立つ彼女の姿に、彼も自然と嬉しくなって頭を掻いた。
「いいなぁ。僕にも見せてください」
「嫌です」
「むしろください」
「何言ってるんですか? 窓から放り投げますよ?」
本当に放り投げられそうなそっけない言葉にモーラウはにやにや笑いで書類の中に顔を埋める。
ティナは振り返ってその光景を気持ち悪そうに一瞥すると、手元に帳簿の一冊を転移させた。
「また色々仕事もらってきたんですか?」
「僕もお役に立とうと思いまして」
「貴方は何もしない事が一番役に立ちますよ」
「いやぁ。嬉しいなぁ」
会話は通じているが、意思の疎通はまったくできていない。
ティナは帳簿の中身をぱらぱらと見てしまうと「気分がいいんで、今日は私がやってあげます」と肩をすくめた。
「そんな! 僕もお手伝いしますよ!」
「むしろどっか行っててください。無能だから」
「もっと言ってください」
「出てけ無能」

文官としてモーラウに支払われている給金。それは結論から言えば、見かねて時折手を出すティナの仕事に支払われている金額でもある。
こうして彼なら一ヶ月ほどかかるだろうと見積もられて押し付けられた帳簿の整理は一日で綺麗に整えられ、翌日またモーラウは「何か仕事する」と言いながら砦を歩き回って迷惑がられることになったのだ。