日常の騒ぎ のおまけ

mudan tensai genkin desu -yuki

姉の結婚話に大人気なくも父の肩を持ってから約一年。
彼女と同じ立場に自分が立ってから、ウィルは激しくその時のことを後悔した。
姉は色んな意味で頭の上がらない怖い人間である。
彼女はまずウィルの王妃になるであろうクリスティネに何かをするということはないが、その分ウィル自身に意趣返しをしてくる可能性は否定しきれない。少し不安そうなクリスティネを伴って城の奥宮にある広間に入った時、ウィルはどんな戦闘よりも緊張して既に部屋にいた姉弟や両親の表情に視線をめぐらせたものだ。
しかし予想には反して、というか予想通り、姉は何も言ってこない。
王女として育てられたクリスティネはカデスと比べて百倍は常識的かつ好感の持てる挨拶を述べて祝福の言葉を受け、その後の話はどちらかと言えば実務的なものに移り変わっていった。
一通り打ち合わせを済ませて、ウィルは安堵の息をつく。
彼の視線が父の膝の上で丸くなっている猫を捉えると、黒い子猫はまるで人間くさい仕草で片目を瞑って見せたのだった。

クリスティネが「彼女」に出会ったのは王妃となって約一年半後、懐妊して数ヶ月が経った時のことだ。
典医の診察によって腹の子が安定していることが分かり、ある程度は動いた方がいいと言われて彼女は城の中を散歩することが日課になっていた。
ファルサス城は非常に広い。彼女もまだ立ち入ったことがない場所があるくらいだ。
その際たるものは城の奥宮で、王の父親が暮らしているそこにクリスティネが普段立ち入ることはほとんどない。
一方オスカーの方はたまに城に現れて国や息子たち、そして彼女の様子を確認していく。
本人たちに言うと不思議そうな顔をされるとは分かっていたが、彼女は夫とその父はよく似ていると思っていた。
王としては申し分ないにもかかわらず、私人としてはどこか子供っぽさが抜けきらない。
似たようなことをルイスに注意されているのを見てしまうと、つい笑い出さずにはいられなかった。

その日彼女は奥宮にさしかかる庭の敷地内にある林を歩いていた。
高く上っている太陽は木漏れ日として彼女の周囲を照らし、風が心地よくドレスの裾をくすぐっていく。
供もつけないで出歩いていることをウィルが知れば心配することは間違いなかったが、すぐに戻るつもりでいたのだ。
クリスティネは庭の雑木林をゆっくりと歩いていく。蒸し暑さに額の汗を拭うと、林の切れ間から遠くに庭が見えることに気づいて首を傾げた。
いつの間にか結構奥まで来てしまっていたらしい。城の奥宮の中庭にあたる場所は、円状に十二の石の台座が置かれていた。
そしてその中の一つ、一番手前にある台座の上に黒い子猫が丸くなって眠っている。
それが時々オスカーが連れている猫だと気づいたクリスティネは庭に出て猫の傍まで歩み寄った。
「猫ちゃん……日向ぼっこ?」
不思議なことにこの猫は一年以上が経っても子猫のままだ。もともとこの大きさの猫なのだろうか。
「猫」はクリスティネの呼びかけに反応してゆっくりと顔を上げる。闇色の瞳が彼女を見上げた。
「ねむい」
「あ、起こして御免なさい」
反射的に謝ると猫は大きく欠伸をする。
その様子をじっと見つめて……………………もう一度目が合ったクリスティネと猫はまじまじと見つめあってしまった。
「しゃ、しゃべってる?」
「あう。しまった」
「ね、ねねね猫が!」
「猫ですにゃん」
思わず悲鳴を上げかけたクリスティネはしかし、すんでのことろでそれを飲み込んだ。
それは小さな黒猫が「私はオスカーの精霊ですよ」と付け加えたからだ。
精霊のことならば勿論彼女も知っている。そしてオスカーがトゥルダールから伝わる精霊とは別の精霊を使役していることも。
アスと名乗る猫は「あまり一人で出歩いては駄目ですよ」と注意すると城に戻るクリスティネと並んで歩き始めた。
何だか相手が猫のせいか、それとも不思議と話しやすい空気のせいか、彼女がぽつぽつと子供や自分のことでいつもは飲み込んでいる不安をもらすと、アスは「いざとなってみれば、慌しくしているうちに乗り越えられたりするものです。周囲に相談すればいいですよ」と助言してくれる。穏やかな女の声は聞いているだけで人を安心させる響きを持っていた。 クリスティネは木の根を飛び越える猫を抱き上げると、庭園の林を抜け出る。
「クリスティネ!」
彼女の名を叫んで走り寄ってきたのは執務室で仕事をしているはずの夫だ。
「心配した」「どこに行ったかと思った」「あちこち探し回った」と重ねるウィルに彼女は謝りながらも心温かくなるものを感じる。
アスの言う通り、何も心配することはないのだ。きっとうまくいく。
そう思って小さな黒い猫を抱きしめようとしたクリスティネはその時になって腕の中に何もいないことに気づいて―――― しきりに首を傾げることになったのだった。