mudan tensai genkin desu -yuki
「あれ」
遠くからでも兄の声はよく響く。ルイスは手にいっぱいの書類を持ったまま振り返った。
見ると廊下の向こうからウィルが全力で走ってくる。何だというのか、反射的に魔法で弾きたくなるのを何とか堪えて彼は兄がすぐ前までやって来るのを待った。
「髪、切ったのか!?」
「切りました。鬱陶しいので」
「切っちゃったの!?」
「見て分かりませんか」
「ええーえーえー綺麗だったのに……」
王は異母弟の髪型変更に真剣にがっかりしている。そう言われても元々伸ばすつもりがあったわけではなく、忙しくて伸びてしまっただけだ。
乾かすのも面倒だし本人は短い方が楽だというのに何故こんな顔をされるのか。ルイスは溜息を一つついた。
「男の髪が綺麗でもさして意味はないでしょう。長いのがいいならご自分の髪を伸ばしてください」
「俺は似合わないよ」
「知りません」
「残念だなー。あ、次は切らないで」
「嫌です」
二十年近く変わりばえのしない攻防を繰り返して、兄は残念そうな顔で去っていった。「さっさと執務に戻ってください」と追い返したのだ。
ルイスは短くなった髪を無意識に指で確かめてしまう。今日は朝から、ウィルと似たりよったりの反応を示す人間ばかりで疲れていた。
何故彼らが自分の髪を惜しむのかは分かる。姉と違い、母親の髪色を継いだのはルイスしかいないからだ。
その彼女はもう城のどこにもいない。先日彼女の夫と共に何処へともなく姿を消している。
厳密には死んだのではないと彼は知っているが、もう会うことのない両親だ。死んだと思った方がよいだろう。
「まったくもう……髪くらい切らせろ」
普段冷静沈着というか、冷徹で知られる宰相の呟きは誰にも届くことはない。
ルイスはぶつぶつ文句を言いながら書類を抱えて自分の仕事へと戻る。
だが、内心の呟きとは別に、彼はその後しばらく髪を切らぬまま放置することになった。
後で切る、後で切ると思いながら背にかかるまでになってしまった髪を彼が切るのは、八歳年下の娘と結婚することになったその準備の時のことなのである。
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