軌跡の詩

mudan tensai genkin desu -yuki

「これでお別れですね」
腐食した内臓を抱え、死の間際にある主人にそう告げられた時、パミラは溢れる涙を堪えることができなかった。
両手で顔を覆い悲嘆の声を漏らす。
何故こんな終わり方をせねばならないのか。
400年の生を経て、ようやく幸福な居場所を得たはずの人であったのに。
彼女が王妃として過ごしたのはたった4年。
その間どれだけ彼女が王に愛されていたかパミラはよく知っているが、それでも今までの彼女の孤独に釣り合う程充分な時間があったとは思えなかった。
白いドレスを纏った彼女は花嫁のようにも死地への旅路を行く人間のようにも見える。
早朝から集まった臣下たちはその姿に言葉にならない感慨を抱いた。
パミラは涙を拭い顔を上げる。もう別れの時なのだ。よく彼女の顔を見なければ……。
けれどそう思えば思う程、溢れてくる涙で視界は滲んだ。
隣に立つレナートが彼女の為に転移門を開く。彼女自身はもう満足に魔法が使えない為だ。
彼女は門を前に彼ら一人一人を見つめた。別れを前に全員の顔を目に焼き付けるように。
そして最後にパミラを見て―――― 鮮やかに笑った。
「今までありがとう……。幸せになってくださいね」
「ティナーシャ様……っ!」
彼女の美しい貌には何の恐れも悲しみも見出せない。
ただ少しだけ淋しそうで……その微笑を浮かべたまま門の向こうへと消えた。
ひどく非現実的な、唐突過ぎる別れ。
自分のものではない誰かの嗚咽を聞きながら、パミラはまるで自分もまた終わってしまったかのような思いに崩れ落ちたのだった。

決心は既についていた。
だから何の躊躇もなく彼女は荷物をまとめる。
彼女のことをよく知らない魔法士たちは、精霊術士である彼女が城を去ることに抵抗を示したが、王自身と魔法士長であるクムがそれら反対意見を押さえ込んだ。
多くない荷物を持つとパミラは部屋を出る。王を含め皆への挨拶は既に昨日済ませていた。
扉を閉めて振り返ったところで、待っていたのかたまたま通りがかったのか、魔法書を抱え込んだレナートと出くわす。
彼はパミラの姿を一瞥して頷いた。
「もう行くのか」
「ええ……。あまり長居はしたくないの。ティナーシャ様がおられない以上ここは私の居場所ではないから……」
「連絡先を教えていくといい」
同じ主人に仕えていた男の飾り気のない言葉にパミラは苦笑する。
彼女は口頭で転移座標を教えると「私の生まれた村」と付け足した。
だが、この座標を彼が使うことはないだろうとも彼女は思っている。もう終わってしまったのだ。今後話すようなこともないだろう。
パミラは会釈をして彼の横をすりぬけかけて―――― 不意に沸き起こる感情に足を止めた。
これで最後だからという思いがあったのかもしれない。他に誰にも言えないことだとも。
だから彼女は少しだけ迷って……結局誰にも言わなかったことを吐露した。
「本当は、見たくないのよ。
 ……ティナーシャ様はお世継ぎを生まれなかった。
 だからいずれ、別の女性が妃としてこの城に来るでしょう? 私はそれを見たくない。
 あの方は幸せでいられなかったのになんて思ってティナーシャ様の記憶を汚したくないの」
「ああ」
「ただそれだけ。今まで世話になったわね。ありがとう」
涙声を隠す為ぶっきらぼうに言って、パミラは再び歩き出した。
背後で男の声が響く。
「女王陛下は幸せになれと仰ったぞ」
彼女は答えない。
分かりきったことだ。主人の言葉を忘れるはずがない。
けれど今は、応えられそうになかった。
新しい生を見つけられるかどうかも分からない。幸福は既にあり、そしてもう失われてしまったものなのだから。

突然飛び出していった娘が5年を経て突然戻ってきた時も、パミラの両親は彼女を責めたり問い質しはしなかった。
もともと鷹揚な親なのだ。最初タァイーリから独立した魔法国家に行くと言った時はさすがに難色を示したが、その後ファルサスでティナーシャに仕えるようになっ たと手紙を送ったところ「頑張りなさい」と短いながらも温かい返事が返ってきた。
会わない間に若干老け込んだような気もする両親は喜んで彼女を迎える。
いつも掃除されていたのであろう部屋は出て行った時のままだった。
「何か足りないものがあったら自分で買いに行きなさいよ」
「お母さん」
笑顔を作って、礼を言おうとして、しかしパミラはそこで止まってしまった。今まで飲み込んできた種々の感情が、反動のように溢れ出てきて喉を塞いだのだ。
黙って涙を流し始める娘を母親はじっと見つめる。
「ファルサスは楽しかった?」
「…………うん」
「女王陛下は? お優しかった?」
「とても…………魔法も沢山、教えてもらった。私のこと、とても大事にしてくださったのよ……」
「そう。よかったわね」
「うん」
ティナーシャは幸せだと言っていた。
あの短い時が何よりも幸福だったのだと。
だからそれは、彼女が失われてしまった今でも変質することはない。
曇りなく笑う彼女の姿は、確かにパミラの記憶の中で息づいている。誰も変えることの出来ない真実だ。
その記憶に、幸福にせめて少しでも近づけるように、パミラは流れ落ちる涙を拭って微笑む。
そうしていつか、「幸せに」と言ってくれた主君の言葉に報いることができればいいと、そう思った。

村で過ごす時間は、不思議なほどにゆっくりとしたものだった。
魔法で農作物を作る父の手伝いをし、母の代わりに遠くの町に買出しに行くだけの生活。
けれどそれは温かく安らかな時間で……パミラは村に戻って一年後、木の剪定を生業としている幼馴染のもとに嫁いだ。
昔から兄妹のような関係だった相手との夫婦生活は、照れくさくはあったが居心地は悪くなかった。
むしろいつも微笑んでいられるような、そんな暮らしで、ティナーシャが彼女に望んだ幸福はこれなのかもしれないと思う。
結婚によって魔法を使えなくなったことも、始めは違和感があったがすぐに慣れた。
もともとこの村は精霊術士が生まれる割合が多く、そして婚姻によってそうでなくなることも当然とされていたのだ。
穏やかな生活においていつの間にか四年の時が過ぎる。
そうして彼女の唯一の主君のことがかけがえのない思い出となった頃、けれど村に一人の男が現れた。
久しぶりに見る男の顔を見てパミラは少なからず驚く。
彼は、もう二度と会うことはないだろうと思い別れてきた、魔女に使える魔法士だった。

「ティナーシャ様が生きておられた」
男の簡潔な言葉にパミラはお茶のポットを取り落としそうになった。
そのままカップに注ぐことも忘れ、テーブルに両手をつく。
「本当!? お元気でらっしゃるの? 今までどこで……」
「ガンドナの魔族のもとにいた。匿われていたと言ってもいいかもしれない。
 女王陛下はご不在であった間にご息女を生まれてたんだ。ファルサスの……陛下の御子だ」
―――― ティナーシャが実は生きている。
それは何度夢に見たか分からない、彼女の儚い希望だった。
しかし、今はもう夢ではない。嘘をつくような男ではないのだ。
ならばこれは現実で……そして、彼女には娘が生まれている。
パミラは今すぐ駆け出したいような気分に駆られて震える手を拳に握った。
レナートはかつての同僚の様子を見て、だが困ったように口を結ぶ。
「ただな、あの方は記憶を失っておられる。50年分くらいが真っ白だ。
 当然俺のことも、そして陛下のことも覚えておられない。おまけに天敵の陛下とは目下冷戦中だ」
「記憶が……ない?」
「ああ」
喜びに水をさされるような現実にパミラはさすがに愕然とする。
彼女がティナーシャと過ごした日々は人の一生と比べれば、ましてや魔女の生きてきた年月と比べれば決して長いものではない。
けれどそこにはかけがえのない日々が詰まっていたのだ。それがもはや主君の中にはないという事実はパミラの上に重くのしかかった。
だが、それでも――――
「どうする? 城に戻るならそれも可能だ。陛下からフィストリア様の面倒を見て欲しいと言付かっている」
「フィストリア、様?」
「ティナーシャ様のご息女だ。今4歳。母君にそっくりだぞ」
知らぬ間に生まれていたという王女の存在が、名前を知ったことで急に形を取った気がした。
パミラは小さく息を飲んで、しかし一番気になっていることを尋ねる。
「……それで、ティナーシャ様は?」
「塔に戻られるらしい。もう城には戻られないかもしれないな」
レナートの言葉は、一度失われたものはもとには戻らないと、そう言っているようにも思えた。パミラは少しだけ表情を曇らせる。
ティナーシャはあれほど愛していたファルサス王のもとには帰らない。そして城にはパミラが会いたくないと思っていた王の新しい妻がいる。
けれど……それでも彼女が生きていたのなら。
比類なき女王にもう一度会える可能性があるのなら。
パミラは握った拳に力を込めた。決意が、生まれる。
「戻るわ。城に」
「そうか」
「ああ、でも待って。夫や、両親に相談しないと」
「そうだな。相談してそれから決めればいい。俺か、シルヴィアにでも繋げば話は通じる」
レナートはそう言って立ち上がると、お茶も飲まず来た時と同様、唐突に帰っていった。
その夜パミラは夫に相談を持ちかける。
6年前の女王との出会いから始まる長い思い出話と、これからのことを。
嫌な顔をされるかもしれないとも思った。離縁も覚悟した。
しかし彼女の夫は穏やかに笑って―――― 「私もファルサスに行ってみたいと、少し思っていたよ」と言ってくれたのだ。

もしティナーシャが全てを知ったのなら、パミラの人生を左右してしまったことに罪悪感を覚えるのかもしれない。
けれど、人と人との出会いはだからこそ貴いのだと、彼女は思う。
喜びだけではなく悲しみだけでもなく、全てを内包した時間を共有させてくれることが嬉しいのだ。
主人によって変化を迎える人生で構わない。それが本望だ。
だから彼女は誇りを持って胸を張る。
この時代に生まれた自分でよかったと、そのことに感謝をしながら。

庭師の夫と共に城へと戻ったパミラは、12年後に王妃が亡くなった後も一生涯王家に仕え続けた。
トゥルダールの歴史を継ぐ精霊術士は、最後の女王を追ってファルサス城でその生涯を終えたのだ。
彼女の墓標は城の中庭の片隅、魔女が植えた薔薇園の中にある。
赤く咲き誇る花々の中、ひっそりと据えられた白い石。
そこに人々はいつまでも変わらぬ忠誠を見る。魔女と共に生きた一人の女の人生を。
城に仕える者たちの間で永く語り継がれることになるそれは、確かな幸福の軌跡であった。