心臓に刻む楔 のおまけ

mudan tensai genkin desu -yuki

「よし、そろそろ結婚するか」
「脈絡のない寝言言ってないでくださいよ。契約期間が過ぎたら永眠させますよ?」
「なら、あと八ヶ月もないじゃないか。すぐに式を挙げないと子供が間に合わない」
「人の話を都合よく曲解するな!」
近くにあった水晶球を投げつけると、男は笑いながら難なくそれを受け止める。
まったく腹立たしいことだが反射神経において、この男は彼女を凌駕しているのだ。
ティナーシャは舌打を一つしてお茶を口に含んだ。斜め向かいに座る男は下ろされた彼女の髪を一房取って引いている。
執務室の午後、休憩時間をお茶を飲んで過ごすこの国の次期王は、守護者たる魔女を楽しそうに見つめていた。
「大体魔女を王妃にしようとか正気じゃないですよ。血の巡りがよくなるよう逆さにして振ってあげましょうか?」
「精霊術士なら純潔でなくなれば普通の魔法士くらいになるんじゃないか? ちょっと試してみよう」
「寄るな! 触るな! 変態!」
伸ばされた手を避けて、ティナーシャは慌てて宙に浮いた。
まったく彼は本気か冗談か分からないことを平気で口にするのだ。
彼女は空中で逆さに浮くと男をねめつける。
「純潔じゃなくなってもあまり変わりませんよ。せいぜい他の魔女と同じくらいになるだけです」
「そうか? 俺は別にそれでも構わないが。ちゃんと守ってやるぞ」
平然と言う男に彼女は頬をふくらませた。
大陸最強の魔女に「守ってやる」とは大言壮語にも程がある。
過去何人かそう口にした男はいたが、彼らはいずれも彼女の力を見誤っていたとしか思えないのだ。
けれど、この男はそうではないはずだ。彼女の異質さをよく知っている。
にもかかわらずそんなことを言うのは何故なのだろう。一度は彼女に勝ったという自信がそうさせるのだろうか。
ティナーシャは彼の意図を掴みかねて困惑をあらわにした。
そんな彼女をオスカーは笑って手招く。
「下りて来い。頭を撫でてやるから」
「猫じゃないですよ」
「当たり前だ。猫なら呼ばない」
「変な人ですね、まったく」
言いながらも彼女は結局オスカーの膝の上に下りた。予告通り頭を撫でられながら目を閉じる。
「何と言われても私は人と生きる気はありません。勿論、貴方も例外じゃないです。
 今は私に拘っていても―――― きっとその内、嫌になります」
沈み込む己の言葉は束の間彼女に過去を見せる。
人の好意に甘えていたばかりの幼い頃の自分をティナーシャは苦く思い出した。
あの時自分は、何も見えていなかったのだ。
ただ何もかもに必死で、そしてその影できっと「彼」は歪んでしまったのだろう。
「彼」に全てを謝りたいとは思わない。彼女の存在が「彼」を苦しめたのだとしても「彼」のしたことは決して許されるべきことではないのだから。
けれど、自然とうつむきがちになっていた彼女の顎をオスカーは捕らえて上を向かせる。
「俺を見くびるな。嫌にならないから安心しろ」
「安心できません。変わらない人間なんていませんよ」
彼はまだ二十歳だ。若く、自信に溢れ、多くのことが見えていない。
いつか彼女を忌む日が来るだろう。力を利用しようともがき、絶望する日が来る。
そうしてかつて「彼」も狂ったのだ。

自嘲ぎみに苦笑する魔女をオスカーは何か言いたげに見やっていたが、不意に微笑するとまた彼女の頭を撫でた。
「何だ、そんなことを心配してるのか。そりゃ多少は変わるかもしれんが、嫌にはならないと思うぞ。
 何なら誓約書でも書くか?」
「誓約書って」
「それくらいの覚悟はとっくに出来てるし、それでもお前がいい。望むなら何百年でも付き合ってやるぞ」
ティナーシャはさすがに絶句して男を見上げた。
まったく何を言っているのだろう。本当に正気かどうか逆さにしてみたい。
人の精神はそれ程強いものではないと彼女はよく知っている。
―――― それとも彼は本当にそれに耐えられるくらい強いのだろうか。
ティナーシャはいつの間にか彼の手を握っている自分に気づくと、憮然とした表情になった。目をそらしてうそぶく。
「それよりもう求婚しませんって誓約書を書いてくださいよ」
「断る」
「こんなんがあと八ヶ月も続くのか!」
「人生起伏があった方が面白いだろう?」
何だかどっと疲れた魔女は、けれど少しだけほっとして彼の胸によりかかる。
彼女がずっと探していた男と再会する時は、もうまもなくに迫っていた。