心臓に刻む楔

mudan tensai genkin desu -yuki

初めての出会いは彼女の記憶には残っていない。彼女はおそらく、ほんの赤子であったのだから。
だから彼女にとって「初めて」という意識はない。彼は、気づいた時から傍にいた。まるで家族のように。

「ラナク、お前の花嫁が来た」
まだ幼い男の子は父親にそう言われて目を丸くした。
「花嫁」という単語が自分にとって何を指すのかは分かっている。それはつまり、彼と同じ「王になるかもしれない」子供が来たということだろう。
いつか来るのだとはわかっていた。ずっとそう聞かされてきたのだから。
友達になれるだろうか。この窮屈な生活を分かち合える子なのだろうか。
不安と期待を混ぜこぜに持った若干五歳のラナクは「見てみるか?」と言われて頷いた。父親の後をついて長い廊下を歩いていく。
到着した部屋にいたのは、まだほんの小さな赤ん坊だった。白く柔らかな布に包まれ寝台に眠っている。
父親の隣から覗き込んだラナクは赤ん坊というのは随分長い睫毛をしているのものだな、と感心したものだ。
「ティナーシャ・アス・メイヤーという名だ。メイヤー家の……精霊術士の子だな」
「これが?」
「人間だ人間。お前の五つ下」
見ると赤ん坊の手首にはいくつもの鎖が巻かれている。これら全てが封飾具であるとラナクが気づいたのはもっと後になってからだ。
父王は満足げに赤ん坊を見下ろしながら頷く。
「王族として名をつけねばならんな。そうだな……アエテルナにするか。
 お前の妻になるまではこの娘はアエテルナだ」
「呼びにくいよ」
「なら愛称で呼べ」
こうして彼は、彼女のことを「アイティ」と呼ぶようになった。
そして、この名が彼の生涯を呪縛するものになるとは、この時誰にも予想だに出来なかったのである。

彼女は二歳を越えると、遊びに来るラナクの後をついて回り、まるで兄のように懐いた。
拙い言葉で彼の名を呼びながら小さな手を伸ばす。
実力主義のこの国において、今まで王子でありながら厳しく諭され山のような授業を受けるばかりだったラナクには、逆に自分が守り教える立場に立ったということ に少なくない喜びがあった。いつも通り彼女の部屋を訪ね、駆け寄ってきたところを長椅子の隣に座らせると、 魔法書を開いて習ったばかりのことを説明してやる。
「アイティ、魔法を使うにはいつも落ち着いていなければならないんだよ」
「おちついて」
「そう。じゃないと魔力が上手く動かない。構成が乱れる。魔法士は冷静であることがまず求められるんだ」
「ラナク、とりさん」
まるで繋がっていない会話に彼は憮然とした。彼女は窓の外を指差して「とりさん、とりさん」と連呼している。
まだ幼い彼女には何の授業もない。ただ与えられた離宮で日がな一日遊んで暮らしているだけだ。
その上自分の話も聞かないとあっては、ラナクはつい不公平さに口をとがらせてしまう。
「アイティは本当に僕の言うことをきかないな。僕のお嫁さんになった時にどうするんだい」
「およめさん?」
「そうだよ。僕たちは結婚するって決まってるんだ」
彼女は黒い目をまたたかせる。
初めて会った時は不思議に小さな生き物だった彼女は、今でも小さくはあるが実に愛らしい人間の子供へと成長していた。
女官たちが「さぞお美しく成長されるでしょう」と噂しているのを彼は時々耳に挟む。それを聞くと自分も悪い気はしなかった。
彼女は彼に向って両手を真っ直ぐ伸ばしてくる。
「ラナク、だっこ」
まったく、幼児の興味はころころと移り変わるのだ。
ラナクは諦めて彼女を抱き上げると、小さな手が指し示すまま窓に向って歩き出した。彼女は窓に両手をついて空を見上げる。
ひとしきり空を見て満足したのか、「おりる」という彼女を下ろしたラナクが次の授業の為に帰ろうとすると、彼女は急にしゃくりあげて泣き出した。
控えていた女官が慌てて駆けてくる。女官に抱き上げられながらも彼女はラナクに向かって手を伸ばした。
「ラナク。あそんで」
「また来るよ、アイティ」
「やだ。いっちゃやだ」
「ごめんね」
耳につく泣き声に背を向けて彼は城への廊下を戻る。
生まれた時からここに連れられてきた彼女には家族はいない。強いて言うなら彼だけが彼女の家族なのだろう。
だから遊びに行くと彼女は満面の笑顔になり、立ち去る時はいつも泣いている。
その姿は、わずらしさを感じないわけではなかったが、ひどく可哀想だった。
他の子はまだ母親と共にいる子も多いというのに、彼女はそうではないのだ。一線を置いて面倒を見る女官たちの他には顔を合わせる人間もいない。
だから、いつか彼女が離宮から出て、自分の傍にいるようになったら淋しい思いをさせたくない、とラナクは思う。
魔法大国であるトゥルダールの頂点に立つ者にのしかかる重圧も二人で分けるのならば、きっと何とか越えていけるはずだ。
守らなければならない大事な娘。それが彼女であると、この時の彼は間違いなくそう信じていた。

「アイティ、水に入っちゃ危ないよ」
「でも、あそこに綺麗な石があるの」
彼女は白い指で水の中を指した。言われれば確かに湖の浅い場所に透明な丸い石が転がっているのが見て取れる。
ラナクは笑って五歳になった彼女の頭を撫でた。
「あれは月晶石っていうんだ。ここの湖にしかない。折角だから取ってあげるよ」
「ほんと!?」
目に見えて喜色を浮かべる彼女にラナクは吹き出す。彼は詠唱して指先に魔力を集めると、水中に見える石を指差した。
石はゆっくりと浮かび上がり、彼の手の中に吸い込まれる。ラナクはそれを隣に立つ彼女へと手渡した。
「ほら、あげる」
「あ、ありがとう!」
普段離宮に閉じこもっている彼女は、外に遊びに来れたことが嬉しいのか、それとも綺麗な石を貰った事が嬉しいのか、花のような笑顔を見せる。
そろそろ制御訓練が始まったとは聞くが、あちこちにつけられた封飾具はそのままであるし、彼女自身はまだ意識しては魔法は使えない。
ただ、三年前と比べて格段に聞き分けはよくなっていたし、泣くこともほとんどなくなった。ほとんど手のかからない、大人しい子だ。
だがそれでも時々一人でいる時、彼女が淋しそうな目をしていることをラナクは知っている。その分彼を見つけると嬉しそうに微笑むことも。
まだ自分は十歳だ。即位は出来ない。彼女を連れ出してはやれない。
今できることと言ったら、空いた時間に会いに行ってやることと、石を取ってやることくらいだ。無力さに自分でも嫌になってしまう。
けれど彼女は本当にそれだけのことを喜んでくれるから、彼もまた目まぐるしい毎日を頑張れるのかもしれなかった。

それから―――― 彼女はたった数年で恐ろしい程美しい少女へと成長した。
あっという間の月日に十七歳のラナクは時折振り返って苦笑する。
彼自身はそろそろ結婚というものが現実的に感じられる年齢だが、彼女の方はまだ十二歳だ。少なくともあと二-三年は待たなければならない。
魔法だけではなく国政について学ぶ時間も増えたラナクは、かつてはひどく遠いものとして感じていた将来がいつの間にかすぐ傍に迫っていることを重みを以って実 感していた。最近は外交姿勢を巡って長老たちの意見も割れていると聞く。また彼らの上に立つ父が、 肉体的にも徐々に疲労してきていることに彼は薄々気づいていた。 そしてそのせいか、彼を取り巻く教師たちに焦りの色が見え出してきていることも。
「この構成が読み解けないのですか?」
呆れを隠さない魔法士長の言葉にラナクは沈黙を保った。
トゥルダールにおいて王とはすなわちもっとも強力な魔法を操れる者のことだ。
そうなる為にはあまりにも力不足だと言われているようで彼は表情を消す。
充分すぎるくらいの努力はしてきたつもりだ。それでもまだ足りないというのなら時間をくれ、と言いたくなる。
だがそんなことをわめいても失笑を買うだけだと分かっていた彼は、魔法士長の視線を受けるに留まっていた。
けれど……普段なら彼の自覚を問う説教が続くはずの間は、代わりに深い溜息に取って代わられる。
ラナクは内心目を丸くして、どこか諦めたような老人の苦々しい顔を見つめた。
「まぁ……よろしいでしょう。殿下には殿下の役割がおありですから」
授業は魔法士長がそう言って席を立ったことで終わる。ラナクは訝しさに首を捻った。
一体何だというのだろう。不出来な弟子に苛立ちでもしたのだろうか。彼はおかしさを感じながらも自分も講義室を後にする。
だが、変化は魔法士長だけには留まらなかった。
この日を境に、今まで嫌になるほど厳しかった教師たちが、程度の差こそあれ態度を緩くし始めたのだ。
彼は唐突な変化に不審を感じたが、その答は女官たちの噂話によってすぐに得られることとなる。
つまり―――― 彼は暗黙の内に、次期王候補とはみなされなくなったのだという現実を。

扉を開けた時、彼女は広間の真ん中に一人で立っていた。その周囲には膨大かつ緻密な構成が広がっている。
天窓から差し込む光の下、張り巡らされた魔力の糸は凝った意匠を描くレースのように複雑だった。
ラナクは息を止めてただ魔力の現れを見つめる。
―――― なんという美しさか……。
魔法技術の極みとも言えるその構成。魔法を美しいと思ったのはこれが初めてだった。
彼は熱くなる胸に唇を噛む。
彼女もまた厳しい講義を受けてきたのだと、努力してきたのだと、よく知っている。
それでも、その条件は自分も同じことで…………にもかかわらず開いたこの差こそが、越えられない才能と呼ばれるものなのだろうか。
彼女は構成を消し、新たに組むことを何度か繰り返している。
だがそれが素早く、そして美しくあればあるほど、ラナクの中では狂いそうなほどの憧憬と嫉妬が膨らんでいった。
次の玉座につくのは彼女だと皆が思っている。五歳の年齢差があっても実力の違いは歴然なのだと。
ラナクは笑い出したい気分にさえ捕らわれて、彼女を見つめた。
彼女は何度目かの構成を作り変えた時、ようやくラナクに気づいたのか飛び上がって驚く。
「ラナク!」
「……やぁ、アイティ」
彼の声に滲む苦渋が分からないのは、彼女がまだ子供であるせいか、それとも「優れた者」であるからか。
全身を覆う虚しさにラナクは唇だけで笑った。
「教師をみんな追い出したんだってね」
「追い出したわけじゃないの。もう何も教えられないからって……。また、一人になっちゃった」
彼女はそうして、淋しそうに微笑む。
本当は彼女は、魔法の才など欲しくはなかったのかもしれない。ただ平凡に親のもとで育ち、普通の暮らしをしたかったのかもしれない。
だがそうは思っても、ラナクは羨望を抑えることが出来なかった。
要らない才ならば自分にこそ宿ればよかったのだ。そうすれば、彼女を守ってやれた……。こんな屈辱など感じる必要はなかったのだ。
ラナクは彼女の為にと気負っていた自分を思い出し、冷笑を浮かべる。
まるで道化師のようだ。自分よりも強大な存在をどうやって守ってやれるのか。
全ては空虚で、無意味な努力だったのだろう。教師たちは彼女と彼を比べて影で嘲笑っていたに違いない。
彼は重い息を吐き出して、次期女王たる少女を見下ろした。
「自分で学べることだっていっぱいあるだろう? 役に立たない講義に時間を取られるよりましだ」
「そうかな」
「そうだよ。アイティには力があるんだから」
ラナクはそれだけ言うと彼女の視線に耐えられなくなって、「用事があるから」と踵を返す。
背後から幼い声が「また会いに来てくれる?」と追いかけてきた。
無邪気に彼を頼ってくるその声に、今は返事を返すことが出来ない。ラナクは聞こえなかった振りをして廊下を進んでいく。
自分だけが知らぬうちに全てに置いていかれたような、今まで築き上げてきたもの何もかもを失ってしまったような、そんな気がしていた。

指を動かすだけで体内の狂った魔力に吐き気がした。ラナクはそれでも足を引きずって見つけた洞窟の中に歩み入る。
―――― 失敗した。皆、失われた。
力も、国も、そして彼女も自分も、一晩によって全て損なわれてしまったのだ。
彼は残る力を振り絞って洞窟の行き止まりまでたどりつくと、岩壁に背を預けて目を閉じた。苦笑いと共に呟きが零れる。
「アイティ……まったく最後まで君はままならない……」
予定通りであれば、彼女は触媒として、彼の力の一部として取り込まれる予定だったのである。
妻になるはずだった少女だ。自分の為にいる女だ。
禁呪によって二人の関係が少し違えられたとしても、一生一緒であることには変わりない。
だが、結局は召喚された予想以上の強大な力に、彼を含めて携わった魔法士たちは制御することもできなかった。
彼の父親もろとも国は滅びただろう。大怪我をした彼女も死んだはずだ。
何もかもが失われ、そしてやみくもに転移して逃げ出した彼も今、弱りきった体を横たえる羽目になっている。
「…………アイティ………僕は、死ぬのか?……」
その言葉は予想以上の重みを以って彼の中に響いた。
今自分が死ねば…………トゥルダールが擁していた魔法技術の全てもまた失われる。
数千人の魔法士たちが紡いできた歴史が彼一人の手によってかき消されてしまうのだ。
ラナクは弱弱しい笑みを浮かべて今は亡き国の人々のことを思い出す。
なくなってしまう。忘れられてしまう。自分がここで諦めてしまえば。
あの国の功罪は書物の中でしか語られなくなってしまうのだ。
―――― それは、できない。
彼は生き残って、伝えなければいけない。
トゥルダールは戦乱溢れるこの時代において、禁呪への対抗勢力でもあったのだ。
それが失われれば各国の野心を煽る。魔法が戦争に拍車をかけ、時代の更なる混迷を招くだろう。
だが、きっとあの国の民の誰一人、そんなことは望んではいなかった。そして勿論禁呪に手を伸ばした彼自身も……。
だから、国を滅ぼすほどに育ってしまった、胸に渦巻く焦燥も憎悪も憧憬も苦悩もみな、彼に残る技術と共に伝えなければならないのだ。
ラナクは両手を広げる。
逆流する胃液を意志の力だけで押さえ込みながら、休眠する為の構成を組んだ。
少し歪んだ構成。だが今はこれ以上は望めない。この構成に身を任せるしかない。
―――― これが、彼女の残した復讐だろうか。
彼は自嘲しながら構成に魔力を通す。
どれくらいの期間眠ることになるのか。けれど目が覚めた時、彼女はきっといない。世界のどこにも。
もうあの笑顔を見ることはできない。それは彼自身が損ねてしまったものなのだから。
「アイティ……アエテルナ…………」
起きた時には絶望と同義の孤独がまっているのだろう。
彼は世界に一人、為すべきことをせねばならない。
だがこれは、禁呪によって滅びた国の最後の王であり、そして滅ぼしてしまった罪人でもある彼の ―――― ただ一つ残る義務であるのだ。

途切れ途切れの覚醒をもたらす眠りは、彼から記憶を、そして感情を奪っていった。
断裂した人格を抱えて目覚めた彼はしかし、失われたはずの少女と再会することになる。
何故魔法の眠りにつき、時を越えたのか。変質した彼には分からない。思い出せない。
だが、再会した彼女の少し淋しそうな微笑を見る度、これできっとよかったのだと……そんな気がして、彼は不思議と安堵する。
幼い頃に誓った「彼女の傍にいる」という約束を、四百年を越えても彼は確かに守ることができたのだから。

title by argh