適した距離 のおまけ

mudan tensai genkin desu -yuki

「悔しい悔しいいいい!!」
「まぁまぁ。いいじゃない」
「だって! 絶対勝ったと思ったのに!」
廊下を行く二人の魔法士の女のうち、シルヴィアは怒りと悔しさに顔を真っ赤にしており、パミラは彼女を宥めに回っていた。
昼間ドアンに逃げられたのが相当頭に来ているらしい。どこか幼さの残る彼女は頬を膨らませて声を上げた。
「ご結婚は無理とか言ったくせに! 大人しく負けを認めなさいよっての!」
「別に実際は何も賭けていなかったんだし、怒っても仕方ないわ」
「勝ったら新しい構成の人体実験でもさせてやろうと思ってたの!」
「…………無効になってよかったわね」
二人は目的の部屋の前に到着する。二ヵ月後には王妃になるであろう魔女の部屋だ。
パミラが扉を叩くと入室を許可する返事が返ってきた。シルヴィアは部屋に飛び込むなり、大声を上げる。
「ティナーシャ様! ご結婚を早めてください! 契約期間内に!」
「断る! というかもう結婚やめようかな!」
「え」
見ると部屋の主人は湯上りなのか濡れ髪のままだった。体も濡れたままで白い長衣を羽織っているだけである。
それだけではなく、彼女はおかしなことに机の上に置かれた本に向って必死で何かの構成を注いでいた。装丁から察するに古い貴重な本の類であろう。
シルヴィアはとまどいがちに事の次第を問うた。
「あの、ティナーシャ様……一体何が……」
「風呂で空中に本を浮かせて読んでたんですが、オスカーが邪魔をして……湯船に本、落っことしちゃったんですよ。もう最悪、あの男」
「それは」
「ところどころ読めなくなっちゃったし……結婚を早めるなんて絶対嫌です! 無期延期したいくらい!」
きりきりと湯気を立てて怒る魔女に二人は顔を見合わせた。
自分以上に怒っている存在を目の当たりにしたせいかシルヴィアは気を抜かれてしまっており、慣れているのかパミラは小さく溜息をつく。
魔女に仕える女は平然と布を取って彼女の背後に行くと、髪の雫をとりながら乾かし始めた。
「浴室で本をお読みにならないでください。ティナーシャ様にも責任はありますわ」
「うー」
「こんなことで婚約破棄など仰っていてはきりがありません。大体もう諸国に招待状を出してしまったのですよ」
「……すみません」
魔女は見る間に萎れると、諦めたのか注ぎ続けていた構成を消した。入り口のところで困ったままのシルヴィアを苦笑して手招く。
「ごめんなさい。今、着替えちゃいますね」
「あ、お手伝いします!」
シルヴィアは慌てて駆け寄ると髪を乾かすパミラとは別に、ドレスを用意し魔女の濡れた服を脱がせた。
白い裸身はじっとりと湿っている。本を抱えて湯船を飛び出してきたのだろう、床にも濡れたあとがあった。
「ところで何で結婚を早めるんですか? 王の婚姻ですから色々準備があるみたいですけど」
「それは……」
問われてシルヴィアは言いにくそうに口を開きかける。さっきはつい言ってしまったが、現実問題として早めることなど不可能だ。
だが聞かれた以上理由を言わなければならないだろう。怒られるとしたら賭けを言い出したドアンだろうか。
しかし、どこから話し出したものか、迷いながらも彼女が説明しようとしたまさにその時、前触れもなく部屋の扉が開かれた。
「ティナーシャ 人を外に強制転移させるな」
どこに飛ばされたのか、風呂のお湯がかかったのか、何故か濡れ髪の王は裸のままの魔女を見て「ふむ?」と首を傾げる。
その顔に厚い本が投げつけられた。
「何も聞かずに入ってくるな! 変態!」
「人を外に放り出しておいて何を言う」
顔の前で本を受け止めたオスカーは、白々と返すと濡れているそれを手元で開いてみる。
数百年前の魔法書は、既に中身の半分以上が水を吸ってふやけてしまっていた。
「本を弁償してください!」
「どうせなら本を放り出せばよかったんじゃないか?」
「よくないです! いいから仕事してくださいよ!」
「お前を娶る為の仕事がたてこんでるから気分転換に来たんだがな」
口論は終わるどころか発展する気配である。パミラはほとんど乾いた黒髪に手早く櫛を通すと、硬直しているシルヴィアを促して部屋を出た。
廊下をしばらく行ってからシルヴィアはパミラを見上げる。
「あの、あれは放っておいていいの?」
「いつものことだから」
ほとんど悟ったような口調にシルヴィアは不安ながらも頷く。
彼女は一度廊下の奥を振り返って見ると、賭けが無効になってもよいから、無事に結婚されますように、と心の中で祈ったのだった。