適した距離

mudan tensai genkin desu -yuki

物事を真実に近く把握するには適した距離がある。
遠すぎては何も見えず、近すぎては全体が把握できない。それは何につけても共通だ。
そしてこの件に関しては、自分がもっとも真実を把握できている人間だとレナートは思っていた。
ファルサスに来て一月。
元々城にいた人間は自分たちが仕える王寄りの視点を持っているが為に把握できておらず、逆に唯一彼と主人を同じくするパミラは主人に近すぎてよく見えていない 。
だから多分確信を持って分かっているのは彼一人なのだろう。
彼の仕える女王が、王からの求婚を断り続けながらも本当は深く王のことを愛しているのだということを。

「賭け?」
「そう。お前も乗らないか? 契約終了までに陛下とティナーシャ様が結婚されるかどうか」
実に楽しげに話しかけてきた男にレナートは軽く苦笑した。
ファルサス城には五十人あまりの魔法士が所属しているが、その中でもレナートは既にこの男の名をはっきりと記憶している。
なにせ他の魔法士たちがクスクル側で戦争に参加していたと知れている彼を遠巻きにするのに対し、この男や数少ない他の人間たちはまったく気にもせずに話しかけ てくるのだ。
次期魔法士長として有望らしいドアンという男は人の悪い笑顔を見せながら手持ちの紙を彼に見せてきた。
「今のところ二対三で、結婚される方が優勢。ここは無理な方に賭けて均等にしてもらいたいところだな」
「負けが明らかなほうには賭けられない。結婚されるだろう」
「差が広がったじゃないか」
ドアンは声だけは残念そうに、しかしにやにや笑いながらレナートの票を書き足す。その表情にレナートは呆れを隠せなかった。
主君の結婚話を賭けの対象にしているというのも酷い話だが、まったく分かっていないにも程がある。
どうせ魔女を追い続ける主君の姿ばかりが印象に強くて、彼女が何を考えているかが見えていないのだろう。
ティナーシャは王を愛している。それはもう明らかなことだ。
王と離れていた時はあれ程冷然と女王としての存在感をかもし出していた彼女が、彼の前では普通の女性のように柔らかく笑っている。
時にはほんの少女にさえ見えるのは、彼に心を許しているからに他ならない。
あとは彼女が自分の気持ちを自覚するのを待つだけの問題で、結婚が無理ということはまずないだろうとレナートは思っていた。
「じゃ、結果を楽しみに」と笑いながら去っていくドアンを見送ると、彼は研究室へと入っていく。
この国に来て驚いたのはやはり魔法士の待遇のタァイーリとの違いであろう。
城の魔法士は山のような蔵書を自由に閲覧でき、毎日開かれる講義を受け、自分の研究に時間を費やすことが出来る。
戦う為の魔法を特化して身に着けてきた彼は、ここに来て一気に世界が広がるような気分だった。その為今はほとんどの時間を構成の研究にあてている。
一緒にファルサスに来たパミラの方はほぼティナーシャに付き従っていて講義にも研究にも姿を見せないが、それは彼女が精霊術士である為だろう。
彼女に魔法を教えられるのはティナーシャしかいない。主人の傍にいた方が得るものは大きいはずだ。
そして、彼はティナーシャに常についてはいない。
だがそれは決して忠誠が薄いというわけではなく、自分のような距離感を保つ人間も時には有用になるであろうと彼が思っているからだった。

「一度焼きつかせてしまった陣の修正は困難です。物理的に全てを削り取るか、上からもっと強力な力で焼きつかせ直すかしかありません。
 なので重要な陣を焼く時は失敗しないようにあらかじめ紙などに大体の構成図を書いておくと安心ですね」
ティナーシャは言いながら簡単な構成図を空中に魔力で書き出した。
城などによく使われる大規模転移陣。大抵は五人ほどの魔法士で書き出され、数ヶ月に一度整備が行われるものだ。
陣の外側が例外なく円状なのはその部分が外界に漂う自然の魔力を集める為の構成だからであり、これがなければ術者の手を離れて動作することは不可能になってし まう。魔女は指で空中の構成図をなぞりながらいくつかの要所を説明した。
「逆に言えば陣の破壊は魔法的に破壊するより物理的な破壊の方が遥かに楽です。ちょっとでも陣を崩せば正しく作動しなくなりますから。
 外周の構成が欠ければ動作自体切れますしね。これが一番手っ取り早いです。
 ただ、それだと修復される可能性もありますし、他の部分を削っておかしな効果が生まれても困るので、やっぱり安心なのは全破壊ですね」
魔女が指を鳴らすと構成図はかききえる。
彼女の特別講義を受けている魔法士たちはそれぞれの神妙な表情になると、手元の紙に要所を書き写した。
王の守護者である魔女について城での評判は賛否両論である。
魔女である彼女を口には出さなくともあからさまに避ける人間もいれば、魔女といっても人間なのだと認識している人間もいる。
ティナーシャ自身は自分の立場を弁えているのか請われなければ表に出ない。
普段は自室か王の傍か、いずれにせよあまり多くの人の目が集まるところには出て来ていなかった。
だからこの講義も彼女と親しい魔法士たちが希望して開かれたもので、席に座っているのは十人もいない。
その中の一人、ドアンが手を挙げて質問する。
「精霊術士の方が書かれる陣や紋様は大分形式が違いますよね。円じゃないのもありますし。あれはどうなってるんですか」
「ああ。基本構成が違うんですよ。精霊魔法はそれ自体が自然の魔力を介在させるものですから、ものによっては魔力を集める部分の構成が不要です」
「それはやはり術者が力を失っても関係ないのですか?」
「そうですね。純潔を失っても変わりません。
 また現存している古代の遺跡などで、今なお作動している紋様のほとんどは精霊魔法のものです。
 昔は魔法技術はそれ程進んではいませんでしたから……今の魔法技術の基礎のほとんどは暗黒時代に形成されたものですね」
ティナーシャの話は魔法技術研究の歴史へと移り変わっていく。
かつて魔法大国トゥルダールで次期女王候補に為された講義と同じ内容の話を彼らは感慨深く聞き入って、この日の講義は終わったのだった。

レナートが中庭で地面を見下ろしているドアンを見つけたのはその日の夕方だった。
あんなところで何をしているのかと思って足を止めると、ドアンは彼に気づいて手招きしてくる。
近寄ってみると地面には簡単な短距離転移の転移陣が焼き付けられていた。レナートはそれを見てまず唖然としてしまう。
「こんなところに書いていいのか?」
「後で地面を掘り起こすさ。よくやってる」
「……それでここだけ芝がないのか……」
見ると周囲は土がむき出しになっており、今までも何度かやられたのかぼこぼこである。
それを陣を書く部分だけ適当に足でならしたらしい。靴あとがびっしりついていた。
レナートは「ほら、どうだ?」と言われて転移陣を再度よく見る。確かにそれは、構成が既存のものとは大分違っていた。
まず一目で違うのは外周が六角形というところである。レナートは革新的というにはあまりにも一足飛びの構成にしゃがみこんで目を凝らした。
「何だこれ。変な形してる」
「変とか言うな。今日の講義を元に改良してみた。魔力を集める為の構成を各所に混ぜ込んで円をなくしてみたんだ」
「何故、六角形」
「描き易かった。他に意味はない」
「…………」
確かに技術的には非常に高度だ。正直レナートも目を瞠る思いである。
だが、才能の無駄遣いではないかという感もまた否めなかった。円が六角形になったからなんだと言うのだろう。
せめて四角なら廊下にすっぽりはまりそうなのに、と考える自分も馬鹿らしくなってレナートは立ち上がった。
「で? すごいがこれをどう発展させるんだ」
「いや外側の形を自由に変えられれば個性が主張できるかと思った」
「要らんだろう、個性は」
「城の装飾と合うかなと」
「別に合わなくても……」
そんなことの為にここまで大掛かりな構成の組み換えを試したのだろうか。
レナートは馬鹿馬鹿しさに頭痛がしそうになってかぶりを振った。そこでドアンは気が済んだのかようやくいつものにやっとした笑顔を見せる。
「本当は形が違えば行き先の区別がしやすいかと思った」
「最初からそう言え」
なるほど、それならば納得の改良である。
魔法士ならばともかく普通の人間からは転移陣が何処に繋がっているのか陣を見ただけでは分からないのだ。
その為壁や床に注意書きがされていることがほとんどだが、これならばより分かりやすいだろう。
改めて構成を注視するレナートにドアンは笑いかける。
「それにこれなら外周が欠けても作動し続けるだろう? 整備が頻繁に出来ないところに向いてると思わないか?」
「……確かにな」
ふざけているように見えても、確かにこの男には次期魔法士長と言われる程の実力と見識があるらしい。
レナートは胡散臭いものを見るような意識を正して目の前の男を見る。ドアンは理解を得られたと分かると自分で描いた転移陣を指差した。
「これは城の裏庭に出るようにしてある。が、まだ試していない。そこであれを押すのを手伝ってくれ」
「あれ?」
指差された方向を見ると、すぐ後ろに子供の姿をかたどった彫像が置かれている。
背丈も本当の子供と同じくらいで、土の上に無造作に横倒しになっていた。
「どうした、あれは」
「アルス将軍に頼んで持ってきてもらった。あちこち弄りすぎていまいち自信がないからな。人間を入れるのは怖い」
「…………」
一体どういう転移陣だ、と思ったが、その辺を追及していては魔法技術に進歩はないのかもしれない。というかそう思った方が気持ちが楽だ。
レナートは無言でドアンと共に彫像を転移陣に押し込む。構成が発動する振動音と共に像はその場から消え去った。
ドアンは真顔でぽんと手を叩く。
「よし。とりあえず移動したな」
「ちゃんと裏庭に出てるのか?」
「それは今から見に行こう」
「俺もなのか?」
自信があるのかないのか分からない。妙に面白がっているような男に並んでレナートは歩き出す。
結局実験台となった彫像は裏庭には移動していたが、バラバラに砕け散っており、出来かけの構成は一から見直しを余儀なくされた。
その場の散々な状況に生きた人間が入らなくてよかったと、レナートはつくづく怖くなったものである。
彼からその話を聞いたティナーシャはひとしきり爆笑して「何でもやってみるといいですよ」と複雑な顔をしている彼に言った。
ドアンも一応クムに注意はされていたが、王自身は人を入れるよりはいいと納得していたようである。
つまりは彫像を粉々にしてしまってもそれなりの理由があれば許されるということなのだろうか。
いまいちよくは分からなかったが、ファルサスとは結局とても自由で―――― 研究意欲を重んじてくれる国なのだと、レナートは実感したのだった。

「賭けは私たちの勝ちよね!」
嬉しそうに目を輝かせているシルヴィアを他の魔法士たちは苦笑で見やった。
理由は簡単である。二ヵ月後の王と魔女の結婚が正式に発表されたからだ。
ティナーシャが城に来てから約一年と二ヶ月。王の守護者として在ったそれらの時間を経て魔女はついに王妃となる。
長かったような、慌しかったせいであっというまのような期間にそれぞれは一瞬思いを馳せた。
シルヴィアの目の前で魔法書を広げていたドアンは余裕の笑みを見せる。
「いや、賭けは無効だろう?」
「何で! ご結婚されるじゃない!」
「予定では式は二ヵ月後だ。だがティナーシャ様の契約はあと一月半で切れると知ってるか? つまりはご成婚は契約終了期間後だ。
 賭けは契約期間についてのことだったから、勝ちも負けもない。無効だよ」
「え、え、そうだった……?」
「そうだよ」
自信たっぷりの男の声にシルヴィアは混乱したようだった。援護を求めて周囲の人間を見るが、みな賭けの具体的な条件を覚えていなかったらしい。
パミラが苦笑して首を傾げるのを見て、シルヴィアは「そんなぁ」とがっかりした声を上げた。
彼女はみるからに肩を落とすと談話室を出て行く。おそらく講義の時間なのだろう。それを機に他の人間もそれぞれの仕事に戻っていった。
残ったレナートは、まだここで読書を続けるらしきドアンを見やって眉を顰める。
「本当にそういう条件だったのか?」
「と、言っただろう?」
「俺にはな」
元もとの賭けの条件がどんなものだったかレナートは聞いていない。その場に居合わせていなかったのだ。
ただこの男ならそれくらいの引っ掛けは平気でやりそうである。訝しげな目をするレナートにドアンは魔法書に視線を落としたまま笑った。
「ティナーシャ様が陛下のことをお好きなのは知ってたけどな。
 あの方は魔女である自分がこの国の表に出ることを強く忌避していたから、陛下に何と言われてもご結婚まではされないと思ってたよ」
「……魔女」
「そう。まぁ何があったかは分からないがめでたいことだ」
レナートは、まるで初めて聞く事実のように男の言葉を聞いていた。
ティナーシャが魔女であることは勿論知っている。彼女が自分のその素性を好ましいものとは思っていないことも。
だがそれ以上に彼女はレナートにとって「女王」であったのだ。
誰に何を言われようと引け目を感じることなど微塵もない。トゥルダールの正統な女王である。
だがそれはあくまでも彼自身の意識であって―――― ティナーシャがそれで愛する男を諦めるほど自らを忌んでいるとは、彼は思ってもみなかったのだ。
今まで主人とはちょうどよい距離感を保てていると確信していた。自分が全てを把握しきれていると。
けれど本当は、彼はやはり彼女の部分しか見えていなかったのかもしれない。
ティナーシャは確かに誰にも弱音を吐いたりはしないのだから。―――― 夫となるであろうただ一人を除いて。

ドアンは顔を上げると、立ち尽くしているレナートを見て唇の端を上げてみせる。
「俺の感想も正しいかどうかは分からないさ。俺はお前みたいにティナーシャ様の鈍いところを後押しとかは出来ないし、正直あの方は怖い。
 でもみな主君の為にそれぞれの立ち位置と役割がある。そうだろう?」
「……そうだな」
だから皆が必要なのだと、そう言われた気がしてレナートは頷いた。
彼はファルサスの魔法士でもあるがそれ以上にティナーシャの魔法士だ。
そして彼の主君たる女は、女王で魔女で、長い旅の果てにもうすぐ王妃となる。
ささやかな偶然から始まった道行きがどこへ続き、どこで終わるのかはまだ分からない。
だがその旅の終わる最後の一瞬まで彼女に心から仕えようと、レナートは改めて深く心に刻み付けた。
彼女の全てを理解することは出来ない。全てを支えることも。
けれど、この距離からだからこそ分かることも出来ることもあるのだと、そう強く信じて。