ひしゃげた肉体

mudan tensai genkin desu -yuki

「過去視ってのは生得能力だな。珍しいが前例がないわけじゃない。俺も何人か知ってる」
「本当!? 化け物じゃないの?」
「アホか。単なる特技だろ。出来る人間が極端に少ないだけで精霊術士みたいなもんだ」
頭を叩かれながらそう言われたのは、出会ってまもなくの頃だったと記憶している。
それまで誰もが彼女を翳から謗り、避け、いないものとしてよそよそしく扱っていたにもかかわらず、突然現れた男は全てを一蹴して彼女の隣に立った。
名目上は後見人として。その実は彼女に散々自分の面倒を見させながら、彼はあっという間に彼女の生活を塗り替えてしまったのだ。
思い返せばもう15年もの付き合いだ。
初めて彼と会った時ほんの10歳の子供でしかなかった彼女は、今や大輪の花と見紛うばかりの美しい女性になった。
保護者であった男は、数年前に恋人になり……そして、今は一週間前から行方が知れない。
「あの人は殺しても死にませんから。心配無用ですよ」
と子供をあやしながら平然と言っていた魔女も、今日はつい一時間ほど前から出かけていった。
彼女の屋敷に居侯している魔女が、まだ3歳の娘を置いて出かけるなど非常に珍しい事態だ。
愛らしい子供は精霊たちが面倒を見ているようだが、一体母親はどこへ行ったというのだろう。
屋敷を出る直前会いに来た魔女は、普段は着ない魔法着を纏い、開いた胸元には花にも見える赤い痣があった。
確か前はあんな痣はなかったはずだ。魔法の紋様か何かだろうか。まったくもって彼女も謎が多い。
オーレリアは鏡を見て正装した自分を確認すると一つ、溜息をついた。
今日は城でちょっとした貴族たちの舞踏会が開かれる。勿論その予定はトラヴィスも知っていた。
なのに彼はまだ帰って来ていない。今までこういった場でオーレリア一人にすることなど一度もなかったのにどうしてしまったのだろう。
一人で城に行く事が怖いわけではない。自分はもう子供でも少女でもない。
ただ彼のことが心配で、彼がいないことが不安だった。
オーレリアはもう一つ溜息を重ねると、自室を出た。
いつも隣を行く男も、彼女を見送ってくれる魔女も今はいない。
それでも屋敷を出る時、精霊の男に手をひかれた女の子が玄関まで来て「いてらっしゃー」と手を振ってくれた。
オーレリアは微笑んで手を振り返す。
城はすぐそこだ。たとえ彼女が未だに一部の貴族に残る偏見から異端児として遠巻きにされていても、いつも通りに振舞えばいい。
彼女は姿勢を正して馬車に乗り込む。この時オーレリアは25歳。ガンドナの女王として即位する4ヶ月前のことである。

ガンドナは3年前に前王の死とともに、王の息子が即位し後を継いでいた。
オーレリアにとっては亡き父親が現在の王の従兄弟にあたる。王の姉は昨年他国へと嫁いでいた為、現在次期王位継承者はオーレリアとなっていた。
それも原因の一つなのだろうとは思うが、9歳年上である王、ヴェルノはオーレリアを非常に疎んじている。
彼女が視界に入れば顔を背け、儀礼上の挨拶以上のことは口にしない。
いい年にもかかわらず子供じみた仕打ちに彼女も思うところはあるのだが、実際のところそれ以上に子供じみた男が彼女にはついていて、しょっちゅうヴェルノに嫌 味を振りかけていたのだから無理もないだろうとオーレリアは割り切っていた。勿論彼女が見ているところでのことなら注意し説教するのだが、トラヴィスはそんな へまをする男ではない。彼女のあずかり知らぬところで色々と手を回してしまうのだ。
いつも一緒にいる二人はガンドナの上流階級において様々な意味で有名であり―――― その為、今日は彼女一人しかいないことに少なくない好奇の視線が集まること となった。
オーレリアは最低限の挨拶をすますと広間から外の回廊に出て深呼吸をする。酒は飲んでいないのだが、人に酔ったかもしれない。少し冷えた夜気が心地よかった。
人の笑いさざめく声から離れて彼女は回廊を歩き出す。城壁の向こうに街の光が揺らぐのが見えた。
トラヴィスなどはたまに「その内国をとってやる」などと言うが、笑えない冗談も大概にして欲しいと彼女は思っている。
王位につきたいなどと思ったことはない。権力には責任が伴うもので、それが個人の望みとは相反することもままあることをオーレリアはよく知っている。
現に彼女の屋敷に娘と共に住んでいる魔女も、彼女の記憶から失われた王も、王であるという為に少なくない喪失を味わうことになったのだ。
自分に果たしてそこまでの覚悟があるかと問われたらオーレリアは答に窮する。
もし自分が彼らと同様に大切なものを手放さなければならない時がくるとしたら、果たしてそれに耐えられるのだろうか。
権力よりも財よりも、彼が変わらず傍にいてくれることの方が大事だと再三そう言っているのに、トラヴィスにはちっともちゃんと伝わっているように思えない。
そして、まるでそれこそが人と魔族の……越えられない境界を見るようで、彼女は悲しかった。

その声がオーレリアの耳に届いたのは、暗闇が視界のほとんどを支配していた為であったろう。
回廊の手すりにもたれかかって半分目を閉じていた彼女は、微かに男女の言い争う声を聞いたのだ。
オーレリアは顔を上げて声がした方を見やる。回廊のずっと先、城の物見塔の上に人影が見えた。
月光の下でもつれ合う男女は遠すぎる上、暗くて顔は見えないが、なにやら様子がおかしいということは分かる。
彼女は止めにいくべきか衛兵を呼ぶべきか僅かに逡巡した。自分が出てきた広間の方を振り返る。
男の短い悲鳴が空気を裂いて響いたのは、その時だった。
「え?」
オーレリアは慌てて塔を見上げる。
だがそこにはもう男の姿はなく、ただ塔の手すりに寄って下を覗き込んでいる女の影があるだけだった。

オーレリアの判断は早かった。
彼女は塔に向かって駆け出しながら、途中で見回りをしていた兵士を捕まえ共に塔に向かう。
塔へと続く階段に着いた時、彼女は瞳の色に合わせた灰青のドレスを持ち上げると自ら塔の上へと上り始めた。
少なくともここに来るまで誰とも会わなかった。そしてこの階段以外には塔から出る道はない。
オーレリアと兵士の二人は何かに追われているような速度で塔の最上階に到達する。
だが半ば予想していた通り、既に塔の上は無人だった。
オーレリアは上がった息を整えながら、遥か下の地上を覗き込む。つい二分前に顔の分からぬ女がそうしていたように。
月光が雲の切れ間から地上へと差し込む。
何の慈悲もない白さが現実を照らし出す。
黒い地面に横たわる男は、壊れた人形のごとく捻じ曲がった体を二人の視線の前に曝していた。

「どういうことだ! 詳しく説明してもらおう!」
王、ヴェルノの剣幕にオーレリアは閉口する。
普段は目も合わせぬくせに、トラヴィスがいないせいか、この特殊な状況のせいか、彼は勇んで彼女を責め立てていた。
死んだのはルート侯爵といってヴェルノの片腕と言われる壮年の男だった。検死にあたった魔法士曰く、まず墜落死とみて間違いないという。
兵士と共に事件の第一発見者となったオーレリアは人を呼んで事を明るみにしたのだが、見たことを全て話したにもかかわらずヴェルノの追及はやまない。
むしろ彼女を疑っていると思しき態度があちこちに見られて、オーレリアは溜息をかみ殺した。
「わたくしが駆けつけた時には既に侯爵は塔の上にはいらっしゃいませんでした。
 あの時は兵士も一緒でしたとご報告いたしましたが」
「それは聞いている。しかし、侯爵が落ちたところも、女と一緒にいたところもお前しか見ていないのだ、オーレリア。
 信憑性がある話とは言えない。お前が広間を出て何をしていたかも誰も見ていないのだぞ?」
オーレリアは瞳には強い意志を滾らせたまま、しかし分の悪さに押し黙る。
こんな時トラヴィスが隣にいたなら立て板に水で逆にヴェルノをやりこめただろうが、彼女にはそこまでの押しの強さはない。
不器用と言われても自分が思うことを主張するだけだ。
「何故わたくしが、そんな大それたことをせねばならないのでしょう。
 わたくしが怪しいと思われるのは構いませぬが、確かに他に侯爵の死に関わった女性はいるのです。捜査の公正を求めます」
「侯爵がいなくなれば俺の力が削がれると思ったのではないのか?」
オーレリアを敵対者と思っていることを隠しもしない言葉に、彼女は気分の悪さを禁じえなかった。
とんだ被害妄想だ。こうしている間にも犯人の女は遠くに逃げ出してしまっているのかもしれない。
片腕であった侯爵が死んだにもかかわらず、自分のことしか考えていない王に彼女は少なくない疲労感を覚えた。
王は鼻を鳴らしてオーレリアを見下ろす。
「今夜は屋敷に戻ることを禁じる。真相が明らかになるまで城におれ」
「……かしこまりました」
これ以上の反論は無意味と悟ってオーレリアは頭を下げる。
銀髪の小さな後頭部に注がれた男の視線は、冷ややかだけには留まらないどこか陰惨さを帯びたものだった。

オーレリアが通されたのは王族が使う豪奢な部屋ではあったが、扉の外には見張りの衛兵がつき、その態度から言ってどちらかというと軟禁されているに近かった。
ドレスを脱いでもっとあっさりした服に着替えた彼女は寝台に仰向けに横たわる。
トラヴィスはもう屋敷に帰っただろうか。ティナーシャはどうだろう。まさか彼女が幼い娘を置いて外泊するとは思えない。
屋敷にはオーレリアが城に泊まる旨連絡がされるそうだが、王がオーレリアをよく思っていないことを知るあの母子が、それを疑問に感じるであろうことは明らかだっ た。
「もう……どうなるのかな、私」
オーレリアは両腕で目を覆う。本当のことを言っているのに信じてもらえないのだから仕方ない。
こうなっては自ら真犯人を突き出すしかないだろうか。
彼女は自分の灰青の瞳を意識する。今はトラヴィスによって鍵がかけられている両眼は、こういった事態において非常に強力な意味を持つのだ。
異能者である彼女は己の視界に人の過去を映し出す。
普段は見てはならない人の姿を暴いてしまうようで忌避しているこの力も、正体の知れない犯人を突き止めるにはうってつけだろう。
とりあえず封印をはずしてみようか、彼女がそう思った時、入り口の扉が開かれた。

伺いもなく部屋に入ってきたのはヴェルノと城の魔法士と思しき二人組だった。
オーレリアは慌てて立ち上がると王に向かって臣下の礼をする。彼はそれを尊大な仕草で受けた。
ヴェルノは部屋の中央にある長椅子に座るとオーレリアに向かって言い放つ。
「何か申し開きはあるか? オーレリア」
「何のことでございましょう……。わたくしが拝見したことは全て先程申し上げましたが」
ちりちりと何かが彼女の胸の奥を焼く。その正体を掴みかねてオーレリアは手を握った。
顔を強張らせる女をヴェルノは氷の視線で見やる。
「お前は広間を出てルート侯爵と塔で待ち合わせをすると、侯爵を塔から突き落とした。
 その後回廊に戻って兵士を呼び、まるで今見ていたかのように塔に駆けつけた、そうであろう?」
「違います! わたくしは兵士と共に塔に登ったのが最初です!」
「だがお前が見たと言う女はどこにもいなかった。本当にそんな女がいたのなら途中ですれちがったのではないか?」
「それは……」
オーレリアはわずかにかぶりを振る。それは本当だ。塔に登るまで彼女は誰ともすれちがわなかった。
塔の最上階から階段を使って回廊まで降りるのに必要な時間は、おおよそ回廊にいたオーレリアが塔に到達するまでと同じくらいであろう。
ならば女がどうやって消え失せたのか。
王の罪人を見る目から逃れるように視線を彷徨わせた彼女は、その時ようやく自分の考えていることが馬鹿馬鹿しい疑問であることに気づいた。
彼女は目を閉じる。
自分の中にある暗闇を意識する。
精神を研ぎ澄まし、闇の沼の奥底にかけられた封印を捉えた。
今、隣に彼がいないことがとても不安だ。
だがそれ以上に彼が心配で仕方ない。
どこで何をしているのか。無事でいるのか。また戻ってきてくれるのか。意識すれば泣き言があふれ出しそうでオーレリアは怖かった。
きっと言っても仕方のないことだ。トラヴィスは今もどこかにちゃんといるのだろう。そして彼女のことを思ってくれている。
そう信じているからこそ、せめて自分の身くらいは自分で守るつもりだった。
オーレリアは目を開ける。真っ直ぐに相手の目を見返す。
二重になる世界の中、映し出された過去に向かって彼女は指を伸ばした。
「貴女があの時侯爵と一緒にいたのでしょう? 転移して逃げたのですね」
真っ直ぐ指す指。オーレリアの灰青の瞳を見て、魔法士の女はにやりと笑った。

言い当てた犯人。しかしそれはオーレリアの立場を好転させるのではなく、むしろ逆の方向へと追いやった。
彼女は流れ込む過去の映像と、そこに立ち込める悪意に一歩よろめく。
他の誰にも聞こえない声が、今の彼女の耳には聞こえるのだ。
『しかし、魔法軍備増強といっても城にそんな金をつぎこむ予算はないぞ!』
『あるでしょう? 先月の嵐で東部の河の護岸補修に大分予算が取られたはずです』
『あれを損なえば民の信用も損なう! 陛下のお怒りを買うぞ!』
『陛下もご承知のことです。確かに護岸に使ったと……そういうことにして半分ほど予算を回せばよろしいのですわ。
 あなたならば可能でございましょう? これは勅命ですのよ、ルート侯爵』
『―――― 陛下が……だが、それは……』
『ご理解頂けないのなら、それでも構いませんわ。その時は別の命を預かっておりますれば』
女の記憶、そして王の記憶がオーレリアの中で弾ける。
民を犠牲にし軍事力のみに傾倒していこうとする彼らの考えに、オーレリアは表情を険しくした。王に向かって半歩踏み出す。
「何を考えてらっしゃるのです、陛下! 民を蔑ろにし、ただ軍を補強して何が得られるのです!?」
「やはりお前は人の過去を読むか。この化け物め」
王の嫌悪の言葉と同時に左右の魔法士が構成を組んだ。
それを見たオーレリアも慌てて防御の為の構成を組みかけるが、二人の構成はそれより早く完成するとまたたくまにオーレリアに打ち寄せ不可視の糸で全身を締め上 げる。
骨が軋む苦痛に彼女は呻いた。そのまま床に横転する。ヴェルノは感情のない目で彼女を見下ろした。
「侯爵も聞き分けの悪い男であったが、お前を処分する切っ掛けを作ってくれるとは最期も役に立った。
 オーレリア。お前はここで罪人として死んでゆけ」
死の宣告。あまりにも突然すぎる終わりに彼女は声を出すこともできない。
喉に魔法の糸が容赦なく食い込んだ。オーレリアは震える指で床をかきむしる。
「民のことなど後からでもどうとでもできる。今のファルサスには魔女がいない。世継ぎはほんの赤ん坊だ。
 この好機に少し領地を削りとってやる。今を逃す手はないと、愚かなお前でも分かるであろう?」
オーレリアは全身にかかる力に反論できなかった。爪が割れ、血が滲む。
だが言葉にならないだけで、ヴェルノが多大な勘違いをしていることだけは明らかだ。
ファルサスはもともと強国だったのだ。今もそれは変わりない。
ただほんの一時、大陸最強の魔女が王妃として迎えられ、今姿を消しているだけ。その落差にかの国の本来の姿が見えなくなっているだけなのだ。
彼はまるで愚かだ。それは国を衰退へと導くであろう間違った判断だ。
王の過ちは彼一人ではなく、国や民をも傷つけるものになる。
何としてもやめさせなければ……オーレリアは血で染まる指でなおも床をかいた。絡まる糸から逃れようと身もだえする。
しかし彼女の必死の抵抗も何の意味もないように、魔法士たちは薄笑いを浮かべていた。
注がれる魔力が増える。オーレリアは瞬間体を痙攣させた。
―――― 今、ここで死んだら、トラヴィスは後悔するかもしれない。
小さな染みに似た考えが彼女の脳裏をよぎる。
15年間一緒にいて、一度だけ彼女の傍を離れた、そんな夜に彼女が死んでしまったら彼はきっと後悔するだろう。
まるで今までの月日が無になったかのように己を苛む。そうなるであろうことはオーレリアには分かっていた。
だから、死にたくなかった。
彼女は魔力を振り絞る。皮膚を裂き肉に食い込もうとする糸を少しずつ押し返した。女の魔法士が思わず目を瞠る。
束縛が緩んだ喉に空気を通してオーレリアは呟いた。
「……トラヴィス……ここに、きて」
小さすぎる声。部屋の誰にも届かない呼び声。
けれど次の瞬間、彼女の前にはささやかなる声に応えて魔族の王が立っていた。

輝くばかりに眉目秀麗な男は、床の上に横たわる恋人を見下ろして眉を顰めた。
不快極まる男の表情は充分な優美さを越える殺気を纏っている。肌を刺す圧力に部屋の全員が本能的に恐怖した。
「ぼろぼろだ。俺の女が」
「……どこ、いってたの」
「どこだっていいだろう。まったく…………誰を殺そうか」
言葉自体が魔力を帯びていた。
オーレリアの束縛がかき消されると同時に二人の魔法士はその場から跳ね飛ばされる。
それぞれ別方向の壁に叩きつけられた魔法士を振り返ることもできず、ヴェルノはただ硬直して男を見上げていた。
殺されるかもしれない、実に明快なその可能性が男の形を取って目の前に現れたのだ。逆転した形勢に逃げ出したくとも体が動かなかった。
トラヴィスはしかし、王の存在に気づいてもいないように床に膝をつくとオーレリアを抱き上げる。
彼が血のついた白い頬に口付けると、女の体についた全ての傷が消えた。
「また封印が解かれてる。目を離すとすぐこれだ」
「他に、なかったの。陛下を止めないと……」
彼女の言葉にトラヴィスは初めてヴェルノを視界にいれた。残忍な微笑が口元に浮かぶ。
「止める? 殺せばいいのか?」
「駄目。それじゃ駄目」
「愚王は存在自体が罪だ」
二人の会話は耳に入っている。理解も出来ている。だがヴェルノはどうしても動けなかった。
オーレリアについている男が普通の人間ではないことは薄々感づいていた。
何しろこの男は年をとらないのだ。おそらく余程強い魔法士に違いない。
けれど今全身にかかっている威圧は到底人間の放つものとは思えない。もっと底の見えない、重苦しい容赦のない力だ。
まるでそれは絶望で、そして死である。
ヴェルノは何もできぬまま、既にトラヴィスの放つ気にあてられ意識が遠くなりかけていた。
縋るものがない、落ちていくだけの闇に甘くさえある男の声が響く。
「死にたくないというのなら退位しろ。お前に玉座は荷が重い」
「退位……」
「そうだ。―――― まぁお前が自ら退位せずともその内せざるを得なくなるがな。
 お前の金の使い方やくだらん野心を知れば、おのずと人心は離れていく」
ヴェルノは生きる為の空気を求めて喘ぐ。
歪んだ悪夢の中にいるようだ。足元に地面がない。
トラヴィスの声だけが楽しそうにこだまする。王はその言葉を繰り返した。
「退位……退位を……」
鼻を鳴らして笑う声と共に、部屋の中から二人の気配が消える。
しかしヴェルノは一人となってからも呪縛から逃れられず、ただ「退位」と呟き続けた。
一時間後、様子のおかしい王が発見され、熱にうかされたような彼自身の発言からルート侯爵の一件が明るみに出ることになる。
その後正気に戻った王は何とか緘口をしこうとするがそれは失敗し、まもなく彼は本当に退位せざるを得なくなったのだ。

ヴェルノの次に即位した女王は、賢明で視野の広い穏やかな王となった。
だが彼女は一生涯子供を生まず、ただ養子とした縁戚の少年が長じて王座を継ぐと、事実上の夫であった男と共に城都を出て 東の離宮で余生を送ることとなった。
彼女が気まぐれな魔族の王によって人生を変えられた最後の一人となったことは、ほんの数人だけが知る真実である。

title by argh