流転の欠片 のおまけ

mudan tensai genkin desu -yuki

始まりは単なる王女の言葉だったとパミラは認識している。
ファルサス城の吹き抜けの広間の天井を指して、フィストリアが「あの模様が怖い」と言ったのだ。
言われて見上げても別段変わった模様は見えない。ただそこには切り出されよく磨かれた自然石が使われているだけだ。
しかし共にいたティナーシャは同様に天井を指差す。
「ああ、あれですか? 人の顔に見えますよね」
「うん、母様。だからここは嫌」
どこが人の顔に見えるのかパミラは分からなかったが、王女の母親には分かるらしい。
ティナーシャは腕組みをして頷いた。
「じゃ、ちょっと変えちゃいますか。うすーく削っちゃえば見えなくなるかも」
何だか無茶苦茶なことを言っている。
慌てて制止しようとしたパミラの手より早く、王妃は宙に浮かび上がった。高い天井のすぐ下に漂う。
「ティナーシャ様! 危ないです!」
「平気平気。削り屑が落ちると困るんで避けててください」
ティナーシャは白い両手を天井に触れさせる。ハラハラと見守るパミラと、王女の目の前で魔女は手の中に構成を生んだ。
―――― 次の瞬間鈍い音がして天井に大穴が開く。
「あれ?」
異変はそれだけでは済まなかった。
目を丸くしたままバランスを崩し、天井から階下へと落下していく主人を見て、もはや魔法を使えないパミラは絹を裂くような悲鳴を上げたのだった。

「さて、説教の時間だ。覚悟はいいか?」
「うう……いつでもどうぞ」
念のため寝台に移された王妃は、駆けつけてきた夫の前に項垂れた。
何とも申し開きのしようがない。天井に大穴を空けて、自分も大怪我をしかけた原因が「模様を削る為」とは弁解のしようもなかった。
幸いフィストリアが咄嗟に魔法で母親を受け止めたのだが、他にも見ていた文官たちが失神しそうな程慄いていた。
倒れそうなパミラの顔色を見るだに申し訳ないことをしたとティナーシャはつくづく思い知ったのである。
「まず削ろうという発想がおかしい。どこの国にそんな親がいる。怖くないと言いきかせろ」
「仰る通りでございます」
「しかも大穴だ。上階の床にも穴が開いた」
「後で埋めておきます。すみません」
「そう言って穴を広げる気か?」
「うー……何か魔法が上手く使えなかったんですよね」
ティナーシャは自分の両手をじっと見つめた。組んだ構成は普通のものであったのに、注いだ魔力がそれを乗り越えて弾けてしまったのだ。
しきりに首を捻る妻にオスカーは溜息をつく。
「最後にお前には学習能力がない。懐妊しているそうだから今後魔法は使わず安静にしとけ」
「そうですか」
ティナーシャは頷く。
頷いて数秒後にようやく、彼女は「え!?」と驚愕の叫び声を上げた。

記憶を失っていた王妃が戻ってきて数ヵ月後、彼女が懐妊したという話は重臣たちを驚かせたが、すぐにそれは一部の人間を除いて伏せられた。
何しろ彼女は魔女だ。その魔女が産褥期も含めて1年余り弱体化するという話は ファルサスや彼女個人に害意を持つ人間に対して余計な陰謀を煽りかねない。 第1王女の時にはその問題絡みで王妃がファルサスから姿を消すこととなったとあっては、皆、慎重にならざるを得なかった。
「何で孕ますのよ! 私を殺す気!?」
「……何故、お前が死ぬんだ」
ティナーシャから話を聞いて彼女の体を診に来たルクレツィアは、すぐさま王に噛み付いた。
オスカーは理解できないと言った渋面でそれに応える。
「あんたはフィストリアが生まれた時のことを知らないからね! 魔力が暴走してて軽く死ねたわよ」
「そんなだったのか? それは悪かった。じゃあ今度も頼む」
「また私!? ラヴィニア呼びなさいよ! あんたの祖母でしょ!」
「絶縁されてる」
何とも言えないやりとりを寝台の上に座るティナーシャは表情に困って聞いていた。
かつて娘の出産の時は結界の半分以上はトラヴィスが担ってくれていたが、今回彼の協力はないと思っていいだろう。
ただその代わりファルサスにいるということは利点もある。彼女は軽く手を上げて生産性のない二人の口論を留めた。
「私の方は封飾がありますから。生む時の子供の暴走だけ対応すれば何とかなるはずです」
「つってもあんただけ封じたら子供の力に耐え切れないじゃない。出産時は腹の中から弾け飛ぶわよ」
「うわぁ。大惨事。産室が血みどろになりそうですね」
どこか暢気な妻の言葉に王は顔を顰める。
「嫌なことを言うな。別の手段を考えるぞ」
「あんたがとりあげなさいよ。アカーシアの剣士でしょ」
「別に構わんが、剣を抜いて子供を取り上げる人間はいないと思う」
「お願いですからこの人を産室に入れないでくださいよ!」
ますます生産性がなくなる会話に部屋の隅に控えていたパミラは肩を落とす。
まだ半年以上先の話だ。それまでには何とかなるだろうと彼女は棚に上げると、ひとまずは主人の為に果物を取りに部屋を退出したのだった。

暗い水面に魔法の明かりが灯る。
ルクレツィアは辺りを見回して嘆息した。彼女の隣には大きくなった腹を抱えた友人がいる。
今は水面の上に立っている二人だが、魔法を使えないティナーシャはルクレツィアの力によって体を支えられていた。
出産を間近に控え、王妃はこの場所の座標を教え友人に転移門を開いてもらったのだ。
「無言の湖ね……ファルサスって変なものがあるのね」
「内密にお願いします。オスカーも知らないことですから」
「じゃあ何であんたは知ってるのよ」
当然の疑問にティナーシャは苦笑した。彼女は水面にしゃがみこむと手に持っていた空き瓶に湖水を汲み取る。
ルクレツィアは自分も空き瓶を取り寄せ、中身を入れて転移させながらそれを手伝った。
ティナーシャは彼女に湖水を詰めた瓶を手渡すと肩をすくめる。
「―――― 私はですね、実はもう人間じゃないんですよ」
「は? 魔女ってこと?」
「そうじゃなくて。呪具なんです、私」
目を丸くする友人に、ティナーシャは今までのことをざっと説明した。
魂が変質した二人の中で自分だけが覚醒しているということも。
ルクレツィアは無言でそれを聞いていたが、全て聞き終わるとぽつりと聞き返す。
「あんた、それでいいの? ていよく縛られてるじゃない」
「と言われてももうどうしようもありませんから。やれることをやるだけです」
目を閉じて微笑むティナーシャをルクレツィアはじっと見つめる。
永い時を生きてきた魔女。だが全てには終わりがある。少なくとも魔女には自分の終わりを決める権利がある。
だが、ティナーシャにはもうそれがないのだ。
彼女は今までの年月の何倍をこれから戦う為に費やしていかなければならないというのだろう。
先の見えない、想像もつかない道行きにルクレツィアはかける言葉を持ち得なかった。
運命から逸脱した女はけれど、愚かで、そして幸せな顔で笑う。
「一人じゃないから……これでいいんです」
嘘のない声音。
諦観にも似た慈しみ。
これから先、ただ一人の男を頼りとして時を越えていくのであろう友人を思って、ルクレツィアはこの時、数百年ぶりに泣いたのである。

無言の湖の水は煮沸し消毒しても、その効果を失わなかった。
出産までの丸一月湖水を飲み続けたティナーシャは、第一子の時とは異なり母子共にほとんど魔力を外に出さないまま出産を終わらせることができた。
結局二人目の子を取り上げたのもルクレツィアで、しかしそれは彼女自身が希望してのことだった。
「男の子か……これだけの魔力じゃ体に影響するかもね。封印する?」
「不味そうだったら機会を見て。でもまずは本人に期待しましょう。きっといい魔法士になれますよ」
ティナーシャは生まれたばかりの子を抱いて幸福そうな笑顔を見せる。
人間そのものの友人の表情にルクレツィアは少し安堵すると、外で待っている男にとりあえずの嫌味を言う為に産室の扉に向かったのだった。