流転の欠片

mudan tensai genkin desu -yuki

彼女が屋敷を訪れた時、その屋敷の客人である友人は庭の木陰で転寝をしていた。
投げ出された白い足だけを見るとまるで昔のままの気がする。ルクレツィアは彼女の隣に座った。
幼い頃に禁呪によって魔女になった彼女は、肉体的な成長にもその影響が出ているのか肉体年齢が進んでも細い少女のような体つきであった。
だが今の彼女のお腹は大きく丸く膨らんでいる。ルクレツィアはしみじみと友人の腹部を布越しに眺めた。
時折動いて見えるのは彼女のせいではなく、腹の中にいる存在のせいであろう。ルクレツィアは今も動いた箇所に手を伸ばす。
その時、女はうっすらと目を開けた。闇色の瞳がルクレツィアを見上げる。
「あれ……?」
「外で寝ないのよ。無用心ね」
「…………うん」
寝起きが悪いティナーシャは小さく欠伸をして上体を起こした。
ひどく動きにくそうな、のったりとした動作なのは寝起きの為だけではないだろう。
ぼんやりとしている彼女にルクレツィアは白い目を向ける。
「魔法も使えないのに。中に居なさい」
「屋敷はトラヴィスの結界があるから……精霊もいますし天気いいです」
「まぁいいけど。それにしてもいつ見てもぎょっとするわね。そのお腹。あんたに似合わない」
「私も未だに鏡を見るとぎょっとしますよ……」
ルクレツィアは先に立ち上がるとティナーシャに手を貸して立たせる。二人の魔女は庭に繋がる屋敷の扉へと向かった。
歩きながら何度も頭を振って覚醒しようと努力する友人を、閉ざされた森の魔女は呆れた目で見やる。
ここ数十年分の記憶をなくしている彼女は、自分が父親の分からない子供を身篭っていることに最初は驚いたようだったが、今は気にもしていない。
あれだけルクレツィアが勧めても伴侶も子供も要らないと言っていたのに、ティナーシャはあっさりと自分の血を継ぐ存在を受け入れたのだ。
そのことがルクレツィアには嬉しくもあったが意外でもある。それともこれが母親になるということなのだろうか。
子供を生んだことのない彼女には分からない。魔女の中で出産を経験したことがあるのは、沈黙の魔女ラヴィニアだけだ。
そしてラヴィニアはティナーシャの腹の子の曾祖母に当たる。しかし当のティナーシャだけはそれを知らなかった。
「あと一月もないわね。出産の時には相当結界を張らないと不味いわよ。あんたか、その子が暴走するかもしれないから」
「うわぁ。前代未聞」
「まったくよ。分かったらもうちょっと体に気をつけなさい」
「何か眠くて仕方ないんですよね。半日以上寝ている気がします」
ティナーシャはそう言うとまた欠伸をした。まるで半分夢の中を歩いているようだ。
ずっと昔からこの妹分が体調を崩すと面倒を見ているルクレツィアは、その後自室に戻った彼女の体を軽く診ると自分の家に戻った。
後にフィストリアと名づけられる、二人の魔女の血を継いだ新しい魔女が生まれるのは、この二週間後のことである。

400年に渡る腐れ縁。それは五番目の魔女が魔女となってからまもなく始まった。
初めてルクレツィアが彼女を見つけたのは大陸に五つあった魔法湖の一つ、今で言うセザル東部にあったものの真ん中でである。
トゥルダールが滅びたことと突然巨大な魔法湖なるものが出来たことに関連性を見出そうとする者は少数いたが、真実に到達できた者は誰もいなかった。
そんな時ルクレツィアは、森の中に魔法湖ができたことで植物の生態がどうなったのか様子を見に行き、そこで倒れている少女に出会ったのだ。
痩せ細った体にぼろぼろの服を着た少女は魔法湖の中でまるで死んでいるかのようだった。
だがそうではないことはルクレツィアには分かる。
魔女である自分を超える魔力、ありえないほどの力が少女の中から感じ取れるのだ。
―――― もしかしたらこの少女は死にたいのかもしれない。
ルクレツィアは何となくそう思った。でなければこんなところで何の荷物も持たず一人で行き倒れているだろうか。
死にたい人間を助ける義理はない。自分の生くらい好きにすればいい。
日頃そう思っていたルクレツィアは、しかし結局少女を自分の家へと連れ帰った。
多分単なる気まぐれだ。
だが……或いは彼女はこう思っていたのかもしれない。
魔女となった少女に何かを与えられる存在がいるとしたら、それはやはり魔女である自分しかいないのだと。

「起きた? 調子はどう?」
ルクレツィアは出産後、ようやく目を覚ました友人に声をかけた。
ティナーシャは左右を見回してすぐ横の小さな寝台に自分の子が寝かされているのを見つけてほっと安堵する。
「平気です。ありがとうございます。貴女は平気ですか?」
「何とか」
出産は散々なものだった。
魔女と最上位魔族と12人の上位魔族でこれ以上ない程の結界を産室に張っていなければ、少なくとも屋敷は軽く吹き飛んでいただろう。
赤子を取り上げたのはルクレツィアだが、それは裏を返せば女性でティナーシャに近づける程力がある者が彼女しかいなかったということでもある。
構成を持たない魔力波が押し寄せる中、それらを相殺して赤子を取り上げた彼女は、二人目があるとしたら次はラヴィニアに任せてやると心に決めたものだ。
ただそれでも、生まれたばかりのか弱い命を腕の中に抱いた時、彼女の中には言葉に出来ない感慨が生まれたのではあるのだが。
「何か食べた方がいいわよ。欲しいものはある?」
「食べたいものですか……何だろう」
ティナーシャは寝台の上に起き上がる。その手にルクレツィアは水の入ったグラスを渡した。礼を言って彼女は水を飲む。
「そうですね……お菓子が食べたいです」
「菓子? ちゃんとしたもの食べなさいよ」
「まだそれ程食欲がなくて。あのお菓子が食べたいです。貴女が初めて会った時に作ってくれたやつ」
「―――― 随分懐かしいこと言うわね」
ルクレツィアは嘆息した。
400年以上前、ティナーシャがまだ外見通りの少女だった頃に彼女が作った焼き菓子。
その味をまだこの友人は覚えているというのか。何の変哲もないただの菓子のことを。
沈黙してしまったルクレツィアにティナーシャは苦笑する。
「よく覚えていますよ。あの時貴女は『力と時間があれば大抵のことは何とかなる』って言いましたよね」
「言った? そんなこと」
「言いましたよ。無茶苦茶なこと言う人だなぁって思いましたから。忘れられません」
「私はあんたが『助けられる筋合いはない』って言い放ったことの方が印象的だけど」
「そんな失礼なこと言いましたか……すみません」
二人は顔を見合わせる。
長い長い年月。
他の誰とも分かち合うことのできない孤独を、彼女たちは確かに幾許か共有してきたのだ。
二人はどちらからともなく吹き出し、声を上げて笑う。
ティナーシャは隣に寝かされていた赤子を自分の腕の中に抱き上げた。
「記憶が飛んでたり色々ありますけど、魔法湖の昇華も出来て、こうして子供を得られて……人生ってどう転ぶか分かりませんね」
かみ締めるような言葉にルクレツィアはただ友人を見つめた。
憎しみと空虚しかなかったかつての少女。その彼女が今穏やかで幸せな顔をできているのだ。
それを思えば確かに、人生とは捨てたものではないのかもしれない。例え彼女たちが魔女であっても。
ルクレツィアは目を閉じて微笑む。去来する思い出はいずれも途切れ途切れの薄れかけた記憶だ。
魔女の記憶には憎悪も虚脱も満ちている。だがそこにあるものが無意味であると誰が断じることができるだろう。
彼女自身が価値を見出す限り、それらはまた今を作る欠片として息づくはずなのだ。
ルクレツィアは琥珀色の瞳を開けて友人とその娘を見つめる。
いずれも彼女が触れた命だ。助けたいと思った命。
そして、伸ばした手以上のものもまた彼女たちは教えてくれた。
母親の指を小さな手でしっかりと握る赤ん坊を見て、ルクレツィアは思わず泣き出したいような気持ちになる。
だが声だけはいつも通りに彼女は尋ねた。
「本当に菓子でいいの? ちゃんと栄養あるものも食べなさいよ」
「とりあえずは。回復したらまた食べます」
「なら作ってきてあげるから、待ってなさい」
「すみません。―――― ありがとうございます」
ルクレツィアは笑いながら手を振ると友人の部屋を出た。抱えきれない思いを抱いて自宅へと転移する。
数百年を渡り歩いてきた魔女たちの道筋の果てに生まれた子供。
生まれながらの魔女であるその赤子がどういう人生を送ることになるのか、まだ誰もが分からない。
ただそれがルクレツィアともラヴィニアとも、そしてティナーシャとも違う道になればいいと彼女は思う。
力が全てを決めるわけではない。人を動かすのはいつでも人であると、彼女もまたどこかで信じていたいのだから。