mudan tensai genkin desu -yuki
「いけるか?」
「余裕」
妃の返答に王は頷く。
ティナーシャは短く息を吸うと、手の中に作った魔法の矢を打ち出した。
矢は普通の矢が到達できる距離を遥かに越えて真っ直ぐ空中を貫き―――― そして標的をはずした。
王は思わず吹き出すと隣にいる女の頭を叩く。
「全然駄目じゃないか」
「あれ? 難しいんですよ、遠すぎて」
「俺が照準を取る」
オスカーはそう言うと抜いていたアカーシアを仕舞い、代わりに護衛の兵士から普通の長剣を借りた。
少し首を傾げて角度を見やりながら剣を掲げ切っ先を標的へと向ける。
「これの上を滑らせろ」
「はーい」
ティナーシャはもう一度矢を作るとそれを王の持つ剣の平へと乗せる。
意識を集中し軌道を設定すると、無言で矢を打ち出した。
再び空中を矢が走っていく。
人間に目視できるぎりぎりの距離を一瞬で到達すると、魔法で作られた白い矢じりが小さな鐘に刺さった。
次の瞬間、鐘も矢じりもあとかたもなく消滅する。後ろに付き従っていた男たちが感嘆の息を吐き出した。
そしてこれで、ここ一月近郊の村を苦しめていたある騒動が決着することになったのだ。
事の起こりはファルサス南東の小さな山村である。
近くにファルサス一の標高を持つ高山があるこの村は、林業を村民の主な仕事として慎ましやかな生活を送っていた。
彼らは日夜見上げる高山には決してある程度以上近づかない。その山頂にはドラゴンが棲むという言い伝えがあったからだ。
ドラゴンは魔法生物の中でも位階の高い、恐ろしい生き物だ。
暗黒期にはドラゴンの使役を生業としていた竜主士という人間たちも少数いたらしいが、彼らは皆戦乱の中に消え去りその術は途絶えた。
今でもまれに小さい種のドラゴンを使い魔として使役している人間もいるが、それとて非常に珍しいのだ。
ましてや大きなドラゴンなどにはその恐ろしさを弁えている常識人ならば、近づこうという考えさえ起こるはずもない。
しかし、たまに欲に目が眩み、禁を侵してドラゴンに近づこうという者もいる。
ドラゴンの鱗や血、爪などは強力な魔法触媒や魔法薬の材料となるからだ。
その日村は二人組みの旅人を迎えた。
彼らは山頂への近づき方などを迷惑がる村人たちにしつこく尋ねると、装備を整え山道に消えたのだ。
今までもそういうドラゴン目当ての人間が来なかったわけではない。
しかしその大半は逃げ帰ってくる、或いは永遠に帰って来ないだけであったので村人たちも気に留めなかった。
その日の二人は後者だった。彼らは何日経っても帰って来なかった。
だが、その代わりに彼らが消えた3日後から、山頂にはある一定の時間が来ると森を揺るがすドラゴンの咆哮が聞こえるようになってしまったのだ。
はじめは彼らが怒りを買ってしまったかと首をすくめてやり過ごそうとした村人たちも、定期的な咆哮が一週間続き、二週間続き、やがて一月に届こうとした時、
ついに音を上げた。
そして彼らはファルサス王へと嘆願書を送った。
事態を調査し、できれば解決して欲しいと。
結婚してから2ヶ月、まだ新婚と言っていい王はその嘆願書に目を留めると途端に目を輝かせた。
お茶を淹れる王妃に書類を差し出す。
「面白そうだ」
「何ですか?」
カップと交換で書類を受け取ったティナーシャは一通り目を通すと眉を顰めた。小さく溜息をつくと頷く。
「分かりました。行って参ります」
「俺も行く」
「またか! 危ないんですよ! ドラゴンは!」
「ナークは可愛いじゃないか」
「使役されてるドラゴンと一緒にしないでください!」
名前を呼ばれて気づいたのか、窓際で丸くなって寝ていたドラゴンが顔を上げる。
王の使役する深紅のドラゴンは今は鷹くらいの大きさであるが、本来は家三軒分程はある大きい種のドラゴンだ。
もともとはナークは魔女のドラゴンであったが、彼女が数ヶ月前にオスカーへと譲渡して今に至っている。
その為オスカーはこのドラゴンがどういう成り行きで人と共に生きるようになったのか知らない。他のドラゴンなどは見たこともなかった。
「野生のドラゴンは勘がよくて魔法に気づきやすいし、人間の匂いに敏感なんですよ」
「じゃあ遠くから見るだけ」
「ドラゴンの視力がどれくらいあると思ってるんですか、この馬鹿王」
「一度くらい失敗しないと人間は身に染みない」
「失敗したら死にますけどね。これに関しては」
ティナーシャは言いながらも頭の中で装備や人員を計算する。
一度彼がこう言い出したら決して譲らないと、王妃である彼女は既に身に染みていたのだ。
王と王妃は魔法士を三人、護衛兵を二人だけ伴うと村を訪れた。
まさか王本人が来るとは思っても見なかった村長は激しく恐縮し、村人は驚きに熱狂する。
普段は決して山に入ろうとしない彼らも「誰か案内してくれ」と王が言うと若い男たちが数人意気揚々と名乗り出た。
それを見て魔女がパミラに「どうして男の人ってこう無謀好きなんですかね」と愚痴ったが、聞こえたはずのオスカーは何も言わない。
かくして案内の男たち二人を加え九人となった一行はドラゴンのいるという山頂を目指して山を登り始めた。
「夕方になると鳴き声が聞こえると言ったか」
「そうです。何匹もの声が重なって、皆怖がって……」
若い男はそう言ってちらりと王をみやった。彼の肩には小さな紅いドラゴンが乗っている。彼はそれを恐れたのだ。
しかしドラゴンは小さく欠伸をすると目を閉じる。まるで猫か何かのようだ。王は隣を行く妻に尋ねる。
「その行方不明になった二人組みが悪さをしてるとかか?」
「多分死んでますよ。じゃなきゃ逃げたか。一月も山に居たまま何かを出来るとは思えません」
ティナーシャはまとめた髪から零れた黒髪をかきあげる。
徐々に傾き始めた日に呼応するように、涼やかな風が彼女の頬をくすぐっていった。
山道が細く険しくなると一行は魔法の力を借りて更に上へと上っていく。
それがしばらく続いた頃、不意にナークが鋭い鳴き声を上げた。ティナーシャが手をかざして皆を留める。
「どうした?」
「この先は野生のドラゴンの縄張りになっています。これ以上入ると気づかれます」
魔女の言葉にオスカーを除いた全員が息を呑む。王だけは顔を顰めて妻の頭に手を置いた。
「だが進まないと原因は分からんぞ」
「といってもですね……さすがにここのドラゴン全部を相手にしたら山が削れますよ。
標高が低くなりますがいいですか」
「…………よくないな」
景観だけの問題ではない。麓にある森にも影響が出たら困るのだ。オスカーは腕組みして眉を寄せた。
ふとその時、彼の耳に何かが聞こえる。ナークが体をぴくりと震わせた。
数秒遅れて山を揺るがすドラゴンの咆哮が重なる。村の男たちは恐怖に血の気をなくした。
「こ、これは確かに煩いですね」
「よく一月も耐えられたな」
暢気にしているのは王夫妻だけで、あとは城から来た者も若干蒼ざめている。
オスカーは片耳を押さえて軽く頭を振ると再び腕組みした。
「さっき変な音が聞こえたな」
「今も聞こえてますよ。ガオーって」
「それじゃない。もっと澄んだ小さな音だ」
ティナーシャは首を傾げる。そう言われても彼女には聞こえなかったのだ。
飲み込めない表情になった妻にオスカーは肩の上のドラゴンを示す。
「ナークも聞こえたぞ」
「本当?」
ドラゴンは小さく鳴くと主人の肩を飛び立った。縄張りの境界を越えると少し先にある大きな木の枝の手前まで行き空中で羽ばたく。
そのままナークは口を開くと炎を吐き出した。葉が茂った枝は一瞬で黒こげになり崩れ落ちる。
人間たちは何をしているのか、と目を丸くしたが、枝がなくなったことで少し開けた視界の先、遥か遠くを見てオスカーは目を細めた。
「木に鐘がかかってる」
「鐘?」
言われて目を凝らせば確かにずっと向こう、見えるか見えないかのところに光る何かがある。
ティナーシャは戻ってきたナークを抱き取りながら眉を寄せた。
「あれ、ドラゴン避けの魔法具かも……彼らが嫌がる音が出るんです」
「それでか。誰かが持ち込んだものが夕方になると風が変わって鳴るんだな」
王の言葉を証明するようにまた風が吹く。響き渡る咆哮が強くなった。
おそらく彼らは推察の通り、鐘の音を嫌がって鳴いているのだ。
それが聞こえるオスカーも本当に人間なのだろうか、と魔女などは疑ったが、口に出しては痛い目に遭わされることが分かっていたので何も言わなかった。
妻が何を考えているのか露知らぬ王は、彼女が抱いたままのナークの頭を撫でる。
「よし、お手柄だ。ついでにあれを壊して来い」
「待って待って! 駄目ですよ! 行かせないで!」
「何でだ? 同族だろう」
「人間に使役されたドラゴンは野生からは敵とみなされるんですよ!」
ティナーシャは主人の命に応えようと暴れるナークをきつく抱きしめた。オスカーは軽く驚くと命令を撤回する。
「知らなかった。悪い。じゃあ魔法で壊せるか?」
「厳しいですね。あまり強い魔法を使うと気づかれますから……最小限で何とかするしかないです。狙撃かな」
魔女はナークをオスカーの肩に返す。手の中に小さな矢を生んだ。
「いけるか?」
「余裕」
ティナーシャは息を止める。そして彼女は照準を合わせるために目を凝らしたのだった。
無事鐘を破壊した一行は、咆哮が徐々に止んでいく事に気づいて小さく歓声を上げた。
ティナーシャは苦笑しながら近くに転移門を開こうと手をかざす。
だがそれができあがるより早く、風を切る大きな音が体を叩いて彼女は顔を顰めた。
オスカーがアカーシアを抜く。大きな影が彼らの上にかかった。
「ド、ドラゴン……」
震える声は村の男のものだ。今にも腰が抜けそうな様相で彼は頭上を見上げる。
そこには、深紅の目を光らせる巨大なドラゴンが、人間たちを見下ろしながら堂々たる態度で空中に羽ばたいていた。
たった一体とは言え、相手は彼らを既に間近に目視している。
戦うべきか逃げるべきか、城から来た人間は王に決定を問う視線を送った。
けれどその時、誰もが予想をしなかったことが起こる。
事態を動かしたのはオスカーではない。彼の使役するドラゴンが、現れたドラゴンと同じ大きさに変じながら低い唸り声を上げたのだ。
「ナーク!? やめなさい!」
静止の声を上げたのはティナーシャで、しかしナークは紅い瞳に敵意を漲らせながら現れたドラゴンを威嚇する。
ほぼ同じ大きさの二体のドラゴンは瞳も体も同じ色をしており、おそらくは同族なのだということが窺い知れた。
「オスカー! とめてください!」
妻の声に王は軽く眉を上げる。彼は抜いたアカーシアを軽く構えながら自分のドラゴンに声をかけた。
「戦いたいのか? ナーク」
主人の問いを肯定するようにドラゴンは鳴く。オスカーは頷いた。
「分かった。好きにしろ」
「オスカー!?」
ほぼ全員が戦いを予感して身構える。いくつもの構成が瞬時で組まれた。
だがそれは、結局どれも効果をもたらさないまま決着する。
野生のドラゴンは、まるでナークに、そしてその主人にするように羽ばたきを収めると深々と頭を下げたのだった。
「ナークはもともとあの集落の前の王の子供だったらしいんですよ」
月明かりだけが差し込む暗い寝室で魔女はそうぽつりと言った。
彼女を腕の中に閉じ込めている男は長い黒髪を梳きながら部屋の奥に視線を送る。
いつもナークが寝ているはずの窓際には今は何の姿もない。おそらく散歩にでも出ているのだろう。
「100年ほど前に代替わりの戦いがあったようでしてね。
彼の父にあたるドラゴンは、今日現れたドラゴン……今の王に敗北して死んだんです。
私が彼らに出くわした時は、まだほんの子供だったナークは父の遺骸を庇いながらあのドラゴンと戦っていて、
―――― 殺されかけていたところを拾いました」
まだほんの子ドラゴンだったナークを治療したティナーシャは彼を集落に返そうとしたが、ナークはそれを拒んだ。
彼は彼で別の道を、ティナーシャの使い魔となる道を選んだのだ。
魔女の使役を受けてナークは大きさを自由に変えられるようになり、それまでのことを忘れてのんびりと暮らしているように見えた。
だが決してそうではなく、彼は彼でいつまでも父の死の時のことを忘れていなかったと、彼女は今日初めて知ったのだ。
「あの時からたった100年。まだまだナークはドラゴンとしては子供です。なのにまた挑もうとするなんて……」
「戦いたかったんだろう。気持ちは分かる」
オスカーが苦笑すると魔女は沈黙した。
分かるような分からないような気がするのは、彼女にとってはいつまでもナークは拾ってきた時のままのような気がしていたからだろう。
きっと今の自分よりオスカーの方がずっとナークのことを分かっている。
それは嬉しくもあったし淋しいことでもあった。
―――― 結局集落の王はナークとその主人に頭を下げ、彼らの前から姿を消した。
いなくなった仇を睨むように空中を見据えていたドラゴンは、また主人のもとへ、人間の世界へと戻ってきたのだ。
ティナーシャは複雑な感情を抱えて目を伏せる。白い手が夫の肩を撫でた。
「……ナークはいつか、また戦いにあそこへ戻って…………彼らの王となってしまうんでしょうか」
消沈して聞こえる声。オスカーは軽くまばたきする。
「一度使役されたドラゴンは野生にとっては敵なんだろう?」
「そうなんですけど、今日のあれを見ていたら何かそんな気がして」
「行かないだろう」
妙にきっぱりとした断言にティナーシャは彼を見つめた。日が沈んだばかりの夜空の瞳が視線に応える。
それは力のある声。力をくれる目だ。
彼は大きな手で彼女の頭を撫でると、子供に言い聞かせるように、自分よりずっと年上の妻に囁いた。
「ナークはきっとずっと俺たちについて来る。いつでも、どこでもな」
それは過去の、今はもうない時のことを指しているのかもしれない。或いはこれからの果てしない未来のことを。
だが今の彼らにはそのどちらもが分からない。
流れ行く時間の中、見えない先を見据えて歩いていくだけだ。
ただティナーシャは夫を信じて小さく頷く。本当にそうあればいいと、彼女もまた思う。
おそらくナークもそう思っているからこそ、彼らの元へと帰って来てくれるのだから。
翌朝オスカーが目覚めた時、既に小さな紅いドラゴンは窓辺で丸くなって眠っていた。
軽く手を差し伸べるとその気配だけで気づいたのか肩へと飛び乗ってくる。高い声を上げてナークは主人へと頭をこすりつけた。
言葉は通じない。
だがそれは、何も伝わらないことを意味するわけではない。
かつて魔女のドラゴンであった紅いドラゴンは、王の言葉を証明するように1000年を越える長きに渡って彼らと行動を共にしていく。
正体不明の人外と共に時折歴史の上に姿を現すそのドラゴンについて、いくつかの本には記録があるが、彼の名を記しているものはその中には一冊もない。
運命の外周を駆けていくドラゴンの終着がどこにあったのか、それは誰にも語られず埋もれていく真実の一つであるのだ。
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