憧憬の空

mudan tensai genkin desu -yuki

実にいい天気だ。
ティナーシャは自分に浮遊と冷気を合わせた結界を張りながら城の上空に浮かんでいた。
じりじりと照りつける太陽は彼女の肌に汗一つ浮かび上がらせることはできない。
魔女は風のない熱気の中漂いながらファルサス城を見下ろした。
その時直下から男の呼び声が響く。
「ティナーシャ!」
よく知るその声に魔女は溜息をついた。
空中で体を回転すると、露台から自分を見上げる男に視線を合わせる。
「何ですか」
「天気がいいよ。遠乗りに行こう」
「嫌です」
「城都の近郊を案内するよ。いずれここは君の国になるんだから」
「永遠になりませんよ。戯言言ってないで仕事なさい」
冷ややか極まる女の返答に、しかしこの国の王はめげない。
「南の湖の美しさを見れば気が変わるよ。きっと喜ぶ」
「それ、新しい契約条項ですか?」
魔女のいつもの言葉を最後に彼は残念そうに引き下がる。
捨てられた子犬のように恨みがましく彼女を振り返りながら姿を消した契約者を見送って、
ティナーシャは再び盛大な溜息をついたのだった。

レギウスは皆に愛される王だった。
子供のように純真で、真っ直ぐさを以って人を変える。
彼は民を愛し、民は彼を愛する。
彼の治世は穏やかな時代になると誰もが予感していた。
「レグはもうちょっと何とかならないんですか」
毎日の攻勢に疲れ果てた魔女がそう零すと、向かいでお茶の相手をしていたララは吹き出した。
彼女は今年18歳で、宰相である公爵の娘であり、レギウスの幼馴染にあたる。
「馬鹿ですみません。でもあの馬鹿っぽいところが長所なのですわ」
「貴女みたいな方がついているならそれでいいんでしょうけどね。私を巻き込まないでください」
「あら、でも犬みたいで可愛らしいでしょう? 見ていれば魔女様の退屈も紛れるのではないですか?」
先程から馬鹿だの犬だの仮にも自分の国の王に向かってひどいことを言っているが、二人ともまったく気にしていない。
王を一人の青年として値踏みするというよりこき下ろす会話はティナーシャが入城してから5ヶ月、いつものことである。
外見上は15-6歳に見える魔女は飲み終わったカップをテーブルに戻すとそのまま頬杖をついた。
「見ている分にはいいんですけどね。面白いですし」
「是非いつまでもここにいてさしあげてくださいな」
「それは断固拒否したい」
魔女はそう締めくくると首だけで天井を仰ぐ。
ララは物思いに耽る女の姿を笑顔で見つめていた。

「ティナーシャ、今日は君の為に詩を作ってみたんだよ」
「帰れ」
にべもない即答にもレギウスは少し頬を膨らませただけだった。
先にティナーシャの私室に遊びに来ていたララは声を殺して爆笑している。
だが、きっぱりと拒絶したにも拘らずレギウスはいつまでも戸口でぐちぐちと「折角作ったのに……」と煩い。
ティナーシャはしまいに折れてしまった。
「分かりました。聞くだけですよ」
「魔女様、3分しかお預けが持っていませんわ」
「何だか精神力を削られるんです」
女同士の酷い会話が耳に入っていないのか、レギウスは喜色を浮かべると一礼して部屋に入ってくる。
持っていた紙を両手で掲げるとよく通る声で朗読し始めた。
「ティナーシャ、君は日の下で咲く白い花。僕の宝物」
「…………聴覚遮断していいですかね」
子供が作るような詩に頭痛を覚えた魔女が小声で隣のララに尋ねると、既に彼女は腹を抱えて悶絶している。
可笑しい気持ちは分かるが、ここまで笑えるのは他人事だからなのだろう。ティナーシャは落ちかける頭を頬杖をついて支えた。
レギウスも一生懸命だということは伝わってくるのだが、何とも言えない脱力感だ。
たとえ魔女でなくても彼の妻になるということだけは在り得ない未来に思えた。
「愛を注いで花を増やそう。草原が花でいっぱいになるように」
「………………もう、塔に帰りたい」
ララは相変わらず笑い転げている。レギウスは真剣そのものだ。
ティナーシャは誰とも共有できない疲労を全身に感じながら考えることをやめたのだった。

一目惚れなどティナーシャは信じていない。
だからレギウスが抱いているのも何か別の錯覚だと思っている。
初めて彼と顔を合わせた時、彼は満身創痍で今にも倒れそうになりながら最上階の彼女の部屋に入ってきた。
久しぶりの達成者。その果敢な精神に彼女は賞賛を惜しまない。
長い時の中ゆっくりと倦んでいく自分と異なり、彼らはとても美しく見えたのだ。
ティナーシャは、崩れ落ちそうになって踏みとどまる彼の前に歩み寄ると、両掌で彼の顔を包み込んだ。
そこから力を注ぎ、傷を癒す。
「君が魔女?」
「ええ」
レギウスはそこで口ごもった。青い瞳に傷ついたような光が走る。
それがどんな感情を示すものかティナーシャには分からなかった。代わりに別のことを口に出す。
「貴方の連れてきた部下たちは1階で寝てますから、帰りに拾っていってくださいね」
「え?」
「記憶は消してありますけど」
「生きている? 皆?」
青い瞳が丸くなる。まるで子供みたいだ。ティナーシャは苦笑した。
「勿論。生きてますよ。よく寝ています」
踵を返した彼女の姿をレギウスは魅入られたかのように追う。
彼が達成者として魔女に求婚したのはこの1時間後のことだった。

何でここまで執着されるのかよく分からない。
どうもレギウスの目を見るだに崇拝や憧憬の類なのであろう。
魔女をそんな目で見るべきではないと再三説いたが効果はなかった。
あの澄んだ青い瞳には自分は一体どう映っているのか。知りたい気もするし知りたくない気もする。
毎日飽きもしない誘いをしてくる彼は、ティナーシャからするとほんの子供のように見えていた。
「ティナーシャ、薔薇が蕾をつけたね」
「苦労しましたからね。嬉しいです」
執務室の窓から魔女は中庭を見下ろしている。蕾がつき始めた薔薇は彼女が試行錯誤して植えたものだ。
花を育てるということは肉体労働なのだな、とよく思い知ったものであるが、力仕事は魔法を使っていたのであまり彼女に言う資格はないだろう。
レギウスは彼女と並んで庭を見下ろしていたが、幼さの残る整った顔にふと優しい笑顔を浮かべた。
「ティナーシャは育てるのが上手だ。また何かしたくなったらいつでも言って」
魔女は驚いて男を見つめる。
何だか普段の彼ではない、大人びた物言いに聞こえたのだ。
だが少し怪訝そうな顔で見返してくる彼はやはりいつもの彼で、ティナーシャは僅かに感じた驚きを飲み込むと窓に向き直った。
これからどれだけの間、彼の傍にいるのだろう。
恋慕の情では決してない、しかし温かな思いが彼女の間には生まれつつある。
この暮らしと人々に愛着を感じ始めている自分に気づいてティナーシャは自嘲気味に笑った。
魔女がファルサスに居つくなど滑稽だ。
最も彼女と相反するものがこの国には継がれている。
アカーシアという名の魔法士を殺す為の剣が。
たとえこの先何があっても、彼女はタァイーリとファルサスだけには骨を埋めることはないだろう。
魔女は冷えた目で紅い薔薇の蕾を見下ろす。
あの蕾が全て咲ききる前に、この城を離れてしまいたいと、そう思いながら。

ドルーザが攻め込んできたという話を聞いた時、ティナーシャは眉を顰めただけだった。
確かにファルサスには世話になっているが、理由も無く戦争に干渉は出来ない。
極端な話彼女がなりふり構わなければ一人で一国の軍隊を相手取ることも出来るくらいなのだ。
それがやっていいことかどうかくらい彼女は弁えている。
弁えているからこそ塔に棲み、人と関わらないでいるのだから。
だがそうも言っていられなくなったのはその1週間後、魔獣が現れたという報告がファルサス城に入ってきた時であった。
「魔法生物? 魔法湖を使った?」
闇色の瞳が威圧を帯びたのを見て、魔法士長のアクサは怯んだ。
「どうやら制御は完全ではないらしく、ファルサス・ドルーザ両軍に既にかなりの死者が出ています。このままでは……」
彼が何を言いたいのか分かる。ティナーシャの力を借りたいのだ。
巨大魔法兵器など生半可に止められるものではない。それが生物の姿を取っているのならアカーシアでも厳しいだろう。
ティナーシャは両眼に燻る怒りを宿していたが、苦痛を堪えるように目を閉じ、かぶりを振った。
「私は何もしない。そういう契約です」
「魔女様……」
アクサは縋る目をしたが、一瞬でそれを飲み込むと頭を下げた。彼女の前から退出する。
一人になったティナーシャは今すぐにでも魔法湖に行きたい衝動と戦いながら深すぎる溜息をついた。
魔法湖とは彼女の民の魂が縛られている強大な魔法の残滓だ。
禁呪として魂をその場に固着させながら、周囲の生命力を引き寄せ魔力と為す。
トゥルダール最後の女王候補であった彼女にとって大陸に五つ在る魔法湖は単なる墓場以上の存在である。
それを戦争の道具とされることに我慢ならない憤りがあった。
怒気を飲み込んで感情を殺していた二時間後、だが彼女は驚愕に目を見開くことになる。
鎧を着、アカーシアを佩いたレギウスが王としての正装で彼女の前に現れたのだ。
彼は沈痛な色を青い両眼に湛えながらも表情自体は毅然として魔女の前に立つ。
「契約の書き換えをお願いする」
それを聞いた時、ティナーシャは不思議な虚脱感と昂揚を感じた。
胸が熱くなる。
彼が何を望むのか、既に分かっている。それは彼にしか出来ない、やらなければならないことであるのだから。
二人はほんの僅かな時間、見詰め合う。
王としての責務とほんの少しの感傷がそこにはたゆたった。
魔女は澄んだ声で促す。
「新しい願いを」
「レギウス・クルス・ラル・ファルサスは達成者として青き月の魔女に願う。
 どうか現在我が国に攻め入っている魔獣を退け、これ以上の犠牲が出ないようにして欲しい」
「承りました」
ティナーシャは軽く膝を折って礼をする。
1枚の絵のような荘厳な光景に王に付き従っていた者たちは息を呑んだ。
契約は書き換えられ、受諾される。束の間の安息は終わりを告げ、戦乱が歴史を塗り替える。
そして王の魔女は戦線に立った。

魔獣を封じて城に戻ってきたティナーシャは抗えない眠りに自室で休息についた。
目が覚めたら荷物を纏めようと予定に加える。
この生活の終わりは悲しくはなかった。ただ少し淋しいといったらそれは本当だろう。
まるで久しぶりに家族が出来たかのように、温かい暮らしであったのだから。
だが少しの切なさを抱えて眠り、目を覚ました魔女は起きてからやってきたレギウスにもう一度驚かせられる。
子供のように輝く眼差しで「契約は終わりだけれど」と再度求婚してきた彼に激しく脱力した彼女は、 続いて贈られて来たドレスに何も言えなくなった。
ある意味きっぱりと諦めがつき、親しかった人間たちに軽い挨拶だけして城を飛び出す。
王の魔女であったティナーシャが、再び王族との契約をもとにファルサスの城にやってくるのは、この70年後のことである。
彼女は新しい契約者にレギウスとララの面影を見る。
魔女の討伐に来ながら魔女に焦がれてしまった王と、終生彼を支えた有能な王妃の姿を。
彼らの間にあった感情を知る者は最早誰もいない。魔女も語らない。
ただティナーシャは二人の血を継ぐ男と共に歩いていく。
それは掛け替えの無い、ようやく得られた彼女の帰る場所であったのだ。