喪失を埋める絵

mudan tensai genkin desu -yuki

その町に到着した時は既に夜も遅かった。
調査は翌日にして宿を取った彼は、朝になって目を覚ますと隣の女の頭を軽く叩く。
無駄だと分かっているのだがそれでもやってしまうのは、これが朝の儀式のようなものだからであろう。
案の定彼女は眠ったまま余計に縮こまってしまった。
それ以上起こす気にもなれず彼は寝台を出ると支度を始める。
10分程で外出の体裁を整えてしまうと眠ったままの女に声を掛けた。
「一回りしてくる。戻ってくるまでには起きておけよ」
返事はない。
聞こえたかどうかも可能性は低いだろう。
それでも「言ってはおいた」というけじめを得て彼は宿を出ると、大きくはない町の様子を探る為に一人歩き出した。

晴れた日の朝は働き始める人間たちで活気が生まれ始めていた。
国境近くの辺境であり街道からも離れてはいるが、それ程さびれているというわけでもない。
むしろ店が多いところから見て、旅人も定期的に訪れるのかもしれなかった。
オスカーは町の地理を把握しながら歩を進める。この町から北に少し行ったところには領主の城があるはずだ。
だがそこに直接行くまでに情報を集めなければならない。
いくら彼らの時間が無限近くあると言っても押さえるべきところは押さえておくべきだろう。
誰から捕まえて話を聞こうか、そう思っていた彼は広場に出たところで露店商人に呼び止められた。
彼が見るからに旅人の服装をしていた為だろう。商人の男は布の上に広げた装飾品などを示してくる。
「どうだい。こう見えても値打ちものも混ざってるんだよ」
「確かに。これは中々いい細工だな」
オスカーは紅い石がはめこまれた腕輪を手に取る。
年代がかっているが丁寧な意匠は貴族御用達の職人が作ったものかもしれない。
手の中でくるくるとそれを回す彼に商人はにやりと笑った。
「実はそれは由緒ある品でね。昔、魔女を娶ったファルサス国王が妃に贈ったものと言われているんだよ」
「そんな記憶はないな」
オスカーは思わず苦笑したが、その真意は当然ながら商人には伝わらない。
男はまだ少年と言っていい年齢に見える客に笑って手を振った。
「まぁお客さんくらいの年の人にはもっとお手ごろなものがあるよ。こっちとか」
「いやいい。これが気に入った。貰おう」
「へ!? 結構いい値するよ、それ」
「言い値を払う。幾らだ?」
男は驚いたが、少年の所作と雰囲気からいい身分の出なのだろうと判断した。
値段を言うと彼は難なく払ってくれる。
腕輪を懐にしまった少年は、何だか悪戯っぽい笑顔を浮かべていた。
だが彼はすぐに青い目を細めて笑みを消すと、声を潜めて男に問う。
「ところで北の領主について聞きたい話があるのだが、いいか?」
上客の言うことだ。否があるはずもない。
男は2,3度頷くと商人特有のなめらかな喋りで彼の質問に答えていった。

「ティナーシャ、土産があるぞ」
宿に帰ってきた少年は、寝台の上でまだうとうとと眠っている女の耳を引っ張った。
数秒後彼女はうめき声を上げて目を開く。
「おはようございます……」
「強制的に目を覚まさせる魔法とかないのか?」
「うう」
唸りながらも彼女は何とか起きようと努力しているらしい。
緩慢に暴れる腕を取るとオスカーは買ってきた腕輪を嵌めてやった。
ティナーシャは顔を上げてそれを見つめる。
「どうしたんですか、これ」
「俺が昔お前に贈ったらしい」
「………………思い出せません、すみません」
「俺も覚えがない」
女はきょとんとして首を傾げる。猫に似たその仕草に笑いを堪えながらオスカーは腕輪の出所を説明してやった。
理解を得ると彼女は苦笑する。
「吃驚しました。忘れてしまったのかと思って」
「面白かったしいい細工だったから買ってきた」
「ありがとうございます」
彼女はそこでようやく体を起こした。
水を浴びるつもりなのか、掛け布を引きずったまま寝台を下りる。まだ眠いのか途中で2,3歩よろめくと、それで歩くことを諦めたらしく転移して消えた。
空中に消える背中を見送ってオスカーは小さく笑うと「まったく進歩がないな」と呟く。
だが言葉とは裏腹に、その声音は深い愛情に満ちたものだったのである。

身支度を整えた魔女を迎えると、オスカーは部屋に遅い朝食を持ち込みながら得てきた情報を整理した。
彼女はスープに口をつけながら何度か頷く。
「死者と逢える絵ですか。何だか微妙な話ですね」
「元は町の子供の持ち物だったらしい。亡くなった母親にもらったとか。それを領主が力ずくで取り上げて、あちこちに喧伝したわけだ。
 存分な報酬を持ってくれば死者に会わせてやるとな」
「何だか殴りたいですね、その領主」
「好きにしろ」
オスカーは苦笑すると食べ終わった食器を簡単に重ねた。お茶に口をつける。
「どうする? 違っている気もするが、一応確かめてみるか?」
「そうですね……その子にも話を聞いて、領主のところに行って見ましょうか。報酬があれば見られるんですよね」
軽く言うティナーシャにオスカーは首肯する。
現在は何の身分もない二人組だが金銭にはまったく困っていない。
別に城から財産を持ち出したわけではなく、あちこちで魔物討伐を頼まれたり封印された財宝を発掘して売りさばいたり冒険者のようなことをしている為だ。
元々塔を引き払って旧トゥルダール領地の奥深くに館を建てた時に、魔女としてティナーシャに貯まっていた財産も移動させてある。
オスカーは性格的にこの自給自足の生活が楽しくて仕方がないらしいが、旅に出た最初の頃などは世間知らずなところもある彼にティナーシャは色々なことを教えなければならなかった。
今ではそれも板についてきてむしろ彼女が小言を言われているくらいである。
「その子供の家は分かりますか?」
「分かる」
「助かります」
二人は食器を手分けして片付けてしまうと、一夜限りの宿を後にした。

件の子供は早くに父親を亡くし、母親と二人で生活していた。
だがその母親も彼が8歳の時死んだ。その時彼女は子供に「この絵を月夜に見れば私に会える」と言って小さな風景画を残していったのだという。
疑わしい話ではあったが一人きりになった子供は母の言葉を信じて絵を覗き込んだ。
そしてそこで紛れもなく、母に再会したのだ。子供は感激して毎晩母に会えるのを楽しみにするようになった。
しかし話を漏れ聞いた領主がある日やってきて、どうやらその絵を力づくで奪ってしまったらしい。
やがて絵は「死者に再会できる絵」として広く噂が流れ始めた、という次第である。
一人になってから近所の店の手伝いをして暮らしているという子供は、店番中に突然自分を訪ねてきた二人の男女を見て目を丸くした。
「あの絵のこと?」
「そうです。どんな絵だったのか詳しく教えてほしいんです」
にっこりと笑う美女にエミルと名乗る子供は敵意も露わな視線を向けた。
顔を背けながらぶっきらぼうに吐き捨てる。
「あんたも死者に会いたいの? 領主さまのところに行ってお金を積めばいいよ。僕に聞くんじゃなくて」
「別に会いたい人はいませんよ。ただどんな絵だったのか気になるだけです」
ティナーシャは邪気のない穏やかな笑みを見せている。
そこに何かしら今までの人間とは違うものを感じたのか、エミルはやがてぽつぽつと語り始めた。
「ただの風景画だよ。森があって湖がある。そんな大きな絵じゃない」
「お母様はどこに現れるんですか?」
「湖の上に。立って……笑って、声をかけてくれた」
「なるほど」
彼女は顎に指をかけると何かを考え込んだ。闇色の瞳が少年をじっと見つめる。
まるで皮膚を突き抜けて奥底まで見透かされるような目にエミルは本能的な恐れを抱いた。
だがそれも彼女が微笑を作り直すと春の雪の如く溶けてしまう。
「こんなことを聞くのは何ですが、お母様は何故亡くなられたのです?」
「病気で。あまり体が丈夫じゃなかったからあっという間だった」
「遺体は?」
「棺に入れて森の共同墓地に……」
エミルの表情に不安と警戒が揺らぐ。そのことに何の関係があるのだろう。だが女はそれで納得したようだった。
礼を言って店の商品を幾つか購入すると、後ろで待っていた男の隣に戻る。
彼女は少し哀しそうな目でエミルを振り返ると透き通った声で問うた。
「お母様に会いたいですか?」
「それは…………会えるなら、会いたい」
湖に落ちる滴のような少年の言葉。
それが正直な彼の気持ちなのであろう。
同じようなことを願っている人間は大陸に山のようにいるはずだ。
そしてだからこそ、死者を恋う感情を弄ぶ領主がティナーシャは不快だった。
彼女は微笑して手を振るとオスカーと共に店を出て行く。
「なら、会わせてあげます」
という言葉をひとまずの別れの挨拶として。

魂とは、器が死ねば自然と四散する。
例外と言えば禁呪を使って魂だけを留められ、人格もなにもない力の塊になるか、もしくは世界に二人の異質のみだ。
死者との邂逅などありうるはずもない。
だが世界には、ありうるはずもないことを可能にする呪具というのも幾つか存在するのだ。
そして「外部者の呪具」と呼ばれるそれらを探し、破壊することを目的とする二人もまた、人ならざるこの世界の呪具なのである。

ファルサス北の小領主であるケファスはその日の夕方、新たなる客を迎えた。
まだ若い二人の男女。姉弟のような彼らを使用人は最初門前払いしようとした。
若すぎる客が金を持っていることは少ない。そういう人間は大抵直情的にケファスの館を訪れ、拒絶され引き返す羽目になる。
大して豊かでも広くもない領地を治める彼が王侯貴族並みの暮らしが出来るのは、彼の持つ絵とそれを見に来る人間がもたらす財貨の為なのだ。
いちいち貧乏人にまで構ってはいられない。
その二人も旅人の服装に客の資格なしとして追い払われるところであったが、たまたまそこに通りかかったケファス自身が二人を迎え入れた。
理由は何と言っても女の類を見ない美貌の為だ。
20歳前後に見える女はケファスが知るどの女よりも美しく、蠱惑的だった。
これなら彼女自身が金を持っていようといまいと関係ない。普段の報酬の数倍を払っても彼女を手に入れたいと思う人間はいるだろう。
連れの男の方はどうにでも誤魔化せる。駄目なら殺してしまえばよいのだ。
「死者に逢えるという絵が見たくて伺った」
そう言った少年は不思議な威圧と風格を持ちえている。
もしかして貴族か何かだろうか。ケファスは探るような視線で彼を見た。
「勿論その絵はこちらにあります。ですが、見たいという方は後を絶たず、その為……」
「報酬を払えばいいのだろう? これで足りるか?」
少年が差し出した皮袋の中には無造作に一握りの宝石が詰められていた。
そのどれもが庶民は一生手に取ることもない値打ちものだと見て取れる。やはりいい家の出の人間だったのだ。ケファスは息を呑むと頷いた。
「充分でございます。こちらへどうぞ」
鷹揚に屋敷の主人の案内を受ける少年に女が続いた。
ケファスは一瞬警備兵を伴おうかとも思ったが、若い二人組であるし武装もしていない。徒に用心して機嫌を損ねることもないだろう。
領主は長い廊下を歩きながら二人を振り返る。
「お二人はご姉弟様でいらっしゃいますか?」
「いや、これは俺の妻だ」
「え!?」
驚きの余りケファスは足を止めてしまった。まじまじと二人を見る。
確かに年の差は離れていると言っても3-4歳だろう。女の方が年上であり、まだ少年にもかかわらず結婚しているという事例は、結婚によって家同士の繋がりを得る上流の家門には稀にあることだ。だがそれでも違和感があるのは、そんな夫婦が何故旅人のような格好でうろうろしているのかということだろう。
少年はケファスの視線から疑問を読み取ったのか大人びた苦笑をする。
「趣味で旅をしている。気にするな」
そう言われてはそれ以上詮索することは失礼だった。領主は社交的な笑顔になると再び案内を始める。
絵がある部屋は屋敷の奥まった一室だった。
ケファスは3つの扉を鍵を使って開け、最後の一室に入る。
壁に掛けられている絵は確かに大きくは無い。子供でも腕の中に抱えられそうな程の風景画だった。
精密に描かれた森と湖の絵。
女は前に出ると顔を寄せその絵を覗き込む。
「逢いたい人の名を呼び、姿を思い浮かべながら見てください」
詩人のようにもったいぶって説明したケファスはしかし、感傷に浸っているのだろうと思った女が、皮肉な笑みを口元に湛えながら振り返ったことに意表を突かれた。少年が妻に問う。
「どうだ?」
「はずれです。でも確かに残り香がありますね」
「やれやれだ。絵ごと持っていくか?」
「うーん、迷いますね。当事者に判断させましょうか」
分かるような分からないような会話。
しかしケファスは彼らの言葉を理解して血相を変えた。護衛兵を呼ぼうと声を上げかける。
だが、彼の叫びは喉で詰まった。
どこに持っていたのか、彼の首筋に少年が長剣を突きつけたのだ。不敵な表情が秀麗な顔立ちに浮かんで領主はぞっと戦慄した。
「命を取るまではしない。ただこの絵は返してもらうぞ」
「ど、泥棒……」
「泥棒はどっちだ。暴力で奪おうと権力で奪おうと盗人は盗人だ」
不快そうに吐き捨てる少年から視線を転じると、女は壁から絵を下ろしている。
腕の中に絵画を抱えて振り返った女は酷薄な笑みを唇に刻んだ。
「魔族を私欲で使うととんだしっぺ返しが来ますよ。身の程を弁えなさい」
全て見破られている。
ケファスは一転して蒼白になると息も絶え絶えに口を動かした。
「お前たちは何だ……」
「何だと言われてもな。何だろう」
「何ですかね」
暢気な会話を交わす男女。
僅かに引かれた剣を見て、ケファスは驚愕に凍りついた。
「ア、アカーシア……」
「何だ、これを知っているのか。なら話が早い。身に染みたなら二度とこういうくだらん真似はするな。あの子にも近づくなよ」
淡々とした恫喝は威圧が溢れたものである。
領主は壊れた人形のように首を激しく縦に振った。
その隣に絵を持った女が戻ってくる。
彼女はこんな時でもなければ見惚れてしまうような笑顔を見せた。
「私は殴るって言いましたよ」
「好きにしろ」
少年の苦笑を了承として女は細腕を振り被る。
所詮女の力と覚悟を決めたケファスはしかし、次の瞬間不可視の力に全身を軽々跳ね飛ばされ気絶したのだった。

エミルは夜になって再び昼間の男女が訪ねて来たことに目を丸くして驚いた。
もっと驚いたのは彼らが奪われた母の絵を持っていたことである。
「取り返してきた」と言って差し出された絵を少年は震える手で抱きしめた。
その様子を柔らかな目で見ていたティナーシャはエミルの頭を撫でると囁く。
「それで、どうしますか? お母様と暮らしますか? ここに居ますか?」
「……え?」
彼女は一体何を言っているのか。
母は死んだのだ。冷え切った体に触れた感触を今でも覚えている。
そしてその後、絵の中の母親に再会した時の喜びも。
困惑と苛立ちが入り混じった少年に彼女は苦笑した。身をかがめて目線を合わせる。
「落ち着いて聞いてくださいね。お母様は死んでいません。元の棲家に帰っただけです。
 貴方のお母様は水妖なんですよ。貴方は半分その血を継いでいるんです」
魔族と人間の恋は多くはないがまったくないわけではない。
特に美しい容姿を持ち、人間の温かさに焦がれる水妖は、人を恋し相手を追って水場も離れることもよくあるのだ。
だがそれも長くは続かない。10年も元の水場を離れれば水妖は衰弱して死んでしまう。
その為エミルの母も彼を置いて湖に帰ったのだ。離れていても会話が出来るよう精神魔法を込めた絵を置いて。
「その絵は死者と話が出来る絵じゃないんですよ。貴方のお母様に繋がる絵なんです。
 領主は貴方の安全をちらつかせてお母様を脅し、見る人間に精神魔法をかけさせていただけです」
エミルが純粋な人間ではないことはオスカーとティナーシャの二人ともがすぐに気づいた。
彼らは水妖に会ったこともあるのだ。それを踏まえれば真実を推測するのは難しくはない。
死体に思えるのも無理は無いだろう。水妖には本来体温はない。体温があるように思わせていた精神魔法を解いただけなのだ。
ティナーシャはすぐには飲み込みきれないのか、呆然としているエミルを見つめる。
「ここに来る前にお母様とも少し話をしましたが、貴方は人の血を持つ人間だから黙って出て行ったそうです。
 これからこの絵を頼りに今まで通りここで暮らしていても構いませんし、お母様の棲む湖の近くに越すこともできます。
 どうするのかお母様と相談して、自分で決めてください」
湖畔で暮らしたいのなら紹介状を書いてあげます、と付け足すと
最早御伽噺の中にしか存在の痕跡が残っていない魔女の一人は、月下の花のように微笑んだ。

「結局またはずれか」
「そう順調にはいかないものですね。この大陸外にもあるならさすがに途方もないですし」
「時間はいくらでもある。俺は結構楽しいぞ」
本気で言っていることがよく分かるオスカーの表情に、ティナーシャは小さく吹き出した。
そっと体を寄せて指を絡める。
「死んだ人に逢いたいって気持ちよく分かります。私も貴方を失った時そう思いましたから」
大きすぎる感情。
忘れられない喪失を込めた囁きにオスカーはほろ苦く微笑むと妻の頭を撫でた。
呪具である彼らは決して不死ではない。
一度片翼を失えば再び相手が戻ってくるまでの間、ひたすらそれを待ち望んで世界を彷徨わねばならない。
孤独の年月は数年であることもあれば数十年のこともある。
だがそれでも再び逢えるだけきっと幸福なのだろう。二人であるということ自体が終わりの無い旅路に救いをもたらすのだ。
夜空を飛ぶドラゴンの上、二人は他愛無い会話を交わしながら大陸を駆けていく。
彼らの足跡は最早、歴史の表には記されない。
けれど確かに彼らを知る人間も時には世界に残される。
一月後、ファルサス王家の紋章入りの紹介状を持った少年が湖の畔の離宮を訪ね、見習い庭師として住み込み始めることになる。
少年は結局二人の名を知ることはなかった。
だが同時に彼らのことを生涯忘れることもまたなかったのである。