mudan tensai genkin desu -yuki
鬱蒼とした森は、普段は立ち入る人間もいないようだった。
背中に薬草袋を担いだ男は足元を慎重に見回しながら歩を進める。
地図ではこの先は湖になっているはずだ。
道なき道を草を掻き分けながら彼は時折方角を確認した。
最初は幻聴と思った。
こんなところに人間がいるはずがない。
彼も半日以上かけて近くの村からここまで分け入ってきたのだ。その途中何処にも人の足跡はなかった。
だからおそらく鳥の声か何かなのだろう。
そう思いながら湖に向かう彼の耳に、しかし声は次第に大きくなる。
近づくにつれそれは女の歌だということが分かってきた。
聞いたことのない旋律。
細い笛のように澄んだ声。
彼はいつしかその歌に聞き惚れながら、聞こえる方へ聞こえる方へと歩を進めた。
背の高い草を掻き分け、更に先を窺う。
女はその先、湖に面して開けた木の下に座っていた。
彼女の周囲には色鮮やかな蝶が舞っている。
それも数匹ではない。数十匹だ。
まるで紙吹雪のように舞い狂う蝶を、男は唖然として眺めた。
だが彼の目を惹きつけたのは蝶よりもむしろその真ん中に座する女の方であろう。
長い髪は草の上に達し、黒絹の艶を帯びながら広がっている。
日に焼けない白い肌。軽く伏せられた闇色の瞳。
繊細な美貌は絵に描かれた女のように非の打ち所がない。
彼女は遠くから自分を盗み見る男に気づいていないのか、穏やかな愛しむ目で蝶を見上げた。
小さな紅色の唇から旋律が零れ落ちる。
あまりにも非現実的な光景に彼は魂を捕らえられたかのように見入っていた。
やがて歌は空気に溶け入りながら終わる。
我に返った時、彼はいつの間に距離を詰めたのか女のすぐ傍に跪き、白くなめらかな左手を取っていた。
目を丸くしている彼女を見つめ、真剣な顔で口を開く。
「初めまして。結婚してください」
呆然とする女の闇色の瞳に、遅れて失態に気づく光が灯った。小さな唇がわななく。
次の瞬間彼は
「正気に戻れーーー!!」
という叫びと共に、求婚した相手に殴り倒されていたのだった。
「呪歌?」
「そう。呪歌で蝶の繁殖を手伝ってたの。こんなところに人なんていないと思ったから歌ってたのに……」
あの細腕にどんな力が隠されていれば一撃で気絶させられてしまうのか分からなかったが、聞くに彼女は魔法士なのだという。
ならば腕力に魔力でも干渉していたのだろう、と目が覚めた彼は一人納得した。
何となく草の上に正座しながら、苦々しい表情の彼女の説明を聞く。
「僕がそれを聞いたから? 求婚したと?」
「他にないでしょ。もう……解呪を組み込んでなかったのに! 私、解析苦手なのよ!」
怒られているのだろうか、と首を傾げたが彼はそのまま黙っていた。
女は膝を抱えて座りながらぶつぶつと文句を洩らしている。
「何でこんなところにいるの? 迷子?」
「薬草の分布図をつけていたんですよ。僕はそれ専門の魔法士ですから」
「魔法士なの? 全然そうは見えないわ」
「研究系ですからね。実際、魔法はあんまり使えません」
だから歩いてここまで来たのだ。
もっと腕の立つ魔法士ならば、空を飛ぶことも転移も出来ただろう。
彼がそう言うと、女は頷く。
「一応私の責任だから、解呪はします。解析に少しかかるけれど……」
「結婚してしまえば問題ないのでは?」
「どこかの誰かみたいなこと言わないで! 呪歌で男を惑わして結婚したとか知れたら恥で死ねるわよ。
……この辺りに住んでるの?」
「出身はもっと東の小国です。今は研究の為にこの森を調査していますが」
「分かった」
彼女はそう言うと不意に立ち上がり、手を差し伸べた。男はその手を取って立ち上がる。
「解析しにこれから毎日これくらいの時間にここに来るから。出来ればあなたも来ておいて」
「はぁ」
「っと、名前を聞いていなかったわね。私はトリア。あなたは?」
「カデスといいます。別に解析要らないですよ」
「絶対、やだ」
その言葉を最後に彼女は軽く手を振ってその場から消えた。
詠唱もなしに転移を使えるとはかなり強力な魔法士なのだろう。カデスは思わず唖然とする。
彼はもはや誰もいない森の中を見回し、振り返って来た方角を眺めた。
「半日……かかるんだけどな。まぁいいか」
それくらいで毎日彼女に会えるなら安いものだ。
いささか楽観的に彼はそう断じると、機嫌よく鼻歌を歌いながら草の中を元の村へと戻り始めた。
翌日かなり早朝に出たにも拘らず、昨日の場所に到着した時彼女は既に待っていた。
持参してきたらしき水盆の上に構成図を浮かべながら形のよい眉を寄せている。
カデスはその前に座りながら屈託のない笑顔を浮かべた。闇色の瞳が彼を捉える。
「ね、血をもらっていい?」
「死ななければ幾らでも」
彼の了承を得てトリアは白い指を男の手首に触れさせる。
小さな傷ができ、血が球状に吸い出された。何の痛みもなく傷はまた塞がる。
「すごいですね……」
「これくらいは。上には上がいるし」
彼女は血を操作して水盆の中に落とすと詠唱をかけた。構成図が組み替えられる。
これ程緻密な構成など、彼は本の中でしか見た事がない。
解析に集中するトリアの美しい横顔を眺めて、男は呟きを洩らす。
「別に気にしなくてもいいですよ。駄目なら駄目で」
「気になるから嫌」
「それにしても普通、求婚して殴ってくるのは父親だと思うんですが」
「私の父に殴られたら、あなたみたいな細い人は死ぬわよ」
一体どんな父親なのだろう。
カデスは筋肉隆々の大男を想像して、そんな男からどうしてトリアのように優美な女性が生まれるのか首を捻ってしまった。
彼女は構成を睨んだまま白い指に歯を立てる。
「母様なら解けるんだろうけど……ばれたら怒られそうだし……」
「いっそご両親に紹介してはどうでしょう。僕が結婚相手だと」
「何でそう飛躍するの!?」
「至極当然な希望を述べているのですが」
「私の意志を飛ばしてるわよ!」
「残念残念」
本当に残念そうに、しかし暗さはなく男が笑ってみせるので、トリアは困惑して何も言い返せなかった。
変わった男だと思った。
普通呪歌をかけてしまったと言えば怒るか困るかするだろう。
だがカデスは何ら気にした様子はなくいつもにこにこと笑っている。
きちんと毎日やってきて、彼女が詰まっていたり気分転換したいなと思うと、何も言わずともそれを察して色々話をしてくれる。
薬草についての色々な薀蓄は決して女性受けはしないだろうがトリアはそれを面白いと思った。
男の薄い茶色の髪は日に透けると金を帯びる。まるで蜂蜜みたいだ。
呪歌のせいで生まれた感情であるのに大切なものを見るように見つめられて、彼女は居心地の悪さに身じろぎした。
「ちゃんと解くから待ってて」
「別に構いませんよ」
「人に感情を操られて嫌じゃないの? おかしいわよ」
「魔法に限らずとも人は人を惹くものでしょう。
時にそれは外見であったり内面であったり、ささいな思いやりや行いだったりする。
たまたま今回はそれが魔法だった、というだけですよ」
それにトリアが頑固で優しい女性だということは見ていればよく分かりますからね、とカデスは続けた。
彼女は思わず呆気に取られる。
そんなことを言われるとは思っても見なかった。
意表を突かれるにも程がある。
まったく本当に……彼は変わっているのだ。
トリアは赤面してしまった顔を片手で覆うと、拗ねた子供のように横を向いたのだった。
何故今まで恋をしなかったのか、と問われたら「その気になれなかった」としか言い様がないだろう。
彼女の外見に見惚れる男は山のようにいた。
膨大な力を欲しがる人間も。そしてそれ以上に畏れる人間も。
その誰もが彼女を動かさなかった。
結局彼女の理解者は、家族を含め幼い頃から彼女を知っている周囲の存在たちだけだったのだ。
一度そう言った時、父は
「そんなところまで母親に似なくてもいいだろう」
と笑ったが、それ以上忠告も苦言もしなかった。
その日やってきたカデスはトリアを見て目を丸くした。
挨拶もそこそこに切り出す。
「怒ってます?」
「怒ってないわよ」
「嘘。ピリピリしていますよ。何かありましたか」
それまで平静を保っていたトリアは唇を曲げた。
自分が分かり易いのか、彼が聡いのかは分からないが機嫌の悪さを看破されたのだ。
彼女は水盆を脇に置くと溜息をついて天を仰いだ。
「弟たちに行き遅れになるって言われたの! 失礼にも程があるわ。
将来奥方が出来たら子供の頃の恥ずかしい話暴露してやる……」
「おいくつなんですか、トリアは」
「24」
「どこが行き遅れなんですか」
「周りは20になる頃には皆結婚するわ」
「じゃあ僕と結婚しましょうか」
「あなたね…………」
否定の言葉をあげかけて、しかしトリアは何だか脱力してしまった。
代わりにふつふつと可笑しさがこみ上げてくる。
堪えきれず肩を震わせ始めた女を見て、カデスは首を傾げた。
「ついに心の琴線に触れましたか?」
「笑いの琴線に触れたわ」
「残念……」
それさえも彼は真面目な顔で本当に残念そうに呟く。
そんなカデスの表情に、トリアはついに声を上げて笑い始めた。
共にいる時間が楽しかった。
家族の話、魔法の話、遠い国の話、この森の話、生き物のこと、草花のこと。
話はつきず、退屈もしなかった。
彼といる時は時の流れが早い。
そして一人で明日を待つ夜は……いつの間にかとても長かった。
だからこそフィストリアは不安になった。
温かさに怖くなった。
彼が自分を見てくれるのは呪歌のせいであり、彼が自分を恐れないのはその正体を知らないゆえのことなのだから。
カデスは構成の浮かび上がる水盆を覗き込んだ。
おそらく彼には何だか分からないであろうに、やたらと頷く姿をフィストリアは可笑しく思う。
小さな笑い声に気づいたのか彼は振り返った。
「もう一月ですけれど、解析はどうなのです?」
「今8割ってところ。あと少しなんだけど……」
「この水盆壊していいですか?」
「いいわけないでしょ!」
カデスは腕組みをして残念、と呟いた。
その横顔をフィストリアは一抹の淋しさを以って見つめる。
早く解析を終わらせてしまいたかった。長引けばそれだけ後が哀しくなるような気がしたのだ。
「トリア? どうかしましたか?」
「何でもないわ」
「でも淋しそうですよ」
男の手が伸ばされる。
彼女の頭を撫でようとしたその手を、フィストリアは反射的に取っていた。
大きな手。剣を持ったことのない、でも温かい手だ。
薬草を摘んだ時に出来たのか、小さな傷があちこちにある。
こんな傷も治せない魔法士だ。それともわざとそのままにしているのだろうか。
草花を慈しむ彼ならば、そうなのかもしれない。
男の手の平を注視する彼女は不意に泣きたくなって唇を噛んだ。
何も悲しいことなどないのに、何故胸が熱くなるのだろう。
顔を上げると心配そうな表情でカデスが彼女を覗き込んでいた。
「トリア? 疲れたんですか?」
その問いに彼女はかぶりを振る。
無言のまま手招きでもう一方の彼の手を取ると、フィストリアは微笑んだ。
「カデス、魔女って知っている?」
「それは勿論。一応魔法士の端くれですから」
「私も、そうなの」
「……え?」
フィストリアは泣き出しそうな顔で笑う。
次の瞬間二人は、湖の遥か上空に転移していた。
カデスは何もない空中に立っている自分と、眼下に広がる湖に絶句した。
自分の手を取る女を見ると彼女は自嘲ぎみに微笑んでいる。
「魔女? トリアが?」
「そう……だから、こんなこともできる」
女の白い手に力が灯る。
そこから詠唱もなしに複雑な構成が組まれ、下方の水面に注がれた。
水がざわめく。
小さな穴が湖の中央に空き、水を外に避けながら広がっていくのを見て彼は声にならない息を洩らした。
詠唱もなしに水を割るなど普通の魔法士に出来ることではない。
人間技ではないと言ってもいいだろう。
そしてその異質な程強大な力を持つ女たちを、人は魔女と呼ぶのだ。
驚愕の声を呑みこんでカデスは再び彼女に視線を戻した。
「凄いですね……。
あ、もう戻していいですよ」
あっけらかんとした感想。
女は思わず気を抜かれて闇色の目を丸く見開いた。
「…………それだけ?」
「ええと、反応が薄かったですか? わー、すっごい!」
「棒読みじゃない」
「演技の才能はまったくなくて。ごめんなさい」
「怖くないの? 魔女なのよ?」
闇色の目が、まるで子供のように不安げに輝く。
その光を見て取ってカデスは微笑した。
握ったままの片手を強く握る。
「あなたが魔女なら、怖くはないです」
そう告げると彼は、魔女の白い手にうやうやしく口付けた。
彼は、何てことを言うのだろう。
フィストリアは本当に泣きそうになる感情を堪えて構成を組んだ。
カデスを伴ったまま門を開き、長距離転移をする。
二人が出た場所は城の奥宮の来客用の広間だった。
男は突然の見知らぬ場所に辺りを見回す。
「母様! 母様! いるんでしょう! お願い!」
「どうかしました? フィストリア」
娘の呼び声に応えて一人の女が顔を出す。
24歳のフィストリアよりも若く見える母親は、しかし彼女そっくりの美貌の持ち主だった。
母親は長く白いドレスを引きずって部屋の中に入ると、娘が連れている男に首を傾げる。
「お客様ですか。珍しい」
「母様! この人に呪歌をかけてしまったの……解いて頂戴!」
「呪歌を? 何やってるんですか。構成分かりますか?」
フィストリアは頷いて手元に水盆を転移させるとそれを母親に渡す。
母親は水盆上の構成とカデスを何度か見比べたが、軽く頷くと構成に詠唱をかけ始めた。
「10分かかります。お客様にお茶をお出ししてなさい」
「はい……」
消え入りそうな声で返事をすると、彼女はカデスを見ないようにしながら広間を出た。
もっと早くこうしていればよかった。
母に怒られるとしても、彼といつまでも一緒にいては駄目だったのだ。
長く居ればそれだけ後が哀しくなると、分かっていたはずなのに。
涙を堪えて彼女は女官を呼ぶと、出来るだけ時間をかけてお茶を用意した。
何度も深呼吸をし、精神を整えながら広間に戻る、途中で父親に出くわす。
彼はフィストリアを見て眉を寄せた。
「どうした。ルイスと喧嘩でもしたか?」
「してない。平気よ父様」
こんなことを聞かれてしまうのは、自分の表情が戻りきってないのだろう。
それとも勘のいい父だからこそ気づかれたのだろうか。
フィストリアはかぶりを振った。努力して意識を切り替える。
魔法士であるならば感情を統御すべきだ。
そう言い聞かせて彼女は精神を落ち着かせた。
怪訝そうにその様子を見ていた父は、娘の運んでいる盆の上のカップの数に気づいたらしく「来客なのか」と問うてくる。
「ちょっと母様に解呪を頼んでいるの……すぐ済むわ」
「何だ。あいつが出ているのか。終わったら記憶操作しておけよ」
「分かってる」
言われなくても消してしまうつもりだった。
この一ヶ月のことを、始めから全部。
そうしてもう会わなくなれば、いずれは自分も忘れてしまうだろう。
それでいい。
これ以上は望めない。
魔女が怖くないと言ってくれただけで……もう充分だった。
気になるのかついてくる父と共にフィストリアは広間に戻る。
そこでは既に解析が終わったのか、母がカデスに解呪をかけているところであった。
「まったく。呪歌を使う時は解呪を組み込みなさいね」
「ごめんなさい……」
「比較的軽かったからよかったものの、これ以上複雑だったらラヴィニアのところまで行かないと駄目でしたよ」
当然の説教にフィストリアは項垂れた。
だが顔をあげられないのは、説教だけが原因ではないだろう。
いまや呪縛を解かれたカデスがどんな顔で自分を見ているのか知りたくなくて、フィストリアはただ顔を伏せていた。
冷たい目と視線が合えば、きっとしばらくは立ち直れない。
だからこそ彼女は彼を見るのが怖くて、ずっと俯いていたのだ。
その耳に能天気な声が飛び込んでくる。
「お母上はトリアとそっくりなんですね。姉妹にしか見えませんが」
「外見年齢は気にしないでください。よくあることです」
「トリア、凹んでいないでちゃんと僕を紹介してくださいよ。結婚相手だって」
「何で!?」
あまりのことにフィストリアは叫びながら顔を上げる。
その視線の先に立っているのは、今までと何ら変わりのない愛しむようなカデスの笑顔だった。
動転する娘と顔を引き攣らせる夫を抑えながら事情を聞きだした母親は、腕組みをすると深い溜息をついた。
顔色が真っ赤と真っ青を行ったりきたりしている娘をねめつける。
「フィストリア……呪歌で恋愛感情なんて操れるわけないでしょう。元があればそれを煽るくらいは出来ますが。
この人にかかっていたものもそもそも人間には無効なものでしたよ」
「だ、っていきなり結婚して欲しいって……」
「そういう人間は結構世の中にいます。気にしたら負けです」
母親の言葉には妙に実感がこもっている。
フィストリアは困り顔で、本当の求婚者となった男を見つめた。
彼は少し照れたように微笑む。
「初めて見た時、蝶を大切そうに見ていたでしょう?
その目がとても綺麗だと思ったんですよ。
事実、あなたは僕が思った通りの人だった」
真摯な目。
それはいつでも真実しか語らないのだ。
フィストリアはぽつりと呟く。
「私、魔女なのよ」
「そうですね。丁度僕はこんなですし、二人で足して割ればいいんじゃないでしょうか?」
「…………何それ」
何の算数だというのだろう。
彼にかかると、世の中に重大事など何もないようにさえ思えてくる。
フィストリアは何度か口を開きかけたが、結局はその全てを飲み込んでやっと微かに笑った。
一人だけ不機嫌な父親がそれを見て顔を顰める。
「こいつはファルサス王女だぞ。それに求婚するとはどういうことだか分かっているのか?」
「王女? トリアが?」
「そう。フィストリア・アス・エルディア・フィリア・ファルサス。俺の娘だ」
カデスはさすがにきょとんとした。
視線を順に動かして3人の親子を確認し、最後にもう1度フィストリアを見る。
「それは……ご無礼を致しました、殿下」
「無礼なんて受けていないわ」
「そうですか。なら」
彼は王女の前に歩み寄ると片膝をつき、白い手を取る。
それはまるで忠誠を誓う騎士のように堂々たる仕草だった。いつもの真面目な顔が彼女を見上げる。
「改めて申し込みましょう、殿下。私の妻となって頂けませんでしょうか」
潔くひたむきな目。
融通の利かない純粋さ。
胸が詰まるほどの想いがそこにはある。恐れを忘れさせる程温かい。
彼がくれる全てが得がたく、貴く思えた。
ただ奇跡のように愛しい。
まだ若い魔女は闇色の両眼に涙を浮かべながら微笑む。
そして彼女は優美な所作で軽く膝を折ると、求婚者に向かって「喜んで」と囁いた。
魔女から生まれた魔女は、湖の傍に建てられた離宮において夫と共に短い人の生を全うした。
その生涯は穏やかな愛情で彩られたものであったと、人々は伝える。
彼女の死より200年後、魔法大国となったファルサスの記録庫にはささやかな恋物語が眠っている。
もはや紐解く者がいないそれもまた、連綿と受け継がれる血が生み出す、古い御伽噺の一つなのだ。
Copyright (C) 2008 no-seen flower All Rights Reserved.