後日談:同じ空

mudan tensai genkin desu -yuki

何の変哲もない日だ。
いつも通り寮に帰り、いつも通りベッドに入る。
そして眠りにつく。――夢の中に落ちていったはずの意識が、鏡面の空を越えるのは半年ぶりのことだ。

目覚ましに似た電子音が耳元で鳴っている。
徐々に間隔が狭くなるそれは、やがて一本の線のように連続して彼の意識に寄り添った。
目を開ける。白い空、ではなく天井が見える。
「起きた」
ぽつりと呟くと、傍で人が動く気配がした。
仮想世界の時間で半年に一度やって来る調整と身体検査の日。
だが「瀬戸アキラ」はもちろんそのことを覚えていない。覚えているのは本来の彼だけだ。
何度かまばたきをした彼は、器具をはずすため隣に立った少女を見上げる。
白衣を着ていながら長い黒髪を束ねていない彼女は、一瞬だけ彼を見て、だがすぐに無言で種々のコードをはずしていった。
各部の拘束も解かれ、少女の手を借りて体を起こした彼は、見慣れた白い部屋を見回す。
「報告と調整を」
いつも通りの言葉を口にしてから、彼はそれがまだ必要なのだろうかと考えた。
しかし、壁際に立っている男は気にした風もない。
仮想世界の最高管理者とも言えるバイロン・ハーディは「来なさい」とだけ口にして、そこにある椅子を示した。
向かい合って座るわけではない椅子は、壁に設置されたシステム端末へとむいている。
彼は少女の手を借りて立ち上がると、ゆっくりと一歩一歩あるきだした。久しぶりの動作に、多少の違和感を覚える。
ようやく椅子に座ると、彼は自分のIDでログインし、管理画面を開いた。
バイロンが「調整箇所を」と促す言葉に、決められたチェック項目から挙げていく。彼の音声を認識して、モニタにログが流れていった。

兄がいた仮想世界をはじめて体験してから三年。その間、身体検査のために何度かこうして起こされた。
そうして何度目かの覚醒時――彼はバイロン・ハーディと話し合って決めたのだ。
自分がたんなる被験者を越えて、管理側の人間となることを。
もともと仮想世界に入った時には、苦労して入った大学を半ばドロップアウトしていた。
そのような自分が、今は身分上「研究員」だというのだから、これは社会復帰していると言っていいのかどうか。
各都市に一人ずつしかいない「世界内管理者」である彼は、けれど「瀬戸アキラ」である時はそのことを覚えていない。
いつも通りの報告を重ねていった彼は、不意に言葉を切るとバイロンに問うた。
「それで、どうなったんですか」
「どうなったとは?」
「ゲームの結果について」
――このプロジェクトは解体され散り散りになるのではないか。
当然の懸念を彼が口にした瞬間、だが背中にどんと固い感触がぶつかった。
振り返ると大きな目に涙を溜めた少女が、拳を震わせて立っている。
「お、覚えているんじゃないですか!」
「……覚えてなかったら仕事できないし」
「何も言ってくれないとか、ひどいです!」
「シェラが何も言わないから。触れない方がいいかと思ったんだよ」
一応反論してみたが、シェラは「ひどいひどい」と言い続けている。
だがそれも無理のないことかもしれない。今の彼は「瀬戸アキラ」とは年齢も外見も違う。彼女からは声がかけにくかったのだろう。
ひとしきり彼をなじったシェラは、ぶすっとした顔で腕の中の書類に目を落とす。
「システム運営の現状については、私から後ほど説明いたします。……セト・アキヨシさん」
「アキラでいいよ」
昔から家族にはそう呼ばれていた名を明良が口にすると、シェラは瞬間息を止めて、だが花のようにはにかんだ。
懐かしいその笑顔に、明良は自分もつられて微笑む。

仮想世界が存続していくのなら、「現実」で彼がこうして過ごす時間はほんのわずかだ。
だがその間に一度彼女と外に出てみるのもいいかもしれない、と明良は思う。
そうやって空を共に見上げて、いつかのように手を取る。同じ空の下、同じ地に立つ。
たとえ「瀬戸アキラ」がそれを覚えていられずとも――彼女はきっと忘れないでいてくれるのだから。