沈黙の薬

禁転載

二人の間では喧嘩はさして珍しいことでもない。
むしろ日常茶飯事と言ってもいいだろう。基本性格の異なる彼らは、意見を違えることばかりである。
しかしそれは、普通の喧嘩と言えるような喧嘩ではない。
大国の王太子である少年と、臣下の娘。
彼らの間に亀裂が入る時、訪れるものは主に冷ややかな沈黙であった。

部屋の中に立ちこめるものは、どう繕っても「いやな空気」でしかない。
うっかり訪ねて来てしまったレーンは、見るからに不機嫌そうな兄を見て頭を抱えたくなった。踵を返して逃げ出したくなるが、迂闊にそれをしては呼び止められてしまう。彼は結果、「ちょっと遊びにきてみた」と平坦な口調で呟いて項垂れた。
そんな弟を一瞥したセファスは、薄い微笑を湛えて部屋の奥の椅子に座している。
彼の前には無表情の少女が立っており、この部屋の嫌な空気が二人の間に起因することは明らかだった。
人形のように固い表情のジウは、視線に責めるような色を僅かに滲ませセファスを見下ろす。
「では、どうしても聞き入れてくださらないということでしょうか」
レーンが来るまで続いていたのであろう沈黙は、少女のそんな言葉で打ち破られた。
セファスは上品かつ辛辣な笑みで幼馴染に返す。
「それについてはもう答えたと思うけどね。君は僕と行く気がないんだろう?」
「私のような者が顔を出してよい場ではございません」
「いいかどうかは僕が決める。
 ―――― が、君が嫌だというのなら構わないよ。あんな馬鹿馬鹿しいところ、僕だって行きたくはない」
「殿下は出席なさらなければなりません」
今のやり取りで大体を察したレーンは、心中で「またか」と呟いた。
おそらく貴族か何かの招待を受けたセファスは、そこにジウを連れて行こうとしたのだろう。
だが彼女は、家名持ちとはいえ貴族階級の人間ではない。引け目を感じて―――― などという性格ではないのだからおそらく、分を弁えて出席を拒んだようだ。
そして冷ややかな沈黙に至った、とレーンは分析する。

王太子の我侭は今に始まったことではないが、ジウはそれを聞かない数少ない人間の一人である。
おそらく今回も彼女は要求を突っぱねて終わるだろう。レーンはこっそり部屋から出て行こうと体の向きを変えた。
だがその時、ジウもまたセファスに一礼して扉の方へと向かう。
「お開けします」とレーンに先行して扉を開けようとする彼女に、レーンは心の底から「やめてー」と懇願した。背中に兄の冷たい視線が刺さっている気がする。
弟王子の為に逃走経路を開いた少女へと、セファスの重い声がかかった。
「戻ってきなさい、ジウ」
―――― これは結構怒ってる、とレーンは思いつつ、そそくさとその場から逃げ出す。
一方ジウは言われた通り、再びセファスの前へと戻った。
再び生まれかけた沈黙を断ち切るように彼は溜息をつく。
「手を出しなさい」
「はい」
ジウは手袋を外し、ほっそりとした手を少年に差し出す。
その手を叩かれたことは過去一度しかない。彼女はセファスを疑いもしなかった。
彼は少女の手に目を落とし、整った顔を顰める。そして何も言わず彼女の掌に口付けた。
「……っ」
思わずぎょっとしてジウは手を引く。
その様をセファスは笑いもせず見上げた。芯のある声が続く。
「来なさい」

頼みごとの出来ない彼の命令を、突っぱねることの出来る人間はそう多くない。
だが少数派の一人である彼女も、たまには抗えない時というものがあるのだ。
彼の一言にその真意を見て取った彼女は、表情を崩し苦い顔になる。
「……少しだけでよろしいのなら」
「充分だ。僕も元から長居をする気はないからね」
途端に機嫌のよくなった少年に、ジウはひそやかに溜息を飲み込む。
彼らの日々はおおむね、このように平和なものだった。